第12話 香都ラサール
それから半日ほど進んだ頃、窓の外を流れていた景色から森が消え、乾いた土と低い草原が広がり始めた。
窓を開けると、土の乾いた匂いに混じって、どこか甘く、それでいて鼻の奥を刺激するような香りが風に乗ってきた。
「……なんだ、この匂い」
どこか懐かしい気もするのに、何の香りかまでは思い出せない。
遠くには石壁で囲まれた町と、町の外側まで続く広い畑が何区画にも分かれ、背の低い草木や色鮮やかな実をつけた植物が育てられている。
さらに町へ近づくにつれて、風に混じる香りは濃くなっていった。
どうやら、もう次の町らしい。
一階へ降りると、ルーエはすでに外出用の鞄を用意していた。
足元では小さくなったムムが鞄の中を覗き込み、何か食べ物が入っていないか確かめている。
「もう着くのか?」
「はい。あと少しで《香都ラサール》です」
「香都?」
「香辛料の取引で栄えた町だそうです。この地方で採れるものだけでなく、南方や海の向こうから運ばれてくるものも集まると聞きました」
「そんなにあるのか」
「はい。ですので今回は、私も少し多めに買っておこうかと」
その言葉に、鞄へ頭を突っ込んでいたムムが勢いよく顔を上げた。
「むぅ!」
「ムムの食べ物だけを買うわけではありませんよ」
「むぅ……」
露骨に肩を落とした。
「町のことは、まだよく知らないんだよな。俺も一緒に見て回っていいか?」
「もちろんです。町へ入りましたら、宿は外れに置いていきますので」
「分かった」
フォルネアの時と同じように、ソムニウムは町から少し離れた街道脇へ停められた。
俺たちは小さくなったムムを連れ、町へ向かった。
門をくぐった瞬間、思わず足が止まる。
「……すごいな」
外でも感じていた香りが、一気に何倍にも濃くなった。
大通りの両側には布張りの露店や木造の商店が隙間なく並び、店先には色とりどりの粉や種、乾燥させた葉や実が山のように積まれている。
赤、黄、茶、深い緑。
見た目だけなら食べ物なのか薬なのかすら分からないものも多い。
店主が小さな匙で粉を掬うたび、風に乗って香りが変わる。
甘い匂いの直後に、鼻を刺すほど鋭い香りが漂い、その次には森の中にいるような青い香りがやってくる。
「くしゅんっ」
隣でルーエが小さなくしゃみをした。
「大丈夫か?」
「はい。少しだけ、鼻に入りました」
「むっ……むぅ!」
続けてムムまでくしゃみをし、ルーエの腕へ顔を埋める。
「お前は鼻がいい分、きつそうだな」
「むぅ……」
通りには香辛料だけでなく、それを使った料理も溢れていた。
赤い粉をまぶした串焼き、黄色い米と煮込み肉、香草を挟んだ薄焼きの生地。
どの店からも違う香りが漂ってくる。
「これは……全部食べてたら何日かかるんだ」
「しばらく滞在されますか?」
「それもありだな」
安住の地探しを忘れたわけではないが、町を知るには食べ物からでもいい。
それに、今のところ俺を勇者だと気づく者もいない。
匿名性も悪くなさそうだった。
「リヴェルさん。こちら、見てもいいですか?」
「ああ」
ルーエが足を止めたのは、大きな香辛料店だった。
軒下には何十種類もの袋が並べられ、それぞれに名前と産地が書かれている。
店の奥には石臼まで置かれ、買った種や実をその場で粉にしてくれるらしい。
「こんなに種類があるんだな」
「料理によって混ぜ方を変えるそうです」
ルーエは一つずつ香りを確かめながら、肉や魚、煮込み、菓子に使うものを店主へ尋ねていく。
俺には半分も覚えられそうになかった。
「これは?」
一つの袋を指差す。
中には、黄色に近い茶色の粉が入っていた。
「それは単体ではなく、いくつかの香辛料を混ぜたものですよ」
店主が答える。
「肉や豆を煮込む時によく使います。辛味と香りが強いので、入れすぎには注意が必要ですが」
「混ぜた香辛料……」
店主が小皿へ少量を取り、香りを嗅がせてくれた。
鼻を近づける。
瞬間、頭の奥で何かが引っかかった。
「……あ」
懐かしい。
まったく同じではない。
けれど、いくつもの香辛料が混ざったあの匂いは、二十三年以上触れていなかった記憶を一気に引っ張り出した。
白いご飯。
茶色い、とろみのある汁。
肉と玉ねぎと、人参とじゃがいも。
湯気と一緒に立ち上る、食欲を刺激する匂い。
「リヴェルさん?」
ルーエがこちらを見る。
「……カレー」
「かれー?」
「ああ」
思わず笑ってしまった。
「前にいたところで、よく食べてた料理があるんだ」
「こちらの香辛料を使うのですか?」
「たぶん。というか、かなり近い気がする」
もう一度香りを嗅ぐ。
腹は減っていなかったはずなのに、記憶の中の味を思い出した途端、口の中に唾液が溜まった。
「どのようなお料理なんですか?」
「茶色くて、とろっとしてて……辛くて、でも少し甘くて」
「はい」
「肉と野菜が入ってて、白い飯にかけて食べる」
「なるほど」
ルーエは少し考えた。
「それだけですか?」
「……それだけだな」
見た目も、味も、食材も覚えている。
なのに、どう作るのかと聞かれると驚くほど何も出てこない。
前世では、わざわざ一から香辛料を調合したことなどなかった。
店で食べるか、市販のものを鍋へ入れていただけだ。
「でも、食べたいな」
口に出してみると、その気持ちは思っていたより強かった。
二十三年。
食べたいと思うことすら、いつの間にか忘れていた味だった。
ルーエはそんな俺を見たあと、香辛料の並ぶ棚へ視線を戻した。
「でしたら、作ってみましょうか?」
「いいのか?」
「はい。私も、その料理には興味がありますので。ただ……何度か試さないと、再現するのは難しいかもしれません」
「ルーエなら、すんなり作れそうだけどな」
「……リヴェルさんの情報が、もう少し詳しければそうかもしれませんね」
眠たげな瞳はそのままだったが、僅かに細められ、じとっとした視線がこちらへ向けられていた。
「すまない……。そこは否定できない」
「むぅ……」
何も分かっていないはずのムムまで、ルーエの視線から逃れるように鞄へ顔を突っ込んでいる。
こうして香辛料の町へ着いて早々、俺たちは名前と曖昧な味の記憶しか分からない料理を再現することになった。




