第8話 白い魔力
山道を登るにつれて、周囲の空気は急激に熱を増していく。
町を出た時には涼しかった風も、今では肌を炙るような熱気を孕み、息を吸うたびに喉の奥まで乾いていくようだった。
焦げた草木の匂いが鼻を刺し、道の両側には炎に舐められて黒く炭化した幹が並んでいる。
さらに先から、岩でも砕けたかのような轟音が響いた。
木々の隙間で赤い光が瞬き、少し遅れて押し寄せた熱風が枝葉を激しく揺らす。
「……あっちか」
音のした方角へさらに速度を上げる。
数分もせずに山を駆け上がると、不意に木々が途切れ、視界が大きく開けた。
山肌を穿つように、巨大な窪地が広がっていた。
地面を走る幾筋もの亀裂からは赤く熱せられた岩が覗き、その奥を流れる火脈が、脈打つ血管のように明滅している。
その中心に、一頭の竜が陣取っていた。
赤黒い鱗に覆われた巨体は、ちょっとした建物ほどもある。
大きく広げられた翼の膜は立ち上る熱気の中で揺らめき、岩盤へ食い込んだ四肢の下では、火脈の赤い光が吸い上げられるように薄れていた。
竜が息を吸うたび、胸元の鱗の隙間から赤い光が漏れる。
火脈から奪った熱を、そのまま体内へ蓄えているらしい。
手前では十人ほどの冒険者が岩陰に身を伏せていた。
盾の表面は炭のように黒く焼け焦げ、何人かは腕や頬に火傷を負っている。
「もう一度だ!」
大盾を構えた男が、仲間を鼓舞するように叫ぶ。
「次に炎が途切れたら、左右から一気に距離を詰める! 首は狙わなくていい! まずは翼を——」
その声を掻き消すように、竜が咆哮した。
大きく開かれた顎の奥で、赤ではなく白に近い光が急速に膨れ上がる。
それを見た冒険者たちは、指示を待つまでもなく一斉に盾の陰へ飛び込んだ。
直後、火脈の熱を限界まで圧縮した白炎が吐き出され、草を消し炭に変え、岩の表面まで赤く溶かしていた。
だからといって、俺にとって厄介な相手というわけではなさそうだった。
火脈から力を得ている分、吐き出す炎だけは強い。
だが、奪った熱を御しきれていないのか、呼吸は荒く、巨体のわりに動きも鈍い。
鱗の厚さも、魔王軍で何度も相手にした竜種と比べれば、大したものではなさそうだった。
「おい、あんた!」
俺に気づいた冒険者が、岩陰から身を乗り出して声を上げた。
「何をしている! 早くこっちへ入れ!」
「大丈夫だ」
「大丈夫なわけがあるか! 次が来るぞ!」
その叫びに反応したわけではないだろうが、竜がゆっくりとこちらへ顔を向けた。
新たに現れた人間を敵と認識したのか、胸部の鱗の隙間から漏れていた赤い光が一段と強まり、喉の奥へ火脈から奪った熱が集まっていく。
俺は腰の剣を抜き、そのまま足を止めることなく竜へ向かって歩いた。
「待て! 死ぬ気か!」
背後から冒険者の声が飛んでくるのと、竜の喉が大きく膨れ上がったのは、ほとんど同時だった。
次の瞬間、開かれた顎の奥から白炎が迸り、窪地を埋め尽くす勢いで正面から押し寄せてくる。
俺は剣へ魔力を流し、白い光を帯びた刃を横へ一度振り抜いた。
押し寄せる炎が真っ二つに裂け、巨大な火の奔流が俺を避けるように左右へ分かれていく。
そのまま、二つに割れた炎の間を歩いた。
「……嘘だろ」
冒険者の誰かが、掠れた声を漏らした。
竜が首を振って炎を浴びせようとしても、剣を振るうたびに火の流れは身体の脇へ逸れていく。
竜の影が頭上を覆うほど近づいたところで、ようやく炎が途切れた。
竜は大きく息を吐き出すと、炎が通じないなら押し潰せばいいとでも判断したのか、岩を抉るほどの前脚を振り上げる。
俺は落ちてくる巨大な影を見上げ、叩きつけられる寸前に横へ半歩だけ身体をずらした。
爪が地面へ激突し、轟音とともに岩盤が砕ける。
舞い上がった石片の間を抜けながら、その前脚へ足をかけた。
硬い鱗を蹴って腕を駆け上がり、その勢いのまま肩へ移ると、首の付け根を目がけて跳ぶ。
竜は俺を振り落とそうと巨体を捻り、翼を大きく広げた。
「悪いな」
宙で両手を剣の柄へ添え、刃へ魔力を集める。
「その火脈で温められた温泉に俺は入りたいんだ」
落下する勢いを乗せ、一息に剣を振り抜いた。
手へ伝わった抵抗は、一度だけだった。
赤黒い鱗も、その下にある厚い肉も、首を支える太い骨も、刃の通った一線に沿ってまとめて断ち切られる。
竜の首が巨体から離れ、切断面から噴き出した血が火脈の熱へ触れると、赤い蒸気となって周囲へ立ち昇った。
遅れて巨大な頭部が岩場へ落ち、窪地全体を揺らすほどの衝撃が走る。
首を失った身体は何が起きたのか理解していないように二、三歩よろめき、翼を一度だけ大きく広げたあと、火脈の脇へ崩れ落ちた。
低い地響きが山肌を伝い、岩の隙間に残っていた小石がぱらぱらと落ちてくる。
それきり、竜は動かなかった。
地面へ降り、剣の血を払う。
竜に奪われていた火脈には、少しずつ赤い光が戻り始めていた。
これなら、しばらくすれば温泉も元に戻るだろう。
目的を果たした俺は剣を鞘へ収め、そのまま来た道へ引き返そうとした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
先ほど仲間へ指示を出していた大盾の男が、焼け焦げた盾を抱えたまま俺のもとへ駆け寄ってきた。
その後ろから、岩陰にいた冒険者たちも、倒れた竜を警戒しながら集まってくる。
「あんた……いったい、何者なんだ?」
「ただの旅人だよ。昔、竜種とは何度か戦ったことがあるっていうだけだ」
「何度かって……あれを一撃でか?」
「こいつは火脈から力を得てただけで、竜としてはそこまで強くない。炎さえどうにかできれば、倒すのは難しくない」
「いや、その炎を俺たちはどうにもできなかったんだが……」
男は呆れたように呟いた。
周囲の冒険者たちも、納得したような、していないような顔をしている。
ただ、これ以上説明するのも面倒だった。
「すまないが、俺はこの後用事があるから、後処理は頼む。竜の素材も好きにしてくれていい」
そう言って倒れた竜へ目を向ける。
切り落とされた首の断面では、流れ出た血が火脈の熱に触れ、じゅ、と音を立てながら蒸気を上げていた。
熱された肉から、微かに香ばしい匂いまで漂ってくる。
「……竜って、食えるのかな」
「は?」
「いや。食えたらどんな味なんだろうと思って」
赤黒い巨体を眺める。
「ちょっと美味そうだよな」
「…………」
男が竜と俺の顔を交互に見た。
「いや、まあいいや。依頼を受けていたのはお前たちだろ。解体も討伐の報告も任せる」
「いや、待て。だったら報酬はどうするんだ?」
「要らない」
町の大浴場へ戻れば、ようやく温泉に入れる。
俺にとっては、それだけで十分だった。
男はまだ何か言おうとしていたが、不意に口を閉ざすと、俺の顔を確かめるようにじっと見つめてきた。
視線が、俺の手元へ落ちる。
剣には、まだ消えきらない白い光が薄く残っていた。
「その剣に、白い魔力……」
男の目が、剣から俺の顔へ移る。
「その髪と姿も……まさか」
嫌な予感がした。
「勇者リヴェル……?」
その名が零れた瞬間、周囲にいた冒険者たちが一斉にこちらを向いた。
「魔王を倒した、あの……?」
「勇者様が、町を助けに来てくださったんだ!」
「温泉の異変を聞いて、わざわざここまで……!」
違う。
俺は温泉に入りたかっただけだ。
訂正する気力すら湧かず、次々と上がる声を背中に受けながら足早にその場を離れる。
「待ってください、リヴェル様!」
「せめてお礼を!」
「ぜひ、魔王討伐のお話を聞かせてください!」
背後から追いかけてくる声に、振り返らないまま答えた。
「竜の処理と報告は、ギルドから依頼を受けたお前たちの仕事だろ。悪いが、この後温泉へ行くんだ」
それ以上呼び止められる前に、俺は冒険者たちが追いつけない速度で山道を駆け下りた。
町を見ると、建物の合間から先ほどより濃い湯煙が立ち上り始めていた。
「今度こそ、入れるよな……」
魔王へ挑んだ時よりも切実な気持ちで呟きながら、俺は大浴場へ急いだ。




