第7話 火脈を餌場にする魔物
食事処を出た俺は、満たされた腹をさすりながら温泉へ向かった。
店主に町で一番の湯を尋ねたところ、町の最奥にある大浴場を勧められた。
火脈から引いた湯をそのまま使っており、フォルネアへ来たなら一度は入っておくべきらしい。
露店で冷たい果実水を買い、気になる店があれば足を止める。
温泉で蒸した卵や菓子、火脈の熱を利用した工房。
勇者として訪れた時には目にも留めなかったものを眺めながら、急ぐことなく町の奥へ進んだ。
中心部は観光客で賑わっていたが、奥へ向かうほど人通りは少なくなっていく。
大通りから一本外れれば、湯煙に包まれた静かな住宅地もあった。
空き家があるかは分からない。
だが、人の多い観光地でありながら、場所を選べば静かに暮らすこともできそうだった。
食事はうまい。
温泉もある。
町の外れなら人付き合いも少なく済みそうだ。
安住の地として悪くないかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
「勇者リヴェル様とお見受けします」
勇者という言葉に、肩が跳ねた。
もう追手がここまで来たのか。
果実水の入った杯を握ったまま、声のした方へ振り返る。
そこには、身なりの整った初老の男が立っていた。
「突然お声がけして申し訳ありません。私は、この町の観光業を取りまとめておりますバランと申します」
「ああ……。それで、俺に何か?」
男は一度周囲を確かめると、声を少し落とした。
「実は町の近くの山で、強力な魔物が確認されまして。すでに冒険者ギルドから討伐隊が向かっておりますが、いまだ仕留められておりません。大変厚かましいお願いとは承知しておりますが、お力をお貸しいただけないでしょうか」
やはり、そうなるのか。
胸の奥に、慣れた重さが戻ってくる。
困っている人がいる。
俺なら、恐らく簡単に倒せる。
ここで断って被害が出れば、きっと後悔する。
そんな考えが、いつものように浮かんだ。
だが、俺はその罪悪感も、これまでの期待も置き去りにして王都から逃げてきた。
もう、目に入ったものすべてを背負わなくてもいいはずだ。
「すまない。断る」
短く、はっきりと告げた。
バランは僅かに目を見開いた。
そのまま食い下がられるか、疲れているだけだと決めつけられるのだろうと身構える。
しかし、男は静かに視線を伏せた。
「……そうですか。失礼いたしました」
「え?」
「魔王を倒していただいたばかりだというのに、せっかくこの町を楽しんでくださっている方へ、さらにお願いをするなど厚かましいにもほどがありました」
あまりに素直に引き下がられ、今度は俺が言葉を失った。
「本当に、それでいいのか?」
「もちろんです。お断りになった方へ、重ねてお願いするわけにはまいりません」
バランはそう言って、申し訳なさそうに頭を下げた。
「この町には、まだまだ美味しい店も、よい湯もございます。どうぞごゆっくり、フォルネアをお楽しみください」
「あ、ああ……。ありがとう」
「お礼を申し上げるのはこちらです」
男は背筋を伸ばすと、先ほどよりも深く頭を下げた。
「こうして多くの観光客が町を訪れ、皆が安心して笑っていられるのは、リヴェル様が魔王を倒してくださったからです。町を代表して、心より感謝いたします」
それだけ告げると、バランは俺へ背を向けて去っていった。
湯煙の中へ遠ざかっていく背中を、しばらく見送る。
断った。
それなのに、怒られなかった。
失望されることも、考え直すよう説得されることもなかった。
ただ、俺の答えを受け取って、去っていった。
「……これで、いいんだよな」
誰へ尋ねるでもなく呟く。
困っている町を置いていくような罪悪感が、胸の奥にわずかに残っていた。
それでも俺は男を追いかけず、果実水を一口飲んだ。
ぬるくなり始めた甘酸っぱい味が、喉をゆっくりと通り過ぎていく。
俺はもう一度、町の奥にある温泉へ向かって歩き始めた。
◆
町の最奥には、石造りの大きな浴場が建っていた。
だが入口へ向かう者は一人もおらず、閉ざされた扉の前には一枚の看板が立てられている。
『魔物による被害のため、一時休業いたします。ご不便をおかけし、誠に申し訳ございません』
「……休みかよ」
ここまで歩いてきた足から、急に力が抜けるようだった。
勇者として訪れた時には入れず、ようやく好きに過ごせるようになった今度も入れない。
縁がないと言われればそれまでだが、簡単に諦めるには、町へ着いてから膨らませた期待が大きすぎた。
入口の脇では、施設の従業員らしい女性が、申し訳なさそうに訪れた客へ頭を下げていた。
「すまない。少し聞いてもいいか?」
「はい。どうされました?」
「魔物の被害って、何があったんだ?」
女性は閉ざされた施設を一度見上げ、困ったように頬へ手を当てた。
「この大浴場には、町の地下を流れる火脈から直接お湯を引いているんです。ですが数日前、その火脈を餌場にする魔物が現れまして」
「火脈を食う魔物か」
「はい。熱を吸われてしまい、こちらまで十分な温度のお湯が届かなくなったんです」
火脈は温泉だけでなく、石焼料理や蒸し料理にも使われている。
熱を奪われ続ければ、町全体へ影響が広がるだろう。
「冒険者は向かっていないのか?」
「冒険者ギルドから、すでに討伐隊が派遣されています。ただ、当初考えられていたよりも大きな個体だったようで、まだ解決には至っていません」
女性は声を潜める。
「依頼のランクも、引き上げられるかもしれないと聞いています」
先ほどバランが話していた強力な魔物とは、これのことだったのだろう。
「というわけで、お兄さんには申し訳ないんですけど、今日は別の温泉を利用してくださいな」
女性は町の中心部を指した。
「火脈から離れた場所なら、まだお湯が出ています。ただ、こちらほど広くありませんし、今はお客様が集中しているので、少し混んでいると思いますけど」
「他の温泉には入れるんだな」
「今のところは。ただ、このまま火脈の熱を奪われ続ければ、そちらもどうなるか……」
そこまで聞いて、俺は一度大浴場を振り返った。
入れないものは仕方がない。
別の温泉があるのなら、そちらへ行けばいい。
「教えてくれてありがとう。別のところへ行ってみる」
「ええ。せっかく来てくださったのに、ごめんなさいね」
女性へ礼を告げ、大浴場を後にした。
教えられた温泉へ向かうと、入口には長い列ができていた。
最後尾へ並んでいた男へ尋ねると、湯へ入るまで一時間以上はかかるらしい。
中から出てきた客は、温泉で休んだというより、人の多さに疲れたような顔をしていた。
さらに二軒回ったが、一つは同じように混み、もう一つは湯がぬるくなって営業を終えていた。
誰にも邪魔されず、広い湯へ手足を伸ばしたかった。
せっかく得た自由な一日を行列で潰したくもない。
それに火脈が弱れば、さっき食べた石焼料理にも影響が出る。
「……それは嫌だな」
別の町へ行くこともできるが、また宿や店を探すより、目の前の原因を片づける方が早い。
俺は来た道を引き返した。
大浴場の前へ戻ると、先ほどの女性が看板の位置を直していた。
俺の姿に気づき、不思議そうに顔を上げる。
「あら。ほかの温泉も混んでいましたか?」
「ああ。どこも落ち着いて入れそうになかった」
「観光のお客様が、そちらへ集中していますからね。本当に申し訳ありません」
「一つ確認したい」
俺は閉ざされた大浴場へ目を向けた。
「魔物を倒して火脈が戻れば、ここは今日中に開けられるのか?」
女性は目を瞬かせた。
「ええ。設備は何も壊れていませんので、お湯が十分に温まるのを待っていただけたらすぐにでも。でも、どうして——」
「その魔物がいる場所を教えてくれないか?」
「まさか、お兄さんが?」
「俺は、この町の温泉へ入りに来たんだ」
そのために勇者時代から食べ損ねていた料理を食べ、町の一番奥まで歩いてきた。
ここで混雑した小さな湯へ入り、仕方がなかったと諦める気にはなれなかった。
「温泉に入るついでに、邪魔なものを片づけてくる」
女性は戸惑ったまま、俺の腰にある剣へ視線を落とした。
「ですが、冒険者ギルドから派遣された方々でも——」
「それを待っていたら、いつ入れるか分からないんだろ? 無理なら戻ってくる。討伐隊がいる場所だけ教えてくれ」
女性はしばらく迷った末、町の北を指した。
「……北の山です。火脈が地表へ出ている辺りに、冒険者の方々が向かわれています」
「ありがとう」
「本当に、危ないと思ったらすぐ戻ってきてくださいね?」
「分かった」
剣の位置を確かめ、山の方角へ目を向けた。




