第6話 湯煙の町フォルネア
自室のベッドへ潜り込み、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
ゆっくりと後ろへ流れていく木々を見ているうちに、どれほど時間が経っただろう。
不意に、扉を叩く控えめな音が響いた。
「リヴェルさん。今、よろしいでしょうか?」
「ああ。大丈夫だ」
返事をすると、扉がゆっくりと開き、ルーエが顔を覗かせた。
「もうすぐ町へ到着します。リヴェルさんは、どうされますか? 私は食料の買い出しがありますので、しばらく宿を離れますが」
「ああ。俺も町へ行くつもりだから、ここまでで大丈夫だ」
名残惜しい寝具から身体を起こし、剣を持ってルーエとともに一階へ向かった。
受付台で、眠っていた日数分の銀貨を追加で渡す。
「世話になった。本当に助かった」
「こちらこそ、ご利用ありがとうございました」
ルーエは銀貨を受け取ると、両手を前で揃えて小さく頭を下げた。
宿の外へ出る。
ソムニウムは、町から少し離れた森のそばへ停まっていた。
開けた視界の先には、屋根の間から幾筋もの白い煙を立ち昇らせる町が見える。
「あれは確か、湯煙の町フォルネアだったか」
以前訪れた時の記憶を辿りながら、呟いた。
すぐ後ろで扉が閉まる音がする。
振り返ると、出かける支度を終えたルーエが宿へ鍵をかけていた。
「私は、あの町を訪れるのは初めてなのですが、どのような町なのでしょう?」
「この辺りには、地下を流れる火脈があるらしくてな。そこから温泉が湧いている町だと聞いた」
遠くからでも、町のあちこちから湯煙が上がっているのが見える。
「温泉を利用した料理も、いろいろあるらしい」
「美味しいものが食べられそうですね」
ルーエの目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
勇者として訪れた時は魔物を追う途中で、名物も温泉も味わえないまま立ち去った。
だが今度は、誰かを救うためではなく、自分が楽しむために町へ向かえる。
そう思うと、胸の奥へ小さな期待が膨らんだ。
「今度は、ちゃんと食べてみるか」
「はい。私も何を食べられるのか楽しみです」
その時、巨大だったムムの身体が淡い光に包まれた。
見る間に抱き枕ほどの大きさまで縮むと、地面を蹴り、ルーエの胸元へ飛び込む。
「むぅ」
ルーエは慣れた様子でムムを抱き留め、その背中を優しく撫でた。
二人が町へ向かって歩き始め、俺もその隣へ並ぶ。
「宿は、あのままでいいのか?」
「はい。ムムが、見つかりにくくしてくれていますので」
ルーエは腕の中のムムへ目を落とした。
「町へ入る時は人の流れから離れた場所へ停めています。近づこうと思わなければ、ほとんどの方には見えません」
「移動して、悪夢を食べて、宿まで隠すのか。凄いな」
「むぅ!」
褒められたことが分かったのか、ムムがいつもより大きな声で鳴いた。
ルーエの腕の中で胸を張る姿に、思わず口元が緩む。
そうして俺たちは、湯煙の立ち昇る町を目指して歩き始めた。
◆
町へ近づくにつれて、空気に混じる匂いが変わっていった。
湿った森の匂いに、微かな硫黄と薪の煙が重なる。
道の両脇には温泉宿の名が書かれた立て札が並び、行き交う馬車には旅人らしい客の姿も多かった。
町を囲う石壁の手前まで来たところで、ルーエが足を止めた。
「私は食料を買いに行きますので、ここでお別れですね」
「ああ」
俺も立ち止まり、彼女の腕に抱かれたムムへ目を向けた。
ここへ来るまでの数日間、温かい食事をもらい、三日近くも眠らせてもらった。
料金は払ったとはいえ、銀貨数枚で済ませていい世話ではなかったように思う。
「本当に助かった」
改めて告げると、ルーエは眠たげな目を僅かに細めた。
「こちらこそ、ご宿泊ありがとうございました」
「飯もうまかった。あの寝具も……たぶん、今まで寝たどのベッドよりよかった」
「ムムも喜びます」
「むぅ!」
伝説では町を滅ぼす魔獣だというのに、今は褒められて胸を張る小さな毛玉にしか見えない。
「ムムも、ありがとうな」
「むぅ」
伸ばした手へ、ムムが額を押しつけてくる。
指を毛の中へ沈めると、寝具と同じ柔らかな温かさが手のひらを包んだ。
もう一度くらい、あのベッドで眠りたい。
そんな考えが浮かんだが、口にはしなかった。
俺はこの町で、誰にも知られず静かに暮らせる場所を探すつもりだった。
ルーエたちは、次に宿を必要としている誰かのもとへ向かうのだろう。
「それじゃあ、元気で」
「はい。リヴェルさんも、どうかお元気で」
ルーエは小さく頭を下げると、ムムを抱いたまま町の門へ向かって歩き始めた。
途中でムムが彼女の腕から顔を出し、こちらを振り返る。
「むぅ」
「ああ。またな」
次に会うことがあるのかは分からない。
それでも別れ際の言葉は、思っていたより自然に出た。
門をくぐったところで、俺たちは別々の道へ進んだ。
ルーエは食料品店が集まる市場の方角へ。
俺はひとまず、町の中心へ向かうことにした。
フォルネアは、以前訪れた時と変わらず賑わっていた。
石畳の道の両側には、木と煉瓦で造られた宿や飲食店が並んでいる。
建物の隙間からは白い湯気が絶えず立ち上り、通りを歩く旅人の中には、浴衣のような薄手の館内着を身につけた者もいた。
露店では温泉の蒸気で蒸した卵や饅頭が売られ、甘い香りに混じって、焼けた肉の匂いが鼻をくすぐる。
勇者として訪れた時も、町は同じように賑わっていたはずだ。
だが、あの時の俺が覚えているのは、魔物が逃げ込んだ方角と、討伐後に受けた感謝の言葉くらいだった。
通りの店も、立ち上る湯煙も、俺の目にはほとんど入っていなかったらしい。
「こんな町だったんだな……」
誰に言うでもなく呟きながら、辺りを見回す。
気候は温暖で、道は整備され、行き交う人も多い。
観光客が多い分、見慣れない顔も目立ちにくい。
温泉もあり、食事も期待できる。
安住の地として、今のところ大きな欠点はなさそうだった。
通りを進んでいると、一軒の店の前で足が止まった。
開け放たれた入口の奥から、肉の焼ける音が聞こえてくる。
軒先に掲げられた看板には、大きな黒い石と、その上に肉を載せた絵が描かれていた。
《フォルネア名物・火脈石焼き》
地下の火脈で熱した石を使い、客自身が肉や野菜を焼いて食べる料理だったはずだ。
以前この町へ来た時、討伐を終えた俺に町の者が勧めてくれたことを思い出す。
すぐに別の土地へ向かわなければならず、食べることはできなかった。
あの時は「また今度」と笑って断った。
その今度が、ようやく来たらしい。
店へ入ると、肉と脂の香ばしい匂いが一層強くなった。
「いらっしゃい!」
恰幅のよい店主に案内され、窓際の席へ腰を下ろす。
卓の中央には、黒く平たい石が置かれていた。
表面から僅かに熱気が立ち上り、近くへ手を翳すだけでもかなり熱いことが分かる。
「初めてかい?」
「ああ。前に来た時は、食べる時間がなくてな」
「そりゃあ、もったいない。フォルネアへ来てこれを食わずに帰ったら、温泉へ入らず帰るのと同じだよ」
「今日は、どっちも堪能するつもりだ」
「なら、うちで一番いい盛り合わせにしな!」
勧められるまま、肉と野菜の盛り合わせを頼んだ。
ほどなくして運ばれてきた皿には、厚く切られた赤身肉と脂の乗った薄切り肉、腸詰め、それから茸や根菜が並んでいた。
別の小皿には、岩塩と刻んだ香草、酸味のある赤いソースが添えられている。
「石は十分熱くなってる。肉を載せたら、焼きすぎないようにな」
店主に言われた通り、赤身肉を石の上へ置く。
じゅっ、と鋭い音が鳴った。
脂と一緒に香ばしい煙が立ち上る。
焼き色がついたところで裏返し、岩塩を振って口へ運ぶ。
強い熱で焼けた表面の奥は柔らかく、噛んだ瞬間に熱い肉汁が広がった。
「……うまい」
塩だけでも十分なほど肉そのものの味が濃く、噛むほどに脂の甘みが増していく。
香草を載せれば後味が軽くなり、赤いソースをつければ果実に似た酸味が脂を流してくれた。
薄切り肉や茸、根菜も石へ並べていく。
焼けた肉で茸を巻いて食べると、茸が吸い込んだ脂と香りが口の中で一緒に溢れた。
根菜も、ただ焼いただけとは思えないほどうまかった。
肉を焼き、野菜を挟み、また肉を焼く。
誰かに急かされることもなく、石の上で食材が焼ける音を聞きながら、自分が食べたいものを、自分の好きな加減まで焼いて食べる。
それだけの時間が、思っていた以上に楽しかった。
「どうだい?」
空になりかけた皿を見て、店主が声をかけてきた。
「前に食べられなかったのを後悔してるよ」
「ははっ。なら、今日はその分まで食っていきな!」
「そうする」
追加で肉を頼み、今度は少しだけ焼き加減を浅くする。
熱い肉を頬張りながら、窓の外へ目を向けた。
通りには湯煙が漂い、旅人たちが楽しそうに行き交っている。
静かとは言い難い。
だが、誰も俺へ助けを求めず、勇者と呼びかける者もいない。
食事は文句なくうまい。
この後は温泉にも入れる。
フォルネア。
安住の地として、かなり期待できる町かもしれない。
俺は焼けた肉へ岩塩を振りながら、久しぶりに次の予定を楽しみにしていた。




