第5話 三日後の朝
次に目を開けた時、窓の外では雨がやみ、朝の光が差し込んでいた。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
見覚えのない天井と、白く柔らかな毛布。
乾いた草と陽だまりを混ぜたような匂い。
身体を起こそうとして、違和感に気づく。
痛くない。
何日も走り続けた足も、泥へ倒れ込んだ肩も、ほとんど重さを感じなかった。
長い戦いの後には、眠っても身体の奥へ鉛が残っていたのに、今はそれがない。
目を閉じてから朝までの記憶も、丸ごと抜け落ちていたかのように眠った。
魔物の気配に目を覚ますことも、誰かの足音を聞いて剣へ手を伸ばすこともなかった。
勇者になってから、こんな朝は久しぶりだった。
ベッド脇の剣は同じ位置にあり、扉の鍵もかかったままだ。
窓の外には昨日とは違う森が広がり、遠くの稜線がゆっくり流れている。
宿が移動しているのに、揺れも音もほとんど感じなかった。
剣を腰へ差し、扉の鍵を開ける。
階段を下りると、食堂から焼けたパンと甘い乳の匂いが漂ってきた。
「おはようございます」
受付台の奥から、ルーエが顔を出した。
昨日と同じ眠たげな瞳が、ほんの少し細められた。
「おはよう」
「よく眠れましたか?」
「ああ。驚くほど」
「それはよかったです」
他の客の姿はなく、窓の外では日が随分高く昇っていた。
「今、何時だ?」
「もうすぐお昼になります」
「昼……?」
思ったより遅くまで眠っていたらしい。
「昨日の夜から、半日以上寝ていたのか」
そう呟くと、ルーエの手が止まった。
「昨日ではありませんよ。リヴェルさんがいらしたのは、二日前の夕方です。昨日は一度も起きてこられませんでした」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「二日半も寝ていたのか?」
「もう少しで三日ですね」
「どうして起こさなかったんだ」
何か予定があるわけではない。
誰かと約束しているわけでもない。
それでも、丸一日を眠って過ごしたと知ると、反射的に焦りが湧いた。
「毎朝、一度だけ扉を叩きました」
ルーエは驚く様子もなく、静かに答えた。
「ですが、お返事がありませんでしたので、そのままにしました」
「倒れているかもしれないとは思わなかったのか?」
「ムムが、よく眠っていると教えてくれましたから」
ルーエの視線を追う。
すると、呼ばれたことが分かったのか、窓の外からムムの大きな顔が覗いた。
宿を引いている途中らしく、森で出会った時と同じ巨大な姿をしている。
「むむぅ……」
だが、俺の顔を見るなり、ムムは口の端を下げた。
怒っているというより、ひどく味の悪いものを思い出したような顔だった。
「どうしたんだ?」
「リヴェルさんの悪夢を食べて、少し驚いてしまったようです」
「俺の悪夢に、何かあったのか?」
「はい。少し変わっていたようで」
ルーエは窓辺へ近づき、ムムの大きな鼻先を撫でた。
「お泊まりになる前にお話しした、この宿が悪夢を引き離す性質なのですが。どうやら、使われている木材によるものらしいのです」
「木材?」
「はい。私も最初から知っていたわけではありません。長くこの宿を使っているうちに、ムムが眠っている方のそばや、壁や床に残った悪夢を食べるようになって、それで気づきました」
「そういう木があるのか」
「少し特殊な森で育つものだそうです。詳しいことまでは、私も知らないのですが」
「それで、俺の悪夢に驚いたっていうのは?」
「味が濃かったそうです」
「味が濃い……?」
「塩を入れすぎた料理のようなものだったのかもしれませんね」
「それは嫌な夢だな」
「それに、とても硬かったそうです」
「食べ物として最悪じゃないか」
「むむぅ……」
ムムが深く頷いた。
どうやら、俺の夢には食事として擁護できるところが一つもないらしい。
「全部は食べられなかったのか?」
「ムムが食べきれなかったわけではありません。正確には、この宿がリヴェルさんから引き離せた悪夢が、思っていたより少なかったようです」
「少なかった?」
「はい。普通であれば、眠っている間にもう少し離れてくるそうなのですが……」
ルーエは少し考えるように首を傾げた。
「リヴェルさんの悪夢は、なぜか離れにくかったようです。それに、離れてきたものも、ムムにはとても硬く感じられたそうで」
「……理由は分からないのか?」
「はい。私も、このようなことは初めてですので」
「そうか」
自分の悪夢ながら、ずいぶん面倒な代物らしい。
「それでも、宿へ移ってきた分は全部食べてくれたのか?」
「はい。そちらは残さず」
「むぅ」
少しだけ誇らしげな声が返ってきた。
「伝承では、夢も希望もすべて奪うと聞いたけどな」
「モルフェウールは、本来、悪夢だけを食べる魔獣ではありませんから」
ルーエの手が、白い毛並みをゆっくりと撫でる。
「夢も、そこに結びついた願いも、もっと大切なものまで食べてしまう個体もいるそうです」
「……ムムも?」
「できますよ」
ルーエは否定しなかった。
「ですが、ムムはしません」
「むぅ」
「この子には、悪夢だけを食べるように教えてきました。食べてよいものと、触れてはいけないものを知っています」
撫でる手が、ほんの少しだけ優しくなる。
「それに、ムムはとても優しい子ですから」
「むぅ!」
褒められたムムが得意そうに鳴く。
だが、俺と目が合った途端、その顔がまた露骨に曇った。
思い返しても、眠っている間の記憶は何もなかった。
目を閉じた次の瞬間には、三日近くが過ぎていた。
あの寝具と、誰にも起こされない部屋。それにムムが悪夢を食べてくれたことも、あれほど深く眠れた理由なのだろう。
「そうだったのか」
窓の外のムムへ顔を向ける。
「食べにくかったのに、ありがとうな」
「むぅ!」
ムムは先ほどまでの渋い顔を忘れ、嬉しそうに耳を立てた。
「よかったですね、ムム」
「むぅ」
ルーエに撫でられ、ムムは満足そうに目を細めた。
そこで、腹が小さく鳴った。
前ほど大きな音ではなかったが、静かな食堂では十分に聞こえたらしい。
「お食事をご用意しましょうか?」
「ああ。頼んでいいか?」
「もちろんです。何か食べたいものはありますか?」
昨日と同じ問いだった。
また、何でもいいと答えそうになる。
けれど、厨房から漂ってくる焼きたてのパンの匂いを吸い込むと、今度は昨日よりも早く答えが浮かんだ。
「パンが食べたいな」
「はい」
「それと、前に食べた肉も少し」
「でしたら、お肉をパンで挟みましょうか?」
最初に食べた肉が、焼きたてのパンに挟まれている姿を想像する。
口の中に唾液が溜まり、思わず喉が鳴った。
「ああ。それで頼む」
「かしこまりました。では、少々お待ちください」
「むぅ」
「ムムの分も後でご用意しますからね」
窓の外から聞こえた催促に、ルーエが穏やかに答えた。
しばらくすると、厚く切ったパンに焼いた肉と葉物を挟んだ料理が運ばれてきた。
溶かしたバターを塗り、肉ごと齧りつく。
香ばしい表面の内側は柔らかく、塩気のあるバターと小麦の甘みに、肉の旨味が重なった。
「……うまい」
「ありがとうございます」
ルーエは目元をわずかに緩めると、自分の食事を持って、少し離れた椅子へ腰を下ろした。
それから窓の外へ顔を向ける。
「ムム。お食事にしましょう」
「むぅ!」
入口の外で光が揺らぎ、巨大だったムムの身体が抱き枕ほどの大きさまで縮んだ。
扉を押して入ってきたムムは、床へ小さな足跡を残しながら、真っすぐ食卓へ向かおうとする。
「ムム。その前に、足を拭きましょうね」
「むぅ……」
短い手足を拭かれている間も、視線は自分の皿へ釘づけだった。
「では、いただきましょう」
「むぅ!」
合図と同時に、ムムが皿へ顔を突っ込む。
「ゆっくり食べてください」
「むぐぅ」
頬を膨らませたまま返事をする姿に、思わず笑いが漏れた。
二人と一匹で食事をする。
勇者だった頃も仲間たちと何度も食べたが、次の目的地も、魔物も、誰を救うかという話もない。
パンを齧る音と、食器が触れ合う小さな音だけが続いている。
それが、不思議なくらい心地よかった。
「ルーエ」
「はい」
「町までは、あとどれくらいなんだ?」
「あと数時間ほどで到着すると思います」
「そうか」
皿の上に残ったパンへ視線を落とす。
町へ着いた後、どうするのかは決めていない。
俺を知らない者しかいない土地を求めて、また走り始めるつもりだった。
だが、これから向かう町が静かで、食べ物がうまく、俺のことを知る者もいない場所なら、そこへ留まってもいいのかもしれない。
そうして安住の地を見つければ、今度こそ誰にも何も求められずに暮らせる。
窓の外では、森の景色がゆっくりと後ろへ流れていた。
俺は焼きたてのパンをもう一口齧りながら、まだ見ぬ町での暮らしを思い浮かべた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
この先は、リヴェルたちが各地を巡りながら、食べ損ねた料理を味わったり、好きなだけ眠ったり、ときどき面倒事を片づけたりしながら、静かに暮らせる安住の地を探して旅をしていきます。
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