第4話 明日の予定はない
食事を終え、風呂で泥と汗を流した。
温かな湯へ身体を沈めると、何日分もの疲れまで溶け出していくようだった。
用意された服へ着替え、食堂へ戻る。
受付台の上には、一冊の帳面が開かれていた。
「宿帳へ、お名前をお願いできますか?」
差し出された羽根ペンを前に、指が止まる。
リヴェル。
そう書けば、勇者だと知られるかもしれない。
嘘の名前を書くべきだろうと羽根ペンを握ったまま迷っている間も、ルーエは急かさなかった。
その姿を見て、俺は空欄へ文字を書いた。
『リヴェル』
「リヴェルさんですね」
ルーエは帳面を確認し、それ以上は何も言わなかった。
驚く様子も、疑う様子もない。
宿帳には、出身地や身分を書く欄すらなかった。
「宿代は?」
「一泊、食事つきで銀貨一枚です」
銀貨一枚なら、普通は雑魚寝の安宿に泊まれる程度だ。
「……安くないか?」
「お客様が少ない宿ですので」
「それなら、余計に高くするべきじゃないのか?」
「そうすると、泊まりたい方が泊まれなくなってしまいます」
商売として正しいのかは分からない。
銀貨を差し出そうとすると、ルーエは受け取る前に小さく手を止めた。
「その前に、一つだけお伝えしておくことがあります」
「なんだ?」
「この宿には、眠っている方が見る悪夢を、少しずつその方から引き離す性質があります」
「悪夢を?」
「はい。ただ、引き離された悪夢が消えるわけではありません。そのままでは、その方の周りや部屋に残ってしまいますので……」
ルーエは足元のムムへ視線を落とした。
「それをムムが食べて、掃除してくれます」
「……こいつが?」
「むぅ」
「俺の夢に入って食べるのか?」
「いいえ。ムムが食べるのは、この宿によってリヴェルさんから離れた悪夢だけです。勝手に夢へ触れることはしません」
伝説では、夢も希望も食らうとされた魔獣だ。
少し引っかかりはしたが、眠っている俺の夢へ入り込むわけではないらしい。
「……それなら、構わない」
「ありがとうございます」
そう答えて初めて、ルーエは差し出した銀貨を受け取った。
「それでは、お部屋へご案内します」
階段へ向かうルーエの足元を、ムムがとことことついていく。
丸い身体を揺らしながら階段を上がっていく姿は、伝説の魔獣と同じ生き物とは思えないほど愛らしかった。
「ムム。そちらはお客様のお部屋ですよ」
「むぅ」
「先に入ってはいけません」
「むむぅ……」
注意されたムムは、二階の廊下で耳を垂らした。
ルーエは慣れた様子でその横を通り、一番奥にある扉を開く。
「こちらのお部屋をお使いください」
部屋の中には、小さな机と椅子、衣装棚、それから大きなベッドが置かれていた。
目を引いたのは、その寝具だった。
白く柔らかな毛布と枕。
細かな毛が揃い、指先で触れると柔らかく沈む。
押した分だけ形を変え、手を離せばゆっくりと元へ戻っていった。
「これは……」
「ムムの抜け毛から作った寝具です」
「むぅ」
廊下から覗いていたムムが、自慢するように鳴いた。
「冬は温かく、夏は涼しく使えます。身体の疲れも、少し抜けやすくなりますよ」
ルーエはベッドの脇へ立ち、毛布の端を整えた。
剣を壁へ立てかけようとして、手を止める。
眠っている間に襲われる可能性が頭をよぎり、結局、鞘ごとベッドの脇へ置いた。
その様子を見ても、ルーエは何も言わなかった。
「お部屋の扉には、内側から鍵をかけられます。私も、許可なく入ることはありません」
「……食事の時も?」
「明日の朝、扉を一度だけ叩きます。お返事がなければ、起きるまでそのままにしておきます」
「起こさないのか?」
「起きる必要があるのでしたら、ご自分で起きるでしょうから」
誰にも起こされない。
それを求めていたはずなのに、実際に告げられるとすぐには信じられなかった。
「何日寝ていても?」
「宿代をいただけるのでしたら」
ルーエの口元が、わずかに上がった。
「冗談です。まずは、起きたくなるまでごゆっくりお休みください」
「……分かった」
「それと、一つだけお伝えしておくことがあります」
ルーエは窓の外へ目を向けた。
「この宿は、ムムが引いて移動しています。食料が少なくなってきましたので、三日ほどかけて近くの町へ向かう予定です。宿が動いても、よろしいでしょうか?」
「ああ。構わない」
今日一晩眠れるのなら、数日後どこに着くのかなど、今はどうでもよかった。
「泊めてもらえるだけで助かる」
「ありがとうございます。では、おやすみなさい。リヴェルさん」
ルーエは小さく頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まり、二人の足音が遠ざかる。
内側から鍵をかけ、窓の外を確認する。
深い森と降り続く雨だけで、追手も魔物も見当たらない。
剣が手の届く位置にあることを確かめ、ベッドへ腰を下ろした。
警戒を解いたつもりはない。
野営でも戦場でも、敵意や魔力の気配を感じれば、眠っていても身体が動く。
それくらいは、もう習慣になっていた。
寝具が身体の重さを受け止め、その形に合わせてゆっくりと沈んでいく。
森の泥へ倒れた時とは違い、温かく、柔らかく、どこにも痛みがない。
身体を横たえ、毛布を肩まで引き上げると、乾いた草と陽だまりを混ぜたような匂いがした。
それでも、まだ警戒しておくべきだった。
伝説の魔獣がいる。
悪夢を引き離すという、正体の分からない宿が森の中を移動している。
主人のルーエについても、名前以外は何も知らない。
少し眠るだけだ。
もし何かあれば、すぐに起きればいい。
そう思っているのに、瞼がゆっくりと落ちてくる。
眠っていいのかと、頭のどこかで声がした。
明日の予定はない。
誰かと会う約束もない。
起きて助けに行かなければならない場所もない。
誰も、俺を起こさない。
そう思った瞬間、身体から最後の力が抜けた。
警戒まで手放したつもりはなかった。
ただ、少しくらい眠ってもいいと思った。
剣の柄を握ることもなく、俺は目を閉じた。
次に目を開けた時、窓の外では雨がやみ、朝の光が差し込んでいた。




