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第3話 まどろみ亭ソムニウム

 眠れる。

 その一言だけが、霞んだ頭の中へ鮮明に届いた。

「……泊まる」

 考えるよりも先に答えていた。

 宿代も、どんな宿なのかも聞いていない。

 それでも今は、温かい食事と眠れる場所があるだけで十分だった。

「はい。では、中へどうぞ」

 少女——いや、二十歳を超えているらしい女性は、安心したように頬を緩めた。

「歩けますか?」

「これくらいなら……」

 立ち上がろうとしたところで視界が暗くなり、身体が傾いた。

 倒れる前に、ムムの鼻先が中をそっと押し支えている。

 伝説の魔獣に支えられて歩くなど、勇者だった頃にも経験したことはない。

 

 宿はムムの真後ろにあり、その身体から伸びた太い綱が建物の下部へつながっていた。

 どうやら、この巨大な魔獣が宿そのものを引いてきたらしい。

 分からないことばかりだったが、扉から漏れる橙色の灯りを見ていると、今だけは何も考えなくていい気がした。

「足元にお気をつけください」

「悪いな」

「宿の主人が、お客様をご案内するのは普通のことですので」

「主人?」

 女性は扉へ手をかけたまま、こちらを振り返った。

「はい。申し遅れました。私はルーエと申します」

 スカートの裾をつまんで小さく頭を下げる。

「まどろみ亭ソムニウムの主人をしております」

「本当に一人で宿を?」

「一人ではありません。ムムもいますから」

「むぅ」

 背後でムムが得意げに胸を張った。

 どうやら二人とも、見た目から受ける印象とは随分違うらしい。

 

 ルーエが扉を開けると、小さな鈴が澄んだ音を鳴らした。

 冷え切った頬を、室内の温かな空気が撫でていく。

 正面には受付台があり、その奥には食堂らしき空間が広がっていた。

 磨かれた木の床に、壁際で静かに燃える暖炉。

 どこからか、香草と煮込んだ野菜の匂いが漂ってくる。

 匂いを意識した途端、腹の奥が強く縮んだ。

「まずは、こちらへどうぞ」

 ルーエに促され、暖炉に近い椅子へ腰を下ろした。

 張り詰めていた力が抜け、身体が背もたれへ深く沈み込む。

 濡れた外套を脱ごうとしたが、水を吸った布が腕へ絡みついた。

「失礼します」

 ルーエは一言断ってから、俺の肩から外套を外した。

 続けて、乾いたタオルを差し出してくる。

「よろしければお使いください。お着替えもご用意できますので」

「風呂はあるのか?」

「もちろんありますよ。お食事もすぐにご用意できますので、どちらからでも大丈夫です」

 どちらにするか答える前に、腹が大きな音を立てた。

「……先に、飯をもらえるか?」

「はい。四日か五日、ほとんど何も召し上がっていないのでしたね。でしたら……」

 ルーエは俺の顔を見ながら、少し考えるように言葉を止めた。

 このまま、胃に優しい薄味のスープでも出されるのだろう。

 身体を心配してのことだと分かるだけに、出されたものを断るのも気が引けた。

「何か、召し上がりたいものはありますか?」

 だが、続いたのは想像していたものとは違う言葉だった。

「消化を考えるなら、柔らかく煮たスープがよいとは思います。ですが、ここでは食べたいものを召し上がってください」


 食べたいもの。

 そう尋ねられたのは、いつ以来だっただろう。

 勇者になってからの基準は、腹を満たせるか、すぐ食べられるか、次の戦いで動けるか。

 何が食べたいかと尋ねられても、周囲が期待する答えを選ぶことの方が多かった。

「……何でもいい」

 口から出たのは、いつもの言葉だった。

 ルーエは困った顔もせず、小さく頷いた。

「そうですか。では、温かいものと冷たいものなら、どちらがよいでしょう?」

「……温かいもの」

「甘いものと、塩気のあるものでは?」

「塩気がある方」

「では、お肉とお魚は?」

 暖炉の火が薪を弾き、小さく爆ぜた。

 その音を聞きながら目を閉じると、焼けた脂の匂いと、肉へ歯を立てた時の感触が浮かんだ。

「……肉が食べたい」

 口にしてから、自分でも子供みたいな答えだと思った。

 だが、ルーエは笑わなかった。

「どのようなお肉がよろしいですか?」

「そこまで決めていいのか?」

「焼くのと煮るのでは、随分違いますから」

「焼いたやつがいいな。表面が少し焦げて、カリッとしていて。噛むと肉汁が出るような……できれば、大きいやつ」

 言葉にするほど、空っぽの腹が熱を持った。

「分かりました。では、お肉を焼きましょう」

「本当にいいのか?」

「はい。ただし、最初から大きなお肉をすべて召し上がるのはお勧めしません」

 ルーエは人差し指を一本立てた。

「まずは小さめに焼いたものを、温かなスープと一緒にお出しします。まだ召し上がれそうでしたら、その後に大きなお肉を焼きましょう。それでいかがでしょうか?」

 食べたいものを否定せず、身体のことも考えた上で、俺へ確かめてくれる。

「ああ。それで頼む」

「かしこまりました」

 ルーエは穏やかに微笑むと、食堂の奥にある厨房へ入っていった。


 厨房との間に扉はなく、椅子からでも中の様子が見える。

 竈へ薪を足し、鍋を火へかけると、棚から塊肉を取り出した。

 ルーエは慣れた手つきで肉を切り分け、塩と香草を擦り込んでいく。

 何もせず待つのが落ち着かず、立ち上がろうとしたところで服の裾を引かれた。

 視線を落とす。

「むぅ」

 白くふわふわした小さな毛玉が、俺の裾を口にくわえていた。

「小さくなってる……」

 森では視界を覆うほどだったのに、今は抱き枕ほどの大きさしかなく、丸い身体に短い脚を生やしている。

 俺が立ち上がろうとすると、ムムはもう一度服を引いた。

「座っていろってことか?」

「むぅ」

 何もするなとでも言いたげに、瞳がこちらを見上げている。

 仕方なく椅子へ座り直すと、ムムは満足そうに短く鳴き、そのままとことこと厨房へ向かった。

「ムム。まだですよ」

「むぅ」

「焼いている途中のお肉は食べられませんよ」

「むむぅ……」

 ムムは竈の前へ座り込み、尻尾で床を叩いた。

 伝説では国さえ滅ぼすとされた魔獣が、肉を待ちきれずに拗ねている。

 その姿を見ていると、森で剣を向けたことが少し馬鹿らしく思えてきた。


 やがて、香草を含んだ脂の匂いが食堂へ広がった。

 ルーエは先に、柔らかく煮た根菜のスープを運んできた。

「まずは、こちらを少しだけ召し上がりください」

 続いて運ばれてきた皿には、厚く切られた肉が三切れ並んでいた。

 表面には香ばしい焼き色がつき、切り口から透明な肉汁が滲んでいる。

「……もう少し食いたいな」

 皿の上の量を見て、思わず呟いてしまった。

 「もちろん、追加でお出ししますよ。まずはこちらを召し上がってから、お身体と相談して決めましょう」

 スープへ口をつけると、根菜の甘みと温かさが冷え切った腹へ落ちていく。

 次に肉へ歯を立てる。

 カリッと焼けた表面の奥から柔らかな肉がほどけ、塩と香草に遅れて脂の甘みが広がった。

 飲み込むと、張り詰めていた何かが少しだけ緩んだ。

「……うまい」

 思わず漏れた言葉に、ルーエの目元が柔らかく緩んだ。

「ありがとうございます」

 ルーエは少し離れた場所で調理器具を片づけ始めた。

 食べている間も、身元や森で倒れていた理由を尋ねてこない。

 俺が食器を動かす音を邪魔しなかった。

 最初に出された肉とスープを食べ終えても、腹に痛みや吐き気はなかった。

 それを伝えると、ルーエは約束通り、今度は厚みのある大きな肉を焼いてくれた。

 焦げ目のついた塊へナイフを入れると、想像した通り、噛むたびに熱い肉汁が溢れた。

 自分が望んだものを、望んだ分だけ食べる。

 たったそれだけのことが、新鮮で少し楽しかった。


挿絵(By みてみん)

作品全体のイメージイラストです。

リヴェルたちや《まどろみ亭ソムニウム》の雰囲気を想像する際の参考にどうぞ。

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