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第2話 千夜喰らい

 走る。走る。走る。

 後ろを振り返ることもなく、俺を知る者のいない場所を目指して、ただひたすら走り続けた。

 どれほど遠くまで来たのかは分からない。

 いくつもの山を越え、人の暮らす町や村が見えれば避けた。

 足を止めれば、置いてきた人たちの顔が浮かぶ。

 罪悪感に押し潰されないよう、何も考えずに地面を蹴り続けた。


 不意に、足先が木の根へ引っ掛かった。

 普段なら、崩れた体勢を立て直すことなど難しくもない。

 それなのに身体は動かず、俺は濡れた地面へ肩から倒れ込んだ。

 頬に冷たいものが触れた。

 一滴、二滴と増えていき、やがて雨が深い森の枝葉をすり抜けて、火照った身体を打ち始める。

 起き上がらなければならない。

 そう思ったはずなのに、腕へ力が入らなかった。

 土が雨を吸って柔らかな泥へ変わり、外套の下まで冷たさが染み込んでくる。


 眠い。

 王都を出てから、何日走り続けたのだろう。

 最後に眠ったのがいつだったのかさえ、うまく思い出せない。

 腹の奥が低い音を鳴らす。

 そういえば、食事もほとんど取っていなかった。

 もう、このまま眠ってしまってもいいのかもしれない。

 雨が熱を奪い、濡れた土が身体をゆっくりと沈ませていく。

 冷たく、汚れているはずなのに、今の俺には、それすら誰にも触れられない寝床のように感じられた。


「あの……大丈夫でしょうか?」

 雨音の向こうから、柔らかな声が聞こえた。

 身体が先に反応し、俺は濡れた地面へ手をついて上体を起こした。

 ぼやけた視界の先に、小柄な人影が立っていた。

 背丈は俺の胸元にも届かないほどで、雨に濡れた銀白の髪が、細い身体を覆うように腰の下まで流れている。

 緩やかに波打つ髪の一部は細く編み込まれ、耳元に添えられた淡い金色の髪飾りが、雨粒の中でかすかに光っていた。

 白い頬へ張りついた前髪の奥から、淡い青紫の瞳がこちらを見下ろしている。

 柔らかく下がった目尻と、伏せたような重い瞼のせいで、こんな雨の中で夢を見ているようだった。

 どうして、こんな森の奥に一人でいるのか。

 そんな当然の疑問を口にするより先に、別の言葉が出ていた。

「こんなところにいたら危ないぞ。家族はどこにいるんだ? 俺でよければ、近くの町まで送っていくから」

 彼女は、しばらく俺を見つめていた。

 やがて眠たげな瞳がわずかに細まり、形のいい唇がほんの少しだけ尖る。

「私はこう見えても、二十歳を超えています」

 静かな声だった。

 怒っているというより、何度も同じ間違いを訂正してきた者の声に近い。

「子供扱いしないでください」

 彼女は背筋を伸ばし、小さな胸を張った。

 抗議しているはずなのだが、眠たげな瞳と小柄な身体のせいで、どうにも迫力がない。

「……本当に?」

「本当です」

 間を置かずに返された。

「人を見た目だけで判断するのは、いけないことなんですよ」

「まあ……それはそうだな。悪かった」

「いいんですよ。私を心配してくださったのでしょうから」

「それで、君はどうしてこんなところにいるんだ? 大人でも危険なことに変わりはないぞ」

「大丈夫です。ムムがいますから」

「ムム?」

「はい。ムムがあなたを見つけて、私をここまで連れてきたのでしょう」

 彼女はそう言って、背後へ視線を向けた。

 誰のことだと尋ねようとした時、その背後で何かが動いた。


 木々が揺れたのではない。

 深い森だと思っていた暗がりそのものが、ゆっくりと持ち上がっていく。

 そこでようやく気づいた。

 彼女の背後を覆っていたのは、木々でも夜の闇でもない。

 視界を埋め尽くすほど巨大な、ふわりと柔らかな毛並みだった。

 白を基調とした毛は、夜の光を受けてほんのり淡い紫を帯びて見える。

 その毛の奥から、羊を思わせる黒い湾曲した角が覗いていた。

 角の間には猫のような長い耳が伸び、額には淡く輝く三日月の紋様が浮かんでいる。

 ゆっくりと開かれた瞳は、澄んだ青。

 その奥には小さな光が瞬いていて、どこか人ではないものを思わせる不思議な目だった。

 その姿と、かつて教えられた伝承が重なった。

 背中を冷たいものが伝い、乾いた喉から掠れた声が漏れる。

 「どうしてこんなところに、伝説の魔獣《千夜喰らい》がいるんだよ……!」

 《夢喰羊獣モルフェウール》。

 現れた土地の者を深い眠りへ落とし、夢も希望も、生きる気力さえ喰らい尽くすと伝えられる魔獣だ。

 どこまでが真実かは分からない。

 だが、危険な存在として教えられてきた。

 このまま放置すれば、近くの町が襲われるかもしれない。

 何日も走り続け、食事も睡眠も満足に取っていない。

 身体に残っている力が、どれほどのものかも分からなかった。

 それでも、見てしまった以上は放っておけない。

 俺は腰の剣へ手を伸ばし、濡れた柄を強く握り込んだ。


 鞘から刃を引き抜いた瞬間、彼女が俺と魔獣の間へ一歩踏み出した。

「待ってください」

「危ない、下がれ!」

 思わず声を荒らげたが、彼女は退かなかった。

 細い身体で魔獣を庇うように両腕を広げ、わずかに眉尻を下げる。

「ムムは、誰かを襲ったりしません」

「そいつが何なのか、本当に分かっているのか?」

「もちろんです。ずっと一緒に暮らしていますから」

 あまりにも平然とした答えに、剣を構えたまま言葉が止まった。

 彼女の背後では、恐ろしいはずの白い魔獣が、庇われていることすら分かっていないように首を傾げていた。

「むぅ?」

「……一緒に?」

「はい。ムムは、とても優しい子ですよ」

「むぅ」

 彼女の言葉に答えるように、魔獣が低く鳴いた。

 その巨体がゆっくりと動く。

 反射的に剣を握る手へ力を込めると、彼女が慌てて振り返った。

「ムム、今は近づいてはいけません。怖がらせてしまいます」

「むむぅ……」

 魔獣は耳を垂らし、その場へ大人しく腹をつけた。

 雨を吸った地面が、重い身体の下で低く沈む。

 人の言葉を理解し、彼女の言いつけにも逆らわない。

 耳を伏せる姿からは、町一つを滅ぼす怪物らしい凶暴さを感じられなかった。

「本当に、襲わないのか?」

「はい。少なくとも、あなたが剣を向けなければ」

 責めるような口調ではなかった。

 それでも視線を落とすと、銀色の刃には雨粒がいくつも伝っていた。

 

「……悪かった」

 剣を鞘へ戻す。

 その音を聞いて、彼女は小さく息を吐いた。

「分かっていただければ大丈夫です。ムムも、突然剣を向けられて驚いただけですから」

「むぅ」

 魔獣が短く鳴き、彼女の背中へ鼻先を押しつけた。

「ムム。重いです」

「むむぅ」

「怒ってはいませんよ。ですから、もう少し離れてください、ね?」

 甘えるように頬を擦りつける姿を見ていると、先ほどまで剣を向けていた自分が少し馬鹿らしく思えてくる。

 緊張が抜けたせいだろうか、急に身体が重くなった。

 剣を支えていた腕から力が抜け、膝が泥の中へ沈む。

「あ……」

 彼女が受け止めようとしたが、体格差がありすぎる。

 二人まとめて倒れそうになったところを、横から伸びたムムの鼻先が支えてくれた。

 厚い毛が頬へ触れ、濡れているはずなのに、その奥には不思議な温かさが残っていた。

 「大丈夫ですか?」

「……たぶん」

「大丈夫な方は、そんなふうに倒れませんよ」

 彼女は俺の顔を覗き込み、眠たげな目をわずかに細めた。

 額へ小さな手が触れる。

 雨の中にいたはずなのに、指先は温かかった。

「熱がありますね。それに、お腹も空いているのではありませんか?」

 答えるより先に、腹の奥から情けない音が鳴った。

「……何も食べてないんだ」

「いつからですか?」

「覚えてない。四日か、五日……たぶん、それくらいだ」

「そうですか……」

 彼女は、それ以上何も聞かなかった。

 なぜ何日も食べず、こんな森の奥で倒れていたのか。

 普通なら尋ねてもおかしくないことを、ひとつも口にしない。

 ただ俺の顔をしばらく見つめると、何かを受け入れるように小さく頷いた。

 

 彼女はムムの毛へ手を置き、何かを確かめるように撫でる。

 ムムは低く喉を鳴らすと、森の奥へ顔を向けた。

「ここへ来たのは、やはりあなたを見つけたからだったのですね」

「俺を?」

「ムムは、休む場所を必要としている方を見つけるのが得意なんですよ」

「……魔物が?」

「魔物ではなく、ムムです」

 柔らかな口調の中に、そこだけは譲らないという響きがあった。

「《千夜喰らい》は、知らない方々が勝手につけた名前です。ムムは、私がつけたこの子の名前ですから」

「むぅ」

 彼女の手へ頬を寄せ、ムムが満足そうに目を細める。

 伝承の魔獣を、鳴き声だけで名づけたのだろうか。

 聞きたいことはいくつもあったが、頭の中へ薄い霧がかかったように考えがまとまらない。

 彼女はそんな俺を見上げ、森の奥を指した。

「お話は、温かい場所でしませんか? このままでは、本当に倒れてしまいます」

「近くに家があるのか?」

「家というより、宿ですね」

 彼女がそう告げると、ムムがゆっくりと身体を起こした。

 視界を覆っていた巨体が動き、その向こう側が少しずつ見えてくる。


 深い森の中に、橙色の明かりが浮かんでいた。

 木々の間に建つ、小さな二階建ての宿。

 丸みを帯びた屋根からは煙突が伸び、雨に濡れた窓の向こうで暖炉の火が揺れている。

 玄関先の看板には、柔らかな文字で名前が刻まれていた。

 ——まどろみ亭ソムニウム。


「ようこそ」

 彼女は宿へ片手を向け、穏やかに微笑んだ。

「温かい食事と、眠れるお部屋があります。今夜は、こちらで休んでいきませんか?」

 眠れる。

 その一言だけが、霞んだ頭の中へ鮮明に届いた。


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