第31話 一人暮らし
一人暮らしを始めてから、数日が経った。
待望の生活は、その名の通り最高だった。
朝は好きな時間に起きればいい。
誰かに予定を聞かれることもなければ、どこかへ行かなければならない理由もない。
腹が減れば市場へ行き、その日に食べたいものを買う。
何もしたくなければ、窓を開けたまま海を眺めて昼まで寝ていても誰にも文句は言われなかった。
「……最高だな」
ある朝、焼いた魚とパンを食べながら、何度目か分からない言葉を口にする。
市場の魚屋にもすっかり顔を覚えられ、顔を出せば、その日うまい魚を教えてくれる。
昼になれば露天風呂へ行き、海を眺めながら湯に浸かる。
帰りに気になる店があれば立ち寄って、夕飯を食べて帰る。
夜は波の音を聞きながら、ムムの毛を使った寝具へ潜り込む。
一度眠れば、朝まで目を覚まさない日も珍しくなかった。
何も起きない。
誰も訪ねてこない。
誰にも何かを期待されない。
それだけで、一日が驚くほど穏やかに過ぎていった。
ただ、一つだけ問題があるとすれば。
「……飯、作るの面倒だな」
数日もすると、それに気づいた。
料理ができないわけではない。
ルーエと一緒に作っていた時に、簡単なものならそれなりに覚えたし、やろうと思えばできる。
ただ、一人だと料理を作るところから後片づけまで、全部自分でやらなければならない。
「……今日はいいか」
そう思った日は、そのまま何も食べないこともあった。
昼になっても腹が減らなければ寝て過ごし、夕方になってようやく空腹を感じれば、パンと果物だけで済ませる。
それでも、誰にも怒られない。
「こういうのがいいんだよな」
誰に言うでもなく呟きながら、俺はまたベッドへ横になった。
自由だった。
俺がずっと欲しかった生活だった。
一人暮らしを始めて、五日ほどが過ぎた。
食って寝てばかりもどうかと思い、海へ向かって久しぶりに剣を振った。
家の前からは海が一望できる。
潮風を浴びながら水平線へ向かって剣を振り下ろすのは、思っていた以上に爽快だった。
ただ、何度も同じように海へ向かって剣を振っているうちに、妙な既視感を覚え始めた。
「……これ、別に剣じゃなくてもよくないか?」
そうして気づけば、剣は釣り竿へと変わっていた。
もともと何もせず海を眺めていることを苦に感じない俺にとって、釣りは思った以上に性に合っていた。
ぼんやり波を眺めながら糸を垂らし、気が向いた時だけ竿先を見る。
そして初めて魚が掛かった時には、自分でも驚くほど興奮した。
「おっ……来た、来た!」
竿を引き、暴れる魚をなんとか岸へ上げる。
銀色の身体が陽の光を反射して跳ねるのを見た瞬間、思わず声が出た。
「ルーエ、この魚、晩飯にできないか……な」
そこまで言って、止まった。
当然、返事はない。
「……そうだった」
少しだけ間を置いてから、釣った魚を持ち上げる。
「ルーエがいないと、こういうのも自分で料理しないといけないんだよな」
家へ戻り、慣れない手つきで魚を捌いていると、今度は別の光景が頭に浮かんだ。
この匂いがしていれば、たぶんムムは厨房の近くまでやって来て、まだかと言わんばかりに俺の足元をうろうろしていたはずだ。
「……今頃なら、むぅむぅ言ってそうだな」
そう呟きながら、一人分の魚を焼いた。
焼き上がった魚を皿へ移し、食卓に運ぶ。
見た目は悪くない。
少し皮が焦げたものの、初めて自分で釣った魚だと思えば十分うまそうだった。
「いただきます」
一口食べる。
「……うまいな」
思っていたより身が柔らかく、脂も乗っている。
自分で釣ったという補正もあるのかもしれないが、市場で買った魚とはまた違う満足感があった。
「これなら次はもう少し大きいのを——」
そこまで言って、また口を閉じる。
別に誰かへ話しかけていたわけではない。
ただ、旅をしていた時は食事をしながら何か思いつけば、そのまま口に出すのが当たり前になっていたらしい。
「……独り言増えたな」
苦笑して、残りの魚を食べる。
食事を終えれば、自分で皿を洗う。
少し面倒だったが、初めて釣った魚を食べた満足感もあって、その日は珍しく後片づけまできちんと済ませた。
それからも釣りは続けた。
市場の老人に餌の付け方を教わり、少しずつ釣果も増えていく。
釣れなければ海を見て、腹が減れば帰る。
特に予定もない俺には都合のいい趣味だった。
そんな生活を続けているうちに、一人暮らしを始めて十日ほどが過ぎた。
暮らしにはすっかり慣れた。
釣れた魚を料理し、面倒なら外で食べる。
天気のいい日は海を眺めて昼寝もした。
何も不満はない。
少なくとも、そう思っていた。
ただ——ここ数日、少しだけ寝つきが悪くなっていた。
夜、ベッドへ入り、目を閉じる。
寝具は相変わらず最高で、聞こえるのも穏やかな波音だけ。
暑くも寒くもない。
それなのに、眠れなかった。
「……なんでだ?」
寝返りを打って、もう一度目を閉じる。
遠くで、ざあ、と波が鳴る。
少し間を置いて、また同じ音が続く。
最初にこの家へ泊まった夜は、その音を聞いているうちにいつの間にか眠っていた。
なのに今は、波と波の間にある静けさの方が妙に長く感じられる。
「……生活リズム崩れたかな」
好きな時に寝て、好きな時に起きている。
きっとそのせいだろう。
そう考えて、その日は無理にでも目を閉じた。
翌日は昼寝をやめた。
朝から町を歩き、昼過ぎまで釣りをして、夕方には露天風呂にも入った。
身体は十分疲れていたし、夜にはちゃんと眠気も来ていた。
「今日は寝られるだろ」
そう思ってベッドへ入った。
けれど、やっぱりなかなか眠れなかった。
仰向けになって天井を見つめているうちに、何となく顔を横へ向ける。
当然、そこには誰もいない。
「……?」
自分でも何を確認したのか分からず、もう一度枕へ顔を戻した。
しばらくして、今度は足元へ視線を向ける。
そこにも何もない。
「……ムムなら、この辺で丸くなってたのにな」
ソムニウムでは、俺のベッドへ勝手に潜り込んでくることもあった。
邪魔だと言いながら押し退けても、気づけばまた近くにいる。
その柔らかな身体を思い出しながら毛布へ手を置く。
触り心地はよく似ている。
でも、当然ながら動かない。
「……当たり前か」
小さく笑って、もう一度目を閉じた。
眠りを邪魔するものは何もない。
下の階から食器を片づける音もしない。
廊下を小さな足で歩く音も、どこかから「むぅ」と間の抜けた声が聞こえてくることもない。
誰にも起こされない。
誰にも頼られない。
誰のことも気にせず、好きなだけ眠れる。
ずっと、こんな場所を探していた。
なのに——。
『おやすみなさい』
「……っ」
ルーエの声が聞こえた気がして、思わず身体を起こした。
けれど、薄暗い部屋には当然誰もいない。
波の音だけが、何事もなかったように遠くで繰り返されている。
「……会いたいな」
口から零れた言葉に、自分で少し驚いた。
会いたい。
ルーエに。
ムムに。
「……そうか」
そこでようやく、ずっと胸の奥に引っかかっていたものの正体が分かった気がした。
俺は、一人でいられなかったわけじゃない。
一人暮らしが嫌になったわけでも、この町が合わなかったわけでもない。
今でもこの暮らしは好きだ。
ただ——一人でいることより、あいつらと一緒にいる方が好きになっていただけだった。
「……なんだ」
思わず笑いが漏れた。
ここに住むと決めたのだから。
一度別れたのだから。
今さら戻ったら、どう思われるのか。
そんなことを頭のどこかで勝手に考えていただけだった。
けれど。
「会いたいなら、会いに行けばいいだけじゃないか」
今度は、自分の望んでいることがはっきり分かった。
俺はベッドから立ち上がった。




