第30話 旅の終着点
商業ギルドで家の購入手続きを終え、そのままソムニウムへ向かった。
扉を開けると、いつもの温かな空気と料理の匂いが迎えてくれる。
「おかえりなさい、リヴェルさん」
「むぅ!」
「ただいま」
ムムが足元まで駆け寄ってきたので、しゃがんで頭を撫でる。
柔らかな毛に指を埋めながら、どう切り出そうか少しだけ迷った。
「ルーエ」
「はい?」
「家、買ってきた」
ルーエの手が僅かに止まった。
「……そうですか」
「ああ。今日、商業ギルドで手続きしてきた」
「では、この町に住まれるのですね」
「そのつもりだ」
口にしてみても、不思議と迷いはなかった。
「長かったけど……ようやく見つけた気がする」
「リヴェルさんがお探しだった場所を、ですか?」
「ああ」
ルーエはしばらく俺を見つめたあと、静かに頷いた。
「それは、よかったです」
「……うん」
それだけだった。
本当にいいのかとも、もう少し旅を続けないかとも言わない。
俺がここに住むと決めたことを、いつも通りそのまま受け取ってくれた。
それがルーエらしくて、ありがたかった。
なのに。
「……」
なぜか、そのまま会話を終わらせる気にはなれなかった。
「ソムニウムは、いつまでここにいる?」
「リヴェルさんのお引っ越しが終わる頃までは、滞在しようと思っています」
「そうか」
「家具なども必要でしょうし、お手伝いできることがあればお申しつけください」
「じゃあ、手伝ってもらおうかな。一人で全部やるの面倒だし」
「はい」
「むぅ!」
「ムムも手伝ってくれるのか?」
「むぅ!」
「荷物食うなよ」
「むぅ?」
「そこはしっかり頷いてくれよ……」
ルーエも小さく笑った。
いつもと変わらないやり取りだった。
けれど、その後に訪れた静けさは、どこか少しだけ違って感じられた。
「……ルーエは、その後どうするんだ?」
「今まで通りですよ」
ルーエは穏やかに答える。
「ムムと一緒に旅をしながら、必要としてくださる方をお迎えします」
「そっか」
「はい」
分かっていたことだった。
ソムニウムは一つの町に留まる宿ではないし、俺がこの町へ降りるからといって、ルーエたちまでここに残る理由はない。
「でも……カレーとかジャムを食べられなくなるのは残念だな」
「でしたら、日持ちするように加工したものを、ある程度お渡ししましょうか?」
「いいのか? 結構手間だろ」
「お引っ越し祝いです」
「そう言ってくれると助かるよ。あ、それとムムの毛を使った寝具って余ってないか? よかったら売ってほしいんだけど」
「ソムニウムにも予備がいくつかございますので、構いませんよ」
「やっぱ高い?」
「通常の販売価格でしたら、それなりには」
「伝説の魔獣の毛を使った寝具だもんな……。こいつを見てると、まったくそんな感じしないけど」
そう言いながらムムの頬あたりを指先でつつくと、嫌がるどころか嬉しそうに顔を寄せてくる。
「むぅ、むぅ」
「リヴェルさんでしたら——」
「いや、ちゃんと払うよ」
「……そうですか」
「そこは払わせてくれ。これから長く使うつもりだしな」
「分かりました」
ムムが俺を見上げる。
「これからも、お前の毛で寝ることになるな」
「むぅ!」
そんなムムの柔らかな頭を撫でながら、俺はルーエと新しい家に何が必要か、食事を続けながら一つずつ話していった。
こうして、俺の新しい暮らしの準備が少しずつ始まった。
それから数日で、食卓や食器、鍋を揃えた。
寝室にはムムの毛の寝具を運び、ルーエはカレーやジャム、保存食まで用意してくれた。
もともとの荷物が少ないこともあり、すぐに暮らせる形になった。
「……こんなもんかな」
最後の箱を棚へ押し込み、部屋を見渡す。
寝室が一つ。
台所と、小さな食卓。
風呂に、海の見える窓。
余計なものはほとんどない。
「うん。これくらいでいいんだよな」
王都では、勇者が暮らす場所だからと広すぎる部屋を用意されたこともあった。
掃除をする人間がいて、食事を作る人間がいて、何か必要なものがないかと毎日のように尋ねられる。
そういう生活とは正反対だった。
「リヴェルさん」
「ん?」
振り返ると、玄関にルーエが立っていた。
「荷物は、これですべてでしょうか」
「ああ。たぶん」
「たぶん、なのですか?」
「必要になったらその時買えばいいだろ」
「それもそうですね」
その足元では、ムムが部屋の中をうろうろと歩き回っていた。
ルーエは保存食の場所や扱いを一つずつ教えてくれた。
「こちらは早めにお召し上がりください。ジャムは日持ちしますが、開けた後はなるべく涼しい場所へ置いてくださいね」
「分かった」
「カレーはこちらです。レシピ通りに、私が調合したスパイスを使っていただければ作れると思います」
「ああ。一緒に何度も作ったからな」
「……そうでしたね」
ルーエはほんの少しだけ目を細めた。
窓から入り込んだ海風が、白銀の髪を僅かに揺らす。
そして、家の中を一通り確認し終えたところで、ルーエが静かに口を開いた。
「それでは、私たちは明日の朝に出発します」
「……明日か」
「はい」
「次はどこに行くんだ?」
「まだ決めていません。ひとまず北の街道を進んでみようかと思っています」
「相変わらず気ままな旅だな」
「リヴェルさんも、その方がお好きでしたよね?」
「まあな」
「むぅ!」
ムムも同意するように、元気よく鳴いた。
◆
翌朝。
俺は、町外れに停められたソムニウムの前に立っていた。
ムムはすでに大きな姿へ戻り、出発の支度を終えていた。
「……こうして見ると、やっぱでかいな」
「むぅ!」
「大きい時のムム、ちゃんと触る機会なかったんだよな。実は一回、こうしてみたかったんだよ」
そう言って、俺はムムのふかふかな体毛へ全身ごと飛び込んだ。
身体がそのまま埋もれるほどの柔らかさに包まれ、思わず頬を押しつける。
「……やっぱ最高だな」
「むぅぅ」
ムムも嬉しそうに、腹の底から響くような低い声を鳴らした。
しばらくその感触を堪能してから身体を離れる。
「元気でな」
「むぅ……」
「そんな声出すなよ。別に、二度と会えないって決まったわけじゃないだろ」
「むぅ」
それでもどこか不満そうだったので、地面へ飛び降りてから大きな鼻先をゆっくり撫でた。
「また会った時は、うまいもの食わせてやるから」
「むぅ!」
「そこは元気になるの早いな……」
最後までムムらしい反応に、思わず笑ってしまった。
やがてルーエも宿から出てきて、俺の前で立ち止まる。
「では……」
「……ああ」
「今まで、ご利用ありがとうございました」
ルーエはいつもの穏やかな声でそう告げると、胸の前で両手を重ね、宿を訪れた客を送り出す時と同じように、ゆっくりと頭を下げた。
けれど、普段より少しだけ長く、そのまま顔を上げなかった。
白銀の髪が肩からさらりと落ち、海風に僅かに揺れる。
俺も何か言わなければと思いながら、その姿をしばらく見つめていた。
「……こっちこそ、今までありがとな。あの雨の日に二人と出会えて、本当によかったよ」
「こちらこそ。リヴェルさんと旅ができて、とても楽しかったです」
「俺も楽しかった」
その言葉は、思ったより自然に出た。
温泉に入り。
カレーを作り。
パンケーキのためにバターを作り。
果物の祭りを歩いた。
最初は静かな場所を探すための足として乗せてもらっただけだったのに、気づけば随分いろいろな町を一緒に回った。
「……また近くに来たら、寄ってくれよ」
「はい。機会がありましたら、必ず」
「ああ」
それ以上の約束はしなかった。
「では、お元気で」
「ルーエもな」
「むぅ!」
「ムムも」
ルーエがソムニウムへ歩き出したあと、少ししてこちらを振り返る。
「リヴェルさん。おやすみなさい」
別れ際に言う言葉じゃないだろ、と少し思った。
けれど、俺も同じ言葉を返した。
「おやすみ」
やがて車輪がゆっくりと回り始めた。
見慣れた宿が街道を進み、少しずつ遠ざかっていく。
「……またな」
最後に小さく手を上げる。
窓辺に立ったルーエも、こちらを見ながら同じように手を上げてくれた。
やがてソムニウムの姿は道の向こうへ消え、残ったのは海から吹いてくる風と、遠くで繰り返される波の音だけだった。
「……よし」
俺は一度、大きく伸びをする。
「今日から、本当に一人暮らしか」
ずっと望んでいた生活が、ようやく始まった。




