第29話 選ばない理由
朝、昨日と同じ市場へ向かった。
昨日魚を買った店の前を通ると、店主がこちらに気づいた。
「お、昨日の魚どうだった?」
「うまかったよ」
「そりゃよかった。朝飯がこれからなら、今日はこっちがいいぞ。昨日のより脂は少ないけど、その分軽いし、焼いても煮ても何にでも合わせやすい」
「じゃあ、それをもらおうかな」
「あいよ」
ここへ来てから話した人は、まだほんの数人しかいない。
それでも、必要以上に何かを勧めてきたり、どこから来たのかと根掘り葉掘り聞いてくる人はいなかった。
かといって、ぶっきらぼうなわけでもない。
必要な分だけ話して、それ以上は踏み込んでこない。
「……もう、ここでもいいかもな」
思わず口から零れた。
「何が?」
「いや、こっちの話」
「そうか?」
店主は首を傾げたものの、それ以上聞いてこなかった。
それもまた、この町を気に入る理由の一つになった。
午前中は一人で町を歩いた。
薬屋に雑貨屋、鍛冶屋は小さいものの、包丁や日用品程度なら問題なく揃えられる。
少し高台へ上がれば海を一望できる露天風呂まであり、物価も特別高くはない。
町の外へ少し歩けば畑が広がっていて、野菜はそこで作られているらしい。
治安も悪くない。
そして何より——誰も俺の顔を見ても、勇者だと気づく人はいなかった。
「……ないな」
町外れの坂道で足を止める。
どこかに、この町を選ばない理由があるんじゃないかと思って探していた。
冬になれば雪で街道が閉ざされるとか。
人が多すぎて落ち着かないとか。
昔の俺を知っている誰かがいるとか。
近所付き合いが濃すぎて、放っておいてもらえないとか。
あるいは何か事件が起きて、結局また俺が勇者だと知られてしまうとか。
何か一つくらいあるはずだと思って歩いた。
けれど、今のところ何も見つからない。
むしろ歩けば歩くほど、ここで暮らさない理由の方が減っていった。
「何がないのでしょう?」
いつの間にか合流していたルーエが、隣から尋ねてきた。
その足元では、ムムが朝市でもらったらしい小魚を嬉しそうに咥えている。
「この町の駄目なところ」
「見つかりましたか?」
「いや。だから困ってる」
「困るのですか?」
「……そう言われると、別に困らないな」
「はい」
ルーエはそれだけ答えた。
俺は改めて町を見る。
坂の下には穏やかな入り江があり、その向こうには青い海がどこまでも広がっている。
港では漁師たちが働いているが、ここまで上がれば声も遠く、聞こえてくるのは波の音くらいだった。
海風が吹く。
潮の匂いに、どこかの家から漂ってくる焼き魚の香りが混ざる。
「ここ、かなりいいかもしれない」
「そうですね」
「ルーエもそう思う?」
「リヴェルさんがお探しだった条件には、とても合っていると思います」
「……だよな」
もう一度、海と町を眺める。
それから少し考えて、隣にいるルーエへ顔を向けた。
「なあ、ルーエ。一つお願いがあるんだけど」
「はい?」
「もう少しだけ、この町に滞在してくれないか?」
ルーエが静かに俺を見る。
「ここに住むつもりなら、一度ちゃんと暮らしてみたいんだ。もし何か違うと思った時に、すぐソムニウムへ戻れるようにっていうのは……ちょっと都合がよすぎる気もするけど」
自分で言っていて、少し苦笑する。
「一度別れたら、次にいつ会えるか分からないからな」
「はい。私は構いませんよ」
ルーエはあっさりと頷いた。
「本当に?」
「はい。こちらの町はお魚の種類も豊富ですから」
「そこ?」
「滞在する理由としては、十分かと」
「むぅ!」
足元のムムまで、小魚を咥えたまま強く同意した。
「……お前たち、結構この町気に入ってるだろ」
「そうかもしれません」
ルーエが小さく笑った。
それから数日、この町での生活を試すように過ごした。
朝になれば市場へ行って魚や肉を買い、昼は海沿いを歩き、夜は町の宿や借りている家で眠る。
気が向けばソムニウムへ戻り、ルーエの料理を食べてムムを撫でた。
何も起きない日が繰り返される。
それが退屈ではなく、心地よかった。
そして三日目の朝。
借りている家の件で、商業ギルドから話があると呼び出された。
「購入を検討されている方が、他にもいらっしゃいまして」
「他にも?」
「はい。商人の方で、この辺りを通る際の滞在先と、別荘を兼ねて購入したいとのことです。もちろん、まだ契約が決まったわけではありませんが」
「……なるほど」
家自体はもともと売りに出されている。
俺は滞在を考えていると伝えていたから、少しだけ先に話を通してくれたらしい。
「もし購入をお考えでしたら、近いうちにお返事をいただければと」
「ああ。分かった」
提示されていた金額そのものは、問題ではなかった。
勇者として旅をしていた頃に受け取った報酬や褒賞金は、ほとんど使う暇もないまま残っている。
この家を一軒買ったところで、生活に困るような額ではなかった。
問題は——ここで決めるかどうかだった。
商業ギルドを出たあと、俺は家へ戻らず、ルーエにも会わないまま、何の当てもなく町を歩いた。
市場を抜け、海沿いを歩き、気づけばまた高台へ続く坂道を上っている。
ここ数日で何度も通った道なのに、今日は一つ一つ確かめるようにゆっくり歩いた。
今を逃せば、あの家は別の誰かのものになるかもしれない。
もちろん、金と時間をかければ似たような家を建てることはできる。
けれど、同じ場所にあって、同じ景色が見えて、同じくらい静かな家をもう一度探すとなれば、どれだけ時間がかかるか分からない。
ここには、俺がずっと探していたはずの暮らしがあった。
高台まで上ったところで、俺は足を止める。
海を見下ろせる石垣へ腰を下ろし、荷物の中から一冊の帳面を取り出す。
町を訪れるたびに書いてきた、いつもの評価。
食事。
睡眠。
暮らしやすさ。
人との距離。
匿名性。
慣れた項目を書き並べ、最初の欄へ数字を書こうとして——手が止まった。
俺の理想とこの町を比べて、足りないものを探すために始めたはずだった。
けれど今は、何点ならここを選んでいいのかを考えること自体が、妙に馬鹿らしく思えた。
「……もう、いいか」
ペンを置く。
数字の入っていない項目だけが、帳面の上に残った。
その日の夕方。
俺は商業ギルドへ戻り、家を買いたいと伝えた。
こうして俺は、長く続けてきた旅の終着点として、この海辺の町に根を下ろすことを決めた。




