↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
29/32

第29話 選ばない理由

 朝、昨日と同じ市場へ向かった。

 昨日魚を買った店の前を通ると、店主がこちらに気づいた。

「お、昨日の魚どうだった?」

「うまかったよ」

「そりゃよかった。朝飯がこれからなら、今日はこっちがいいぞ。昨日のより脂は少ないけど、その分軽いし、焼いても煮ても何にでも合わせやすい」

「じゃあ、それをもらおうかな」

「あいよ」

 ここへ来てから話した人は、まだほんの数人しかいない。

 それでも、必要以上に何かを勧めてきたり、どこから来たのかと根掘り葉掘り聞いてくる人はいなかった。

 かといって、ぶっきらぼうなわけでもない。

 必要な分だけ話して、それ以上は踏み込んでこない。

「……もう、ここでもいいかもな」

 思わず口から零れた。

「何が?」

「いや、こっちの話」

「そうか?」

 店主は首を傾げたものの、それ以上聞いてこなかった。

 それもまた、この町を気に入る理由の一つになった。


 午前中は一人で町を歩いた。

 薬屋に雑貨屋、鍛冶屋は小さいものの、包丁や日用品程度なら問題なく揃えられる。

 少し高台へ上がれば海を一望できる露天風呂まであり、物価も特別高くはない。

 町の外へ少し歩けば畑が広がっていて、野菜はそこで作られているらしい。

 治安も悪くない。

 そして何より——誰も俺の顔を見ても、勇者だと気づく人はいなかった。


「……ないな」

 町外れの坂道で足を止める。

 どこかに、この町を選ばない理由があるんじゃないかと思って探していた。

 冬になれば雪で街道が閉ざされるとか。

 人が多すぎて落ち着かないとか。

 昔の俺を知っている誰かがいるとか。

 近所付き合いが濃すぎて、放っておいてもらえないとか。

 あるいは何か事件が起きて、結局また俺が勇者だと知られてしまうとか。

 何か一つくらいあるはずだと思って歩いた。

 けれど、今のところ何も見つからない。

 むしろ歩けば歩くほど、ここで暮らさない理由の方が減っていった。


「何がないのでしょう?」

 いつの間にか合流していたルーエが、隣から尋ねてきた。

 その足元では、ムムが朝市でもらったらしい小魚を嬉しそうに咥えている。

「この町の駄目なところ」

「見つかりましたか?」

「いや。だから困ってる」

「困るのですか?」

「……そう言われると、別に困らないな」

「はい」

 ルーエはそれだけ答えた。


 俺は改めて町を見る。

 坂の下には穏やかな入り江があり、その向こうには青い海がどこまでも広がっている。

 港では漁師たちが働いているが、ここまで上がれば声も遠く、聞こえてくるのは波の音くらいだった。

 海風が吹く。

 潮の匂いに、どこかの家から漂ってくる焼き魚の香りが混ざる。

「ここ、かなりいいかもしれない」

「そうですね」

「ルーエもそう思う?」

「リヴェルさんがお探しだった条件には、とても合っていると思います」

「……だよな」

 もう一度、海と町を眺める。

 それから少し考えて、隣にいるルーエへ顔を向けた。

「なあ、ルーエ。一つお願いがあるんだけど」

「はい?」

「もう少しだけ、この町に滞在してくれないか?」

 ルーエが静かに俺を見る。

「ここに住むつもりなら、一度ちゃんと暮らしてみたいんだ。もし何か違うと思った時に、すぐソムニウムへ戻れるようにっていうのは……ちょっと都合がよすぎる気もするけど」

 自分で言っていて、少し苦笑する。

「一度別れたら、次にいつ会えるか分からないからな」

「はい。私は構いませんよ」

 ルーエはあっさりと頷いた。

「本当に?」

「はい。こちらの町はお魚の種類も豊富ですから」

「そこ?」

「滞在する理由としては、十分かと」

「むぅ!」

 足元のムムまで、小魚を咥えたまま強く同意した。

「……お前たち、結構この町気に入ってるだろ」

「そうかもしれません」

 ルーエが小さく笑った。

 

 それから数日、この町での生活を試すように過ごした。

 朝になれば市場へ行って魚や肉を買い、昼は海沿いを歩き、夜は町の宿や借りている家で眠る。

 気が向けばソムニウムへ戻り、ルーエの料理を食べてムムを撫でた。

 何も起きない日が繰り返される。

 それが退屈ではなく、心地よかった。


 そして三日目の朝。

 借りている家の件で、商業ギルドから話があると呼び出された。

「購入を検討されている方が、他にもいらっしゃいまして」

「他にも?」

「はい。商人の方で、この辺りを通る際の滞在先と、別荘を兼ねて購入したいとのことです。もちろん、まだ契約が決まったわけではありませんが」

「……なるほど」

 家自体はもともと売りに出されている。

 俺は滞在を考えていると伝えていたから、少しだけ先に話を通してくれたらしい。

「もし購入をお考えでしたら、近いうちにお返事をいただければと」

「ああ。分かった」

 提示されていた金額そのものは、問題ではなかった。

 勇者として旅をしていた頃に受け取った報酬や褒賞金は、ほとんど使う暇もないまま残っている。

 この家を一軒買ったところで、生活に困るような額ではなかった。

 問題は——ここで決めるかどうかだった。

 

 商業ギルドを出たあと、俺は家へ戻らず、ルーエにも会わないまま、何の当てもなく町を歩いた。

 市場を抜け、海沿いを歩き、気づけばまた高台へ続く坂道を上っている。

 ここ数日で何度も通った道なのに、今日は一つ一つ確かめるようにゆっくり歩いた。

 今を逃せば、あの家は別の誰かのものになるかもしれない。

 もちろん、金と時間をかければ似たような家を建てることはできる。

 けれど、同じ場所にあって、同じ景色が見えて、同じくらい静かな家をもう一度探すとなれば、どれだけ時間がかかるか分からない。

 ここには、俺がずっと探していたはずの暮らしがあった。

 高台まで上ったところで、俺は足を止める。

 海を見下ろせる石垣へ腰を下ろし、荷物の中から一冊の帳面を取り出す。

 町を訪れるたびに書いてきた、いつもの評価。

 

 食事。

 睡眠。

 暮らしやすさ。

 人との距離。

 匿名性。


 慣れた項目を書き並べ、最初の欄へ数字を書こうとして——手が止まった。

 俺の理想とこの町を比べて、足りないものを探すために始めたはずだった。

 けれど今は、何点ならここを選んでいいのかを考えること自体が、妙に馬鹿らしく思えた。

「……もう、いいか」

 ペンを置く。

 数字の入っていない項目だけが、帳面の上に残った。


 その日の夕方。

 俺は商業ギルドへ戻り、家を買いたいと伝えた。

 こうして俺は、長く続けてきた旅の終着点として、この海辺の町に根を下ろすことを決めた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。