第28話 海辺の町
アリエルを出てからも、ソムニウムは何度か町に立ち寄った。
山あいの町では、焼いた茸と燻製肉がうまかった。
空気も静かで、人も少ない。
ただ、冬になれば雪で街道が閉ざされるらしい。
大きな川沿いの宿場町にも寄った。
食べ物には困らず、生活するには便利そうだったが、朝から晩まで人と荷車が行き交っていた。
それに、昔俺が助けた町だったらしく、広場には剣を掲げた俺の銅像まで建っていたので、見つかる前に逃げるように町を出た。
小さな農村はかなり惜しかった。
住民も穏やかで、家も安い。
けれど、よそ者が来れば翌日には村中が知っているような場所で、人通しの距離感も近かった。
どこも悪い町ではなかった。
むしろ、住めと言われれば普通に暮らしていけると思う。
ただ、一つずつ。
俺が求めているものとは、どこかが少しだけ違った。
そんな旅を続けていたある日、潮の匂いがした。
「……海?」
窓を開ける。
草木の匂いに混じって、少し湿った塩気のある風が頬へ触れた。
遠くには青い水平線が広がっている。
「この先に海辺の町があります」
御者台からルーエの声が聞こえた。
「大きい町?」
「いえ。それほど大きくはありません。入り江にある漁業の町だそうです」
「漁業……」
その一言だけで、少し期待が膨らむ。
「行ってみよう」
「はい」
「むぅ!」
ムムまで分かったのか元気よく鳴いた。
緩やかな坂道を下っていくにつれ、海は少しずつ大きくなっていった。
やがて見えてきたのは、俺が想像していたような大きな港町ではなかった。
弧を描いた穏やかな入り江。
その周囲に、白や薄茶色の壁をした家々が斜面に沿って並んでいる。
港には何隻もの漁船が停まっているものの、大型の商船は見当たらない。
荷運びの怒号もなく、聞こえてくるのは波の音と、船の上で交わされる漁師たちの声くらいだった。
「……静かだな」
「そうですね」
町へ入っても、その印象は変わらなかった。
市場にも港にも人はいるし、旅人の姿もある。
それでも、誰も俺たちを気に留めなかった。
小さくなったムムを連れた見慣れない三人組を一度見るくらいで、すぐ自分の仕事へ戻っていく。
「旅人が多い町なのか?」
「船乗りや、沿岸を旅する方が昔からよく立ち寄るそうです。商業港ではありませんが、人の出入りには慣れているのでしょう」
「なるほどな」
それは、かなりありがたかった。
◆
まずは宿を探す前に、市場へ向かった。
昼を少し過ぎた頃だったが、港にはまだ朝に揚がった魚がずらりと並んでいた。
「……種類が多いな」
細長い銀色の魚、平たい魚、赤い鱗のもの。桶では貝や甲殻類まで動いている。
「むぅ……」
ムムがじっと魚を見つめていた。
「ムムは魚も好きなのか?」
「むぅ!」
「みたいですね」
「こいつ、食えないものあるのかな……」
そんなことを話していると、一軒の店から声がかかった。
「旅の人?」
「ああ。今さっき着いたばかり」
「そっか」
店の男はそれ以上こちらを詮索することもなく、並んだ魚の中から一匹を持ち上げた。
「魚を食べたいなら、こういうのがおすすめだよ。慣れてないと見分けづらいだろうけど、これは今朝獲れたやつだから、塩だけで十分うまい」
「じゃあ、それをもらおうかな」
「二人分?」
「二人と……」
「むぅ」
「こいつの分も」
「じゃあ三匹だな」
魚を包んでもらい、代金を払う。
「この辺で食事できるところってある?」
「通りを一本上がったところに食堂があるよ。魚を持っていけば、その場で焼いてくれる」
「ありがとう」
「良い旅を」
それだけだった。
店を離れてから、俺は思わず振り返る。
「……いいな」
「お魚がですか?」
「いや、人との距離感がさ」
「なるほど」
「魚もいいけどな」
「むぅ!」
「ムムはお魚の方みたいですね」
どうやら、そうらしい。
◆
教えてもらった食堂では、買った魚をそのまま焼いてもらった。
表面に軽く塩を振り、皮が少し焦げるまで火を入れただけのもの。
それに、貝や魚介を煮込んだ白濁したスープと、海藻と野菜の和え物、焼きたてのパンが並ぶ。
豪華な料理ではない。
けれど、一口食べてすぐに分かった。
「……うまい」
焼いた魚の身は柔らかく、皮にはしっかり脂が乗っている。
塩だけだからこそ魚そのものの味がよく分かり、そこへ少しだけ柑橘を絞ると、脂の重さまで綺麗に消えた。
スープにも貝の旨味がしっかり溶け込んでいて、パンを浸すだけで十分うまかった。
「これは、毎日でも食べられそうだな」
「気に入られましたか?」
「ああ。ラサールみたいに、一口食って驚くような感じじゃないけど……」
もう一口、魚を食べる。
「一年住むなら、こういう飯の方がいいかもしれない」
「確かに、毎日食べても飽きにくそうですね」
ムムはすでに一匹目を食べ終えていた。
「早くない?」
「むぅ!」
「追加はあとでな」
食堂の店主に聞いてみると、朝は焼き魚や貝のスープ、昼は魚介を挟んだパンや煮込み、夜には酒蒸しや魚の香草焼き、パエリアのような米料理まであるらしい。
魚ほど種類は多くないものの、肉料理も十分にある。
それ以上に、内陸ではまず見られないほど種類豊富な魚が、これだけ新鮮な状態で毎日手に入るというのは大きかった。
さらに町の裏手では柑橘類も採れ、それを使った焼き菓子や甘味もあるという。
「……すごく充実してるよな」
「何がでしょう?」
「食生活」
ルーエが小さく笑った。
◆
その日は、ソムニウムではなく町の宿に泊まることにした。
「今日は、いつも通りこちらへ戻られないのですね」
「ああ。さっきの食堂の人に聞いたら、最近ちょうど空き家になった家があるらしくてさ。せっかくだから、今日はそこを見てみようかなって」
これまでも候補になりそうな町では、ソムニウムではなく現地の宿へ一晩過ごし、実際の暮らしや寝心地を確かめてきた。
「分かりました」
ルーエはそれ以上何も言わなかった。
少しだけ名残惜しそうにこちらを見上げていたムムの頭を撫でる。
「明日またな」
「むぅ」
ルーエとムムがソムニウムへ戻ったあと、俺は空き家を取り扱っている商業ギルドへ向かった。
事情を話すと、どうやら短期間なら試しに寝泊まりしても構わないらしく、鍵を借りてから町の少し高い場所にある家へ向かう。
石段をいくつか上り、家々が少なくなり始めた辺りに、その家は建っていた。
中へ入り、まず窓を開ける。
「……おお」
海が見えた。
港の向こうから、そのまま水平線まで。
少し高台にあるおかげで視界を遮るものも少なく、近すぎないから船乗りの声や港の作業音もほとんど届かない。
代わりに聞こえてくるのは、遠くから一定の間隔で寄せては返す波の音だけだった。
「……いいな」
次に確認したのは寝具だった。
ここ最近、町へ泊まるたびに確認するのがすっかり癖になってしまっている。
「柔らかすぎないな……」
ベッドへ腰を下ろし、そのまま身体を倒す。
沈み込みすぎることもなく、腰だけが落ちる感じもない。
枕は少し低めで、毛布も厚すぎず軽かった。
「……当たりだな」
さすがにソムニウムには敵わないが、普通の寝具と比べる方がおかしい。
「……っていうか、そういえばムムの毛を使った寝具って普通に売ってるんだよな」
以前ルーエから、余った毛は寝具に加工して商人へ卸していると聞いた。
王族や貴族にも使われているらしいから、普通に買えばかなり高いのかもしれない。
「最悪、ルーエに頼めば譲ってくれるだろ」
もちろん、ちゃんと金は払うつもりだ。
そう考えると、また一つ、この家を駄目だと思う理由が減った。
夜になる頃には、窓から入り込む海風が昼間の熱をすっかり外へ追い出してくれていた。
木製の雨戸を閉めれば外の灯りもほとんど入らず、部屋の中は静かな暗闇に包まれる。
ベッドへ潜り込むと、遠くから波の音だけが聞こえてきた。
ざあ、と寄せて。
少し間を置いて、また、ざあ、と引いていく。
一定の調子を繰り返すだけで、不意に大きな音が混じることもない。
「……ああ、落ち着くな」
羊の鳴き声もない。
荷車が通る音もなければ、酔っ払いが騒ぐ声も聞こえない。
ただ遠くで繰り返される波の音を聞きながら目を閉じる。
そうしたところまでは覚えていた。
次に目を開けた時には、もう朝だった。
「……え?」
雨戸の隙間から、細い朝の光が差し込んでいる。
身体を起こしてみるが、途中で一度も目を覚ました記憶がない。
頭に重さも残っておらず、むしろ身体の内側まで綺麗に疲れが抜けたような、よく眠れた朝特有の軽さがあった。
「何時間寝た……?」
雨戸を開けて外を見る。
太陽の高さから考えると、少なくとも八時間近くは眠っていたはずだ。
ソムニウム以外で、ここまで気持ちよく朝を迎えられた場所は初めてかもしれない。
窓の向こうには朝日に照らされた海が広がり、昨日と同じ波音が変わらない調子で届いている。
「……ここ、かなりいいな」
昨日までは候補の一つだった町が、その朝から少しだけ違って見え始めた。




