第32話 ただいま
走る。走る。走る。
後ろを振り返ることもなく、俺を知る者のいる場所を目指して、ただひたすら走り続けた。
どれほど先にいるのかは分からない。
ソムニウムは一つの場所に留まる宿ではない。
もう次の町へ着いているかもしれないし、まったく別の街道を進んでいるかもしれない。
それでも、不思議と迷いはなかった。
地面を蹴るたびに、ルーエとムムの顔が浮かぶ。
食卓の向こうで眠たげな目をしていたルーエ。
俺の膝を勝手に寝床にしていたムム。
くだらないことで交わした言葉も、食器の音も、「むぅ」という間の抜けた鳴き声も。
足を止めるたびに浮かぶ顔から逃げるように走っていたあの頃とは違い、今はその顔を見失わないように。
忘れたくない。
もう一度聞きたい。
だから俺は、会いたいという気持ちを確かめるように、もう一度強く地面を蹴った。
とはいえ、ただ走り続ければ見つかるわけではない。
街道は何度も枝分かれし、そのたびに足を止めて地面へ目を凝らした。
荷車の轍、馬の蹄、旅人の靴跡——その中から、見覚えのある痕跡を探していく。
「……あった」
道の端に、普通に見れば何が通ったのか分からないほど大きな蹄の跡が残っていた。
そのすぐ横には、重いものを引いたように深く沈んだ二本の車輪跡が続いている。
間違いない。
ムムとソムニウムだ。
「こっちか」
魔物を追うために覚えた技術を、こんなことに使う日が来るとは思わなかった。
けれど、今はそれでいい。
ただ俺が会いたいから、そのために自分の力を使っている。
轍を追って、再び走り出す。
途中で跡が消えれば街道の人へ巨大な白い獣を見なかったか尋ねる
やがて夜が明け、また日が沈んでも走り続けた。
それでも、地面に残る跡は少しずつ新しくなっている。
近い。
そう思った、その時だった。
「……むぅ?」
聞き間違えるはずのない声が、暗い街道脇の森の奥から聞こえた。
思わず足が止まる。
「……ムム?」
一瞬の静寂。
「むぅぅぅぅ!」
次の瞬間、暗闇の向こうから巨大な白い塊が、木々の間を抜けてものすごい勢いでこちらへ駆けてきた。
「うおっ……!」
両腕を広げると、巨大な毛玉がそのまま胸へ飛び込んできた。
勢いを殺しきれず、両脚を踏ん張って耐えるものの、靴底が地面を削って二本の跡を残しながら後ろへ押されていく。
「むぅ! むぅぅ!」
「分かった、分かったって……!」
俺に顔を擦りつけてくるムムの顎へ手を伸ばし、何度も撫でる。
それでも足りないのか、大きな頭を何度も押しつけられ、顔まで柔らかな毛に埋もれてしまった。
「会いたかったよ、ムム」
「むぅ!」
その一言で、さらに勢いが増した。
「苦しい、苦しいって」
「むぅ……」
ようやく少しだけ力が緩む。
俺は笑いながら、何度もその大きな頭を撫でた。
毛の感触だけなら、家で使っていた寝具と同じはずなのに、全然違う。
温かくて。
動いて。
撫でれば、嬉しそうに鳴いてくれる。
「……やっぱ、ムムじゃないとな」
「むぅ?」
「こっちの話」
そうしていると、ムムが引いていたソムニウムの扉が開いた。
「ムム、急に走っては——」
ソムニウムの暖かな明かりの中から、白銀の髪が姿を見せる。
ムムへ向けられていた眠たげな瞳が、その先に立つ俺を捉えた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
「……リヴェルさん?」
「ああ」
その声を聞いた途端、ずっと走り続けていた身体から、ようやく力を抜いてもいいような気がした。
「どうして、こちらに?」
「……会いに来た」
言葉にすると、それだけだった。
もっと色々考えていたはずなのに、いざ本人を目の前にすると、そうとしか言えなかった。
「私たちに、ですか?」
「ああ」
「何かございましたか? 町で暮らすことが難しくなるようなことが」
「いや、何もない」
俺は首を横に振った。
「町は今でも気に入ってるよ。飯もうまいし、景色もいいし、夜は静かでよく眠れる。俺のことを勇者だって知ってる人もいない」
「では……」
「一人暮らしも悪くなかった。釣りも始めたし、好きな時に起きて、面倒なら飯を食わない日があっても誰にも何も言われないしな」
「……それは、よくありませんよ」
「そこかよ」
「お食事はしっかりとった方が良いです」
「分かったよ」
あまりにもいつも通りの返しに、思わず笑ってしまった。
たったそれだけのやり取りなのに、妙に懐かしく感じる。
「……こういうのだよ」
「こういうの、ですか?」
「ああ」
腕の中では、ムムがまだ離れる気はないらしく、俺の胸元へ額を押しつけていた。
その柔らかな毛を撫でながら、言葉を探す。
「一人でいるのは、本当に楽だった。誰にも気を遣わなくていいし、何をするのも俺が決められる。ずっと欲しかった生活だったよ」
「……はい」
「でも、魚を釣ったら、ルーエならどう料理するかなって考えた」
「……」
「市場で果物を見つけたら、ムムが欲しがりそうだなって思ったし。うまいものを食えば、二人にも食わせたいって思った」
ムムが自分の名前に反応して、小さく「むぅ」と鳴く。
「夜になれば静かだった。すごく静かで、ちゃんと眠れた。なのに、食器の音もしないし、廊下をこいつが歩く音もしない」
そこまで口にして、ようやく自分でも少し笑った。
「俺、一人になりたくてあれだけ遠くまで逃げたのにな」
ルーエは何も言わない。
ただ、続きを待つように俺を見ていた。
「別に、一人じゃ暮らせなかったわけでも、町が嫌になったわけでもない。ただ……一人でいるより、二人といたいって思ったんだ」
口にしてしまえば、それも驚くほど単純だった。
「会いたかった」
「……」
「ルーエとムムに」
眠たげなルーエの瞳が、わずかに揺れた。
「それで、ここまで?」
「ああ」
「町を出て?」
「ああ」
「……私たちに会うためだけに?」
「そうだよ」
今度は迷わず答えられた。
「誰かに頼まれたわけでもないし、何か困ったことがあったわけでもない。俺がそうしたかったから来た」
それだけでよかった。
今なら、それが一番大事なことだと思えた。
「だから——」
一度だけ息を吸う。
「俺は、また二人と一緒に旅がしたい」
ルーエは何も言わない。
「飯を食って、くだらない話をして、ムムに邪魔されて。次の町へ行って、また何かうまいものを探したい」
「……」
「俺は、そうしたい。だから戻ってきた」
ルーエはすぐには答えなかった。
何かを言おうとしたのか、唇がわずかに動く。
けれど、一度は言葉にならなかった。
胸元で指をゆっくりと握り、ルーエは小さく息を吸った。
「……ずっと、言いたかったことがあります」
ルーエは一度、言葉を止めた。
「本当は、あの時……行かないでって言いたかったです」
「……行かないで?」
「はい」
ルーエはほんの少しだけ視線を落とした。
「置いていったのは、私の方なのに。……おかしいですよね」
「……」
「でも、ソムニウムが動き始めて、リヴェルさんが少しずつ遠くなっていくのを見ていたら……そう思いました」
一度、小さく息を吸う。
「行かないで。私たちと一緒に来てほしい。これからも、一緒に旅をしてほしいって」
「……ルーエ」
「でも、言えませんでした」
眠たげな瞳が、僅かに伏せられる。
「あの町は、リヴェルさんがずっと探して、ようやく自分で見つけた場所でしたから。私がそんなことを言えば、困らせてしまうと思いました」
少しだけ、間が空いた。
「一緒にカレーを作った時、楽しかったです」
「……カレー?」
「はい。何度も味を確かめて、違うと言われて、また作って。あんなふうに誰かと一緒に一つのものを作ったことは、ほとんどありませんでしたから」
ルーエの目元が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「果樹園でも、リヴェルさんが何を見つけて、何を食べたがるのかを見て、一緒に味わうのが楽しかったです」
「……あれは酸っぱかったなぁ」
「ふふっ」
小さく笑ってから、ルーエは続けた。
「いつからか、次は何を作ろうかと考える時に、リヴェルさんが何を食べたいかも一緒に考えるようになっていました。宿で香辛料を使えば、隣にリヴェルさんがいるような気がしました。美味しそうな料理を見つければ、リヴェルさんなら『食べたい』とおっしゃるだろうな、と」
その声が、少しだけ小さくなる。
「……離れてから、そう思うことが、予想していたよりずっと多いと気づきました」
胸の前で重ねられた指に、僅かに力が入る。
「あの時、言えなかった気持ちも……思い出すたびに少しずつ大きくなっていきました」
ルーエはゆっくりと顔を上げた。
「それでも、もしまたお会いできても、言わない方がいいと思っていました。こんな我儘を言えば、困らせてしまうだけだって」
「……」
「でも……困るはずだって、また勝手に決めていました。困るかどうかは、リヴェルさんが決めることなのに」
今度は、まっすぐに俺を見る。
「私も、リヴェルさんと一緒にいたいです」
はっきりと。
「これからも、私たちと一緒に旅をしてください」
一つも飲み込まずに、最後まで言った。
「……それが、私の気持ちです」
こんなにたくさんの言葉を重ねるルーエを見るのは、初めてだった。
けれど、返す言葉は一つで足りた。
「……じゃあ、一緒に行こうか」
「はい」
それから、少しだけ間を置いて。
「おかえりなさい、リヴェルさん」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かがすとんと落ちた。
いつからだろう。
ルーエのこの言葉を聞くことが、あまりにも当たり前になっていた。
たぶん俺は、とっくにここを帰る場所だと思っていたんだ。
「ただいま」
「むぅ!」
途端に、隣のムムが大きく鳴いた。
「お前にも言ってるよ」
「むぅ!」
「分かったって」
何度も額を押しつけてくるムムを笑いながら撫でる。
顔を上げると、ルーエと目が合った。
どちらからともなく、ほんの少しだけ笑った。
◆
ソムニウムの暖かな灯りの中から、いつもの声が聞こえる。
「それで、次はどこへ行くんだ?」
「この先にある北の国では、魔物料理がよく食べられているそうです」
「魔物料理か」
フォルネアで食べた竜肉を思い出す。
「はい。魔物のお肉には、普通の獣にはない独特の旨味や香りがあるそうです。それを活かした料理が多いのだとか」
「……それは食ってみたいな」
「むぅ!」
「お前は何を聞いてもそれだろ」
「むぅ!」
自信満々に返されて、思わず笑う。
「じゃあ、そこ行こうか」
「はい」
「あ、その前に一度あの町へ戻らないとな」
「お忘れ物ですか?」
「食材も釣り道具も置きっぱなしだ」
「では、寄っていきましょう」
「ああ。時間はいくらでもあるしな」
やがてソムニウムが、車輪の音を響かせながらゆっくりと動き出した。
窓の外には、まだ見たことのない道がどこまでも続いている。
世界はもう救った。
勇者としてやるべきことも、ひとまず終わった。
だから今度こそ。
食べて。
旅をして。
疲れたら眠る。
そんな毎日を、これからは二人と一匹で続けていく。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
普段は一作目で、少し重めの長編異世界ファンタジーを好き勝手に書いているのですが、今回は「きちんと一つの物語を完結させること」と、「長くなりすぎる描写を抑えること」を自分なりの目標にして書き始めました。
そしてもう一つ、この作品を書こうと思った理由があります。
スローライフものを読んでいると、のんびり暮らすはずだった主人公が、いつの間にか周囲から頼られる立場になっていたり、何かの代表やまとめ役になっていたり、本人にしかできない役割を背負っていたりすることが多いなと思っていました。
もちろん、それも物語としての面白さなのですが、ふと「この人、本当に何もしなくていい一日ってあるのかな」と思うことがありました。
たまには誰にも何も告げず、自分を知る人のいない場所へ行って、何の役割も持たずに過ごしたい。
そんな主人公がいてもいいんじゃないか。
そこから、「世界まで救ってしまった人が、本気で全部の役割から逃げたらどうなるんだろう」と考えて生まれたのがリヴェルでした。
そうして始まったリヴェルとルーエ、ムムの旅を、最後まで見届けていただけたことをとても嬉しく思います。
世界を救ったその後から始まった二人と一匹の旅は、ここでひとまず一区切りとなります。
とはいえ、彼らの旅そのものが終わったわけではありません。
この後も食べたり、眠ったり、町を巡ったり、前世の料理を再現したり――たまには魔物を食べたりしながら、きっと旅を続けていきます。
少しでもこの物語を楽しんでいただけましたら、評価やブックマーク、感想などを残していただけると、今後の執筆の励みになります。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




