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第26話 嫌だということ

 結局、その夜はあまり眠れなかった。

 目を閉じても、ニナの言葉や王都を出る直前のことが何度も浮かぶ。

 眠りかけては目を覚ますうち、窓の向こうが薄明るくなっていた。


「リヴェル、朝よ。起きて!」

「……ん……」

 聞き慣れた声と一緒に、布団越しに身体を揺すられる。

「ほら、起きて。今日は町を回る約束したでしょう?」

「……あと五時間……」

「長いわよ」

「じゃあ三時間……」

「ほとんど変わってないじゃない」

 布団をさらに深く被ろうとすると、その向こうから妙な声が聞こえてきた。

「むぅ、むぅ!」

「ん?」

 薄く目を開けて布団から顔を出す。

 そこにはベッド脇に立つニナと、その服の裾を小さな口で咥えて後ろへ引っ張っているムムがいた。

「むぅぅ……!」

「何やってるんだ、ムム……」

「さっきからずっとこうなの。私と遊びたいのかな?」

「むぅ!」

 どう見ても違う。

 ムムはニナを俺から引き離そうとしているらしく、短い脚を踏ん張って一生懸命後ろへ下がっていた。

 たぶん昨夜あまり眠れなかったことに気づいているのだろう。

「ムム、もしかして起こすなって言ってるんじゃないか?」

「え?」

「むぅ!」

 肯定するように鳴く。

「ムムは人の疲れとか、眠りにはかなり敏感だからな」

「そうなんだ。賢いのね」

「むぅ」

 褒められたことだけは分かったらしく、ムムが少し得意げに声を鳴らす。

 

 だが、ニナはすぐに俺へ向き直った。

「でも、昨日約束したでしょう? それに明日はもう収果祭なんだから、今日のうちから町を見て回らないともったいないわよ」

「……今日のうちから?」

「前日がいいのよ。準備してる屋台も試しに開いてて、始まる直前のわくわくした感じがあるでしょう?」

 昔からニナは、祭りそのものだけでなく、その前の時間まで楽しむ子だったような気がする。

「ほら。早く着替えて」

「……分かったよ」

「むぅ……」

 ムムだけが納得いかなそうに俺を見上げている。

「大丈夫。昼寝くらいするから」

「むぅ」

 本当か、と言いたげな顔だった。

 俺は苦笑しながら身体を起こした。

 昔も、似たようなことがあった気がする。

 俺が寝ているところへニナがやってきて、遊びに行こうと無理やり起こされる。

 俺も文句を言いながら、結局は着替えてついていく。

 その頃は、それが嫌だなんて思ったことはなかった。


 ◆


 町へ出ると、昨日よりも明らかに人が増えていた。

 通りには果実を模した色鮮やかな飾りが吊るされ、湖へ続く大通りでは、明日の収果祭に向けて屋台の組み立てが進んでいる。

 まだ正式な営業前のはずなのだが、漂ってくる香ばしい匂いにつられて足を止める人も多く、店主たちも味見と称して少量の商品を売り始めていた。

「ほら。やっぱり今日来て正解だったでしょう?」

「まあな」

 ニナが得意げに笑う。

「昨日は果物ばっかり食べたんじゃないの? 今日はちゃんと料理から食べた方がいいわよ」

「朝は軽いものでいいんだけど……」

「寝不足なんでしょ? だったら、ちゃんと食べないと!」

 

 そう言いながら歩いていると、肉の焼ける香ばしい匂いが鼻に届いた。

 大きな鉄板では薄切りの肉が音を立てて焼かれ、その横では赤い果実を煮詰めたソースが、ぐつぐつと泡を立てている。

「……あれ、食べようかな」

「ほら。結局リヴェルが一番乗り気じゃない」

「美味しそうなものが目についたんだから仕方ないだろ」

「はいはい」

 二人分を買うと、ニナは俺が何か言うより先に、ソースがたっぷりとかかった方を差し出してきた。

「リヴェルはこっちね」

「ああ、ありがとな」

「昔から濃い味の方が好きよね。甘党で、魚よりお肉が大好き」

「……よく覚えてるな」

「当たり前でしょ?」

 ニナは何でもないことのようにそう言って、自分の分を一口食べた。

 俺も肉へ齧りつく。

 脂の強い肉に、煮詰めた果実の甘酸っぱさがよく合っていて、寝不足でも食欲が戻った。

「うまい」

「美味しいね」


 そこからも、まだ準備の途中にある町を二人で歩き、菓子や果実を分け合った。

 どちらが多く食べただの、昔も同じことをしていただのとくだらないことで言い合い、最後には顔を見合わせて笑った。

 こんなふうに過ごしていると、昨日まで胸に引っかかっていたものが嘘のように薄れていく。

 ニナといること自体が嫌なわけではない。

 長く一緒にいた分、何も考えず話せるし、懐かしくて心地いい。

 だからこそ——俺の本音を話すことが、余計に難しかった。


 ◆


 日が沈む頃には、町の飾りつけもほとんど終わっていた。

 湖沿いには明日の祭りで使われる灯りがずらりと並び、試験も兼ねて一斉に火が入れられている。

 橙や黄色の光が湖面へ映り込み、少し離れた広場からは楽器の音合わせも聞こえてくる。

 

 俺とニナは湖畔の柵にもたれ、しばらく黙ってその光景を眺めていた。

「昔も、ここで見たの覚えてる?」

「……なんとなく」

「お互いのお父さんとお母さんは先に宿へ戻って、私たちだけもう少し見ていくって残ったの」

「そうだったか」

「その時もリヴェル、『明日は絶対、全部の屋台を回る』って言ってたわよ」

「……それは今でも少し思ってるな」

「でしょう?」

 ニナが小さく笑う。

 湖面に揺れる灯りを眺めながら交わす会話は、昔と今の境目が曖昧になるくらい自然だった。

 

 けれど、しばらくしてその笑みが消えた。

「ねえ、リヴェル」

「ん?」

「明日のお祭りが終わったら……どうするの? まだ王都には帰りたくはない?」

「次の町へ行くと思う。それで、そのうち俺のことを知ってる人がいない場所を見つけて、そこで暮らすつもりだ」

「ルーエさんたちと?」

「いや。ルーエたちとは、町を巡るのにいろいろ助かるから、今は客として一緒にいるだけだ」

「……そっか」

 ニナはそう呟いて、再び湖へ視線を戻した。


「私ね……リヴェルが残した手紙の意味、ちゃんと考えてなかったのかもしれない」

「……」

「だって、私たち長いこと離れ離れだったでしょう? リヴェルが勇者として旅をしてる間に、何があって、どれだけ大変だったのかも、私は全部知ってるわけじゃない」

 湖から吹いてきた風に、ニナの髪が小さく揺れる。

「勇者を続けるのが嫌なら、もう続けなくていいのよ。魔王は倒したんだもの。これ以上、リヴェルが全部背負わなくてもいい」

 そこでニナは俺へ顔を向け、少しだけ俺の表情を窺うように見上げた。

「王都に戻ったって、もう旅に出たり、戦ったりしなくていいように私からもみんなに言う。結婚したら家のことだって全部私に任せてくれていいわ。そのために私もずっと頑張ってきたんだし、それ以上にすごいことをリヴェルは成し遂げたんだから」

「ニナ……」

「王都が嫌なら、別に王都じゃなくてもいい。どこか静かな場所を探して、二人で暮らすのでもいいわ」

 ニナはほんの少し不安そうに笑った。

「それじゃあ……ダメなの?」

 

 俺は身体ごとニナへ向き直った。

 以前の俺は、何を言っても別の意味へ変えられることに疲れ、説明すること自体を諦めた。

 でも今は、もう一度ちゃんと言わなければならない。

「俺は、ニナと結婚するつもりはない」

 ニナの瞳が揺れた。

「……今は?」

「違う」

「でも、昔から私たちはずっと一緒で——」

「違うんだ」

 今度は、少し強く言った。

 ニナが口を閉ざす。

 俺は柵に置いていた手を、無意識に強く握っていた。

「俺は、ニナと婚約した覚えもない」

「……でも、昔からみんなそう言ってたじゃない。私たちもずっと一緒だったし、リヴェルだって否定しなかったでしょう?」

「そうだな」

 そこは否定できなかった。

 俺にも責任がある。

 周囲から「将来は二人で一緒になるんだろう」と言われても、子供の頃は深く考えずに笑っていた。

 勇者になってからも、ニナが俺の帰りを待っていると聞いて、それをわざわざ否定することもしなかった。

 何も言わなかった俺を見て、ニナがそう信じたとしても無理はなかった。


「俺も、そう思わせるようなことをしてたと思う。ニナが悪いって言いたいわけじゃない」

「じゃあ——」

「でも」

 言葉を重ねようとしたニナを遮る。

「魔王を倒して帰ってきた時、俺は嫌だって言っただろ」

「……」

「ニナに結婚の話をされて、俺はちゃんと『嫌だ』って言った」

「それは……疲れてたんだと思ってたから」

 昔から何度も聞いてきた言葉だった。


 疲れているから。

 照れているから。

 本当はやりたいはずだから。

 断っても別の理由をつけられ、しばらくすればまた同じ話が始まる。

 

「……なあ、ニナ」

「なに?」

「俺が『嫌だ』って言った時くらい、その言葉をそのまま受け取ってほしい」

「……え?」

 ニナの表情が固まった。

「頼まれ事だってそうだった。嫌だとか、疲れたとか言っても、少し休めば大丈夫だって言われて、みんな困ってるからって言われて、俺ならできるからって言われて……結局、俺も引き受けた」

「だってリヴェルは、昔から人を助けるのが好きだったでしょう?」

「ああ。好きだったよ」

 そこまで否定するつもりはなかった。

「誰かを助けて、ありがとうって言われるのは嬉しかった。俺にしかできないことがあるっていうのも、最初はすごく嬉しかった」

 勇者になったばかりの頃は、それを誇らしく思っていた。

「だから頼まれれば引き受けたし、無理もした。俺がそうしてきたから、みんなが『リヴェルならやってくれる』って思うようになったのも分かってる」

「だったら——」

「だからって、今の俺の答えまで、昔の俺に決めさせないでくれ」

 ニナが息を呑んだ。

「今日、町の魔物を倒したのだって、人助けがしたかったからじゃない」

「……でも、町を救ったじゃない」

「結果としてはそうなった。でも、俺が動いた理由は祭りがなくなるのが嫌だったからだ」

「それって……何が違うの?」

「俺が祭りを楽しみたかったんだ。ルーエも楽しみにしてたし、ムムにもいろいろ食わせてやりたかった。だから、その邪魔になる魔物を片づけた。それだけだ」

 言葉にしてみれば、ずいぶん自分勝手な理由だ。

 でも、それでよかった。

「困ってる人を助けるのが嫌になったわけじゃない。たぶんこれからも助けることはあるし、見過ごせないと思うことだってあると思う」

「じゃあ——」

「でも、それを俺が決めたいんだ」

 湖を渡ってきた風が、少しだけ冷たく頬を撫でた。

「助けたい時は助ける。嫌な時は断る。疲れたら寝る。食べたいものがあったら、そっちを優先する」

 一つずつ、自分に言い聞かせるように口にする。

「そういうことくらい、自分で決めて生きたいんだ」

 

 ニナは何も言わなかった。

 俺も、すぐには続けられなかった。

 こんなことを口にするだけで、喉の奥が妙に乾いていた。

「王都から逃げたのも……本当は、ちゃんと言えばよかった」

「……うん」

「でも、また説得される気がしてた。本気で嫌だと言えば、みんなを傷つけるのも分かってた」

 だから、最低限の手紙だけ残して逃げた。

「……ごめん。心配させたことは、本当に悪かったと思ってる」

「……じゃあ、帰ってきてよ」

 ニナの声は小さかった。

「勇者じゃなくてもいい。何もしなくてもいいの。私は……リヴェルが傍にいてくれれば、それだけでいいから」

 その言葉が嘘ではないことくらい、俺には分かっていた。

 ニナはきっと、本当に俺のためを思って言ってくれている。

 それでも——。

「……それでも、帰りたくない」

「……どうして?」

 ニナの声が僅かに震える。

 俺はすぐには答えられなかった。

 今日一日、昔みたいに笑えた。

 大切な幼馴染だからこそ言いたくなかった。

 それでも、ここでまた曖昧にしてしまえば、きっと何も変わらない。

「今の俺にとっては、たぶん……それが息苦しい」

「……っ」

 ニナの瞳が大きく揺れた。

 やがて堪える間もなく、一粒の涙が頬を伝った。


「……私といるのが?」

「……」

 反射的に否定しかけて、やめた。

 安心させるために誤魔化したら、また同じことになる。

「ニナが嫌いなわけじゃない。今日だって楽しかったし、大切な幼馴染だと思ってる」

「じゃあ、どうして……」

「ニナと一緒にいると、昔の俺に戻らなきゃいけないような気がするんだ」

「昔の……?」

「ニナは、俺が何を好きで、どんな奴だったか、たぶん俺より覚えてることもあるだろ」

 忘れていた自分を思い出せるのは、嬉しかった。

「でも、その昔の俺で、今の俺まで決めないでほしい」

「……」

「俺が何を言っても、その言葉より『本当の俺はこう思ってる』っていう答えの方を信じられるのが……ずっと苦しかった」

 ニナの唇が僅かに震えた。

「私……そんなつもりじゃ……」

「ああ。分かってる……分かってるよ」

「……」

「だから余計に言えなかった。ニナが俺のためにしてきたことまで、全部いらないって言うみたいで」

 また一粒、ニナの頬を涙が伝った。

「……私、ずっと待ってたのよ」

「ああ」

「帰ってきたら何を作ろう、どんな家に住もうって……ずっと考えてた」

「うん」

「魔王を倒したって聞いた時……やっと帰ってくるって、本当に嬉しかった」

 震える声を聞きながら、俺は黙って頷いた。

「なのに帰ってきたリヴェルは疲れた顔してて……だから、私が休ませてあげなきゃって思ったの。結婚したら、もう危ないところに行かなくていいし、私が全部してあげればいいって」

 ニナが手の甲で目元を拭う。

「それが、リヴェルのためだと思ってた」

「……ありがとう」

「ありがとうなんて言わないでよ……」

 掠れた声だった。

「そんなふうに言われたら、怒れないじゃない」

「ごめん」

「それも言わないで」

「……難しいな」

 ニナが泣きながら、ほんの少しだけ笑った。

 

 それからしばらく、二人とも何も言わなかった。

 湖の向こうでは祭りの灯りが変わらず揺れていて、さっきまで綺麗だと思っていた光が滲んで見える。

 やがてニナは大きく息を吸うと、両手で自分の頬を軽く叩いて、俺の方を向いた。

「ねえ、リヴェル」

「ん……?」

「私、もうリヴェルに自分の気持ちを押しつけるのはやめる。リヴェルは本当はこう思ってるはずだって、勝手に決めるのもやめる」

「……ああ」

「だから……ね」

 まだ赤い目のまま、ニナは少しだけ笑った。

「もしリヴェルがこのまま旅を続けて、いつか王都に帰ってもいいかなって思った時に、ちゃんと帰ってこられるように……私が勝手に待ってるくらいなら、いいでしょ?」

「ああ……俺も勝手に旅してるんだ。ニナも、ニナの好きにすればいいと思う」

「うん……」

 ニナは小さく頷き、少しだけ、いつものニナらしい笑顔が戻る。

「でも、たまにはお父さんとお母さんには、そのうち顔を見せてあげて。二人とも、本当に心配してるから」

「……それは、そうだな」

 王都には帰りたくない。

 けれど、それと両親に二度と会わないことは、たしかに別の話だった。


 ニナはそれ以上、帰ってきてとは言わなかった。

 俺も、いつ帰るとも約束しなかった。

 ただ、それでよかったのだと思う。

 昔と同じ場所で、昔と同じ相手と並んでいる。

 それでも、俺たちはもう昔のままではない。

 変わったことを否定せず、今の言葉を今のまま受け取ってもらえたことが、少しだけ嬉しかった。

「じゃあ、明日は祭りだな」

「うん。今度こそ全部の屋台を回るんでしょう?」

「できる限りはな」

「ふふっ。でもやっぱりそこは変わってないね」

 今度は、その言葉を素直に笑って聞くことができた。

 

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