第22話 子供の頃の記憶
果樹園の入口で事情を話すと、祭り前ではあったものの、収穫体験くらいなら構わないと快く中へ通してもらえた。
「好きな実を選んでいいよ。赤く色づいて、少しだけ下へ垂れているのが食べ頃だからね」
案内してくれた女性が、枝に実った果物を一つ指差す。
「引っ張るんじゃなくて、こうやって少し持ち上げて捻るんだ」
言われた通りにやってみると、ほとんど力を入れていないのに、実が枝からぽろりと外れた。
「おお」
採れた湖蜜果を軽く拭いてからそのまま齧ると、しゃくっと気持ちのいい音がした。
「……うまっ!」
店で食べたもの以上に瑞々しく、果汁と強い甘さのあとから爽やかな酸味が追いかけてくる。
「採れたてだからかな。加工したものも美味しいけど、これはこれで格別だな」
「そんなに違いますか?」
「食べてみれば分かるよ」
ルーエも俺が指した実を慎重にもぎ取る。
両手で持って小さく齧ると、眠たげな瞳が僅かに開いた。
「……確かに、違いますね」
「だろ?」
「香りが強いです。噛んだ時の歯触りも、とても心地よいですね」
「むぅ!」
足元から催促が飛んでくる。
「お前も欲しいのか?」
「むぅ!」
「勝手に取るなよ。今、もらっていいか聞くから」
「その子にも分けてあげて大丈夫だよ」
案内役の女性が笑いながら、小さめの実を一つムムへ差し出してくれた。
「むぅ!」
ムムは嬉しそうに咥えると、その場へちょこんと座り込み、今度は珍しくちゃんと噛みながら食べ始める。
「おとなしくて可愛い子だねぇ」
「おとなしいかは、ちょっと分からないけどな」
「ですが、可愛いことには同意です」
「むぅ!」
褒められたのが分かったのか、果汁で口元を濡らしたまま嬉しそうに鳴く。
そんなムムを眺めながら、俺たちは斜面を少しずつ登り、何種類かの果物を収穫させてもらうことにした。
黄色い皮をした甘みの強いもの。
紫色で、噛むと酸味のあとに濃い甘さが残る小さな実。
掌ほどの大きさがあるのに、中身のほとんどが果汁という不思議なものまであった。
「こっちはどうだ?」
「酸っぱいですよ、リヴェルさんも良ければどうぞ」
そう言いながら差し出してきたルーエの顔は、いつもの表情とは違い、酸っぱさに耐えるように僅かにくしゃっと歪んでいた。
「……絶対酸っぱいじゃん」
警戒しながら齧る。
「っ……酸っぱ!」
舌の奥まできゅっと縮むような酸味に、顔の全部が真ん中へ集まったような表情になる。
「共有した方がよいかと思いまして」
「何をだよ」
「酸っぱさをです」
「それは共有しなくていいんだよ」
珍しく少しだけ悪戯っぽいルーエに笑いながら、口直しに甘い実をもう一つもぎ取った。
隣で同じ果実を食べるルーエと「美味しいな」と言葉を交わしながら、次の実へ手を伸ばした、その時だった。
目の前の景色が、ふと遠い昔の記憶と重なった。
「……あれ?」
「どうされました?」
目の前に広がる色とりどりの果実と、その向こうで陽の光を反射している大きな湖。
初めて見るはずの景色なのに、町へ入った時から感じていた妙な懐かしさが、今になって少しずつ形を持ち始めていた。
「俺……昔、ここに来たことあるかもしれない」
「勇者だった頃ですか?」
「いや。もっと前だ」
まだ剣すら握っていなかった頃。
この世界で普通の子供として暮らしていた時の記憶だ。
小さかった俺が、今と同じように果樹園の中で枝へ手を伸ばしている。
背が届かず、誰かに手伝ってもらいながら採ったばかりの果実へ齧りつき、滴る果汁で手をべたべたにしながら笑っていた。
その向こうには、今と変わらない大きな湖があった。
「……そうだ。家族で旅行に来たんだ。たぶん、今と同じように収果祭の時期だったと思う」
「以前にも、お祭りへ来られていたのですか?」
「ああ。かなり小さかったから、ほとんど忘れてたけどな」
思い出してみれば、祭りの明かりが湖に映っていた景色や、甘い果実を食べながら町を歩いた記憶も、ぼんやりとではあるが残っていた。
「家族と……あと——」
そこまで口にして、記憶の中にいた人たちの顔を思い出そうとする。
けれど、ふと隣にいるルーエへ目を向けたところで、それ以上深く考えるのをやめた。
昔ここで誰と、どんなふうに過ごしていたとしても、今はルーエとムムと一緒にいるのだから、この時間を楽しめばいい。
「……まあ、いっか」
「そうですか」
ルーエはそれ以上聞かず、手にしていた果実へもう一口齧りついた。
俺も、次の果実へ手を伸ばそうとした、その時だった。
「……またか?」
少し離れた場所から、低い声が聞こえてきた。
「昨日はこっちじゃなかっただろ」
「いや、今朝見た時は大丈夫だったんだよ。さっき急に葉が落ち始めて……」
果樹園の作業員らしい男たちが、一本の木を囲んで話している。
最初は祭り前の忙しい時期だから何か作業上の問題でも起きたのかと思った。
けれど、声には妙な緊張が混じっていた。
「どうしたんだろうな」
「見に行きますか?」
「ああ。邪魔にならない程度にな」
近づいてみると、周囲の木々との違いはすぐに分かった。
その木だけ、葉が明らかに萎れていた。
青々としている周囲とは対照的に、枝先の葉は力なく垂れ、一部はすでに黄色く変色して地面へ落ちている。
実もいくつか残っていたが、まだ収穫には早そうなのに表面へ皺が寄っていた。
「病気ですか?」
ルーエが尋ねる。
作業員の一人がこちらへ振り向いた。
「それが分からないんだ。病気ならまだましなんだが……」
「まだまし?」
「ああ。こんな木が、この数日で何本も出てるんだよ。どれも前触れがなくて、場所も木の種類もばらばらでな……」
男が指差した斜面の向こうにも、周囲より葉の色が悪い木が一本混じっていた。
俺は目の前の木へ視線を戻す。
虫食いも腐食もない。
それなのに、根元から中身だけを吸われたように木全体から力が抜けていた。
「……いつから?」
「最初に見つけたのが三日前だ。その木はもう完全に駄目になった。こいつは今朝まではまだ普通だったんだが、昼頃にはこの有様さ」
三日前から始まって、今も増えている。
作業員は枯れかけた木を見上げ、深く息を吐いた。
「せっかく祭りを楽しみに来てくれた客の前で言うことじゃないんだろうけどな……。正直、俺たちもどうしたらいいのか分からなくて」
その顔には、祭り前の忙しさとは違う焦りが浮かんでいた。
「少し調べさせてもらってもいいか?」
「ああ。少しでも原因が分かるならありがたいけど……何か心当たりがあるのかい?」
「いや。まだ分からない。ただ、上に異常がないなら下を見た方がよさそうだ」
木の根元へしゃがみ込み、土を掘り返していく。
表面近くの根は一見普通だった。
だが、さらに深く土を退けていくにつれ、露出した根の色が少しずつ変わっていく。
「……これ」
地中深くへ伸びた根は、本来の茶色を失い、ところどころ不自然なほど白く変色していた。
水気もなく、指で押せば中身が抜けたように脆く潰れる。
「こんなに白く……!」
穴を覗き込んだ作業員が息を呑む。
「やっぱり、根の方か……」
「やっぱりって、どういう——」
男が問い返そうとした、その時だった。
ぼこっ、と背後の土が盛り上がった。
「——っ!」
振り返るより早く、白くぶよぶよとした何かが地面を突き破り、作業員の顔へ向かって飛びかかる。
「うわっ……!」
「むぅ!」
白い影が横から弾けた。
ムムの丸い身体が凄まじい勢いでぶつかり、飛び出してきたものを空中で叩き飛ばす。
湿った肉が潰れるような音が響いた。
白い生き物は木へ叩きつけられ、柔らかな胴体を裂いて白濁した体液を撒き散らした。
幹を汚しながら地面へ落ちた時には、もう動いていなかった。
「……た、助かった」
尻餅をついた作業員が、青ざめた顔でムムを見る。
「ムム、偉いですね」
「むぅ!」
俺は細切れになった白い生き物へ視線を落とす。
太い幼虫のような胴体。
短く硬い脚と、根へ食らいつくための細かな牙が何重にも並んでいた。
「……こいつか」
枯れた木と、白くなった根。
そして地中から飛び出してきた魔物。
少なくとも、この果樹園で起きている異変がただの病気ではないことだけは、これではっきりした。




