第21話 湖果の町アリエル
ベルネを出てから、ソムニウムはさらに南西へ進んだ。
チーズを乗せたカレーを食べ、ムムの毛を使った寝具に包まれて眠り、途中で何度か客を泊めながら旅を続けること数日。
窓の外に広がっていた牧草地は少しずつ姿を消し、代わりに緩やかな斜面へ規則正しく木々が並ぶようになっていた。
「……あれ、全部果樹園か?」
「そうみたいですね」
枝には赤や黄色の実がいくつもぶら下がり、場所によっては遠目からでも分かるほどたわわに実っている。
道沿いを進む荷車にも木箱いっぱいの果物が積まれており、すれ違うたびに甘酸っぱい香りが開いた窓から流れ込んできた。
「先日お泊まりになったお客様のお話ですと、この先の町でお祭りが開かれるそうですが」
「収果祭だったっけ。これだけ果樹園が広がってるなら、祭りの規模もそれなりに大きそうだよな」
「はい。ちょうどよい時期に来られましたね」
そんな話をしているうちに、森の切れ間から青い光が見えた。
最初は空が低いところまで続いているのかと思ったが、道が丘を越えた瞬間、その正体が一気に視界へ広がる。
「おお……」
大きな湖だった。
向こう岸が霞んで見えるほど広く、陽の光を受けた水面が、細かな銀色の鱗を散らしたようにきらめいている。
湖岸に沿って赤い屋根の家々が並び、その背後の丘には果樹園が幾重にも広がっていた。
どうやら、湖と果樹園の間を縫うように町が作られているらしい。
「綺麗ですね」
「ああ。今までの町とはまた全然違うな」
湖へ近づくにつれて空気も変わり、果実の甘い香りに、水辺特有の湿り気を含んだ涼しい風が混じって頬を撫でていく。
陽射しはそれなりに強いのに暑苦しさはなく、窓を開けているだけでも気持ちよかった。
やがてソムニウムは町へ直接入らず、いつものように湖から少し離れた林の中で止まる。
「着きましたね」
「ああ。祭りが始まるまで、数日はここに泊まるのか?」
「そうですね。せっかくですので、お祭りを楽しんでから次へ向かおうかと思います」
「果実を使った料理も多そうだよな」
「はい。とても楽しみです」
「むぅ!」
ムムも待ちきれないと言わんばかりに元気よく鳴いた。
三人で町へ向かう。
入口には木製の大きな看板が立っていた。
《湖果の町アリエル》
その下には、この町で採れるらしい何種類もの果物が色鮮やかに描かれていた。
大通りの両側には果物屋や菓子店が並び、木箱の中には赤、黄、紫、橙と色とりどりの実が山のように積まれている。
その場で搾った果汁を売る店もあれば、果物を薄く切って焼き菓子へ乗せたものや、瓶いっぱいのジャムを並べた店まであった。
「アリエルか……」
勇者だった頃にこの町を訪れた記憶はない。
それなのに、町の名前を口にすると、なぜか胸の奥に小さく引っかかるものがあった。
どこかで聞いたことがあっただろうか。
考えてもすぐには思い出せずにいると、ルーエがそんな俺を一瞥してから町の中へ視線を向けた。
「まだ、お祭りの準備中なのでしょうか。お忙しそうにしている方も大勢いらっしゃいますね」
「ああ。あちこち飾りつけしてるな」
通りの頭上には果実を模した色鮮やかな飾りが吊るされ、店先では大きな籠へ果物を詰めたり、木製の屋台を組み立てたりしている人たちの姿があった。
祭り本番はまだ先らしいが、町全体にはすでにどこか浮き足立った空気が流れている。
「とりあえず、祭りのことを聞く前に何か食べないか?」
「ですね」
「むぅ」
しばらく歩いて目に留まったのは、湖に面した小さな店だった。
店先には赤い果実が山のように積まれ、その隣では丸い焼き菓子が次々と窯から取り出されている。
「《湖蜜果の焼きタルト》……?」
「この辺りの名物みたいですね」
薄く焼かれた生地の上には、扇状に切られた赤い果実が隙間なく並び、その表面には透明な蜜が薄く塗られていた。
焼き上がったばかりなのか、果物の甘酸っぱい香りとバターの匂いが混ざり合って漂ってくる。
「これにしよう」
「はい」
「むぅ!」
三人分を買い、近くにあった湖沿いのベンチへ腰掛ける。
まだ温かいタルトへ齧りつくと、さくりとした生地のあとから柔らかくなった果肉が潰れ、たっぷりの果汁が口の中へ広がった。
蜜の甘さは強いのに、果実そのものにしっかり酸味があるおかげか重たさはなく、最後にはバターの香ばしさだけがふわりと残る。
「……うまいな、これ」
「はい。果物がとても甘いのに、さっぱりしていますね」
「むぅ!」
ムムも気に入ったらしく、前足で押さえながら夢中で食べている。
「また鼻に蜜ついてるぞ」
「むぅ?」
指で拭ってやると、そのまま俺の指まで舐めようとしてきた。
「俺まで食うなよ」
「むぅ……」
隣ではルーエが小さく笑っている。
タルトを食べ終えたあとには、すぐ近くの店で搾りたての果汁も買った。
何種類かの果物を混ぜているらしく、最初に強い甘さが来たあと、柑橘に似た酸味が舌を引き締めてくれる。
「これもいいな。暑い日に飲んだらいくらでも飲めそうだ」
「祭りの日には、もっといろんな店が出るぜ」
俺の呟きに、果汁を売っていた年配の男が笑いながら返してきた。
「お祭りでは、具体的にどのようなことをするのでしょうか?」
「そりゃ一番は収穫祝いだな。祭りの初日に各果樹園からその年に採れた実を神殿へ納めて、それが終わったら町中で宴会さ」
「へえ。意外とちゃんとした儀式から始まるんだな」
「まあな。でも、祭りらしい催しもたくさんあるぞ。中でも一番盛り上がるのが、果樹園ごとに出す屋台だ」
「屋台?」
「ああ。それぞれ自分たちの果物を使って一品料理を出すんだ。菓子でも料理でも酒でも構わない。客が気に入った店へ票を入れて、一番人気を集めた果樹園がその年の勝者ってわけさ」
「果樹園同士の料理勝負みたいなものか」
「そういうことだ。しかも一位になれば、その年の王家への献上品を任せてもらえる。王都でも《今年のアリエルの果実》として名前が広まるから、その一年の商売にもかなり響くんだよ」
「それなら本気にもなるな」
そう言われて周囲を見れば、確かに祭りの準備をしている人たちの表情には、楽しげな空気の中にもどこか真剣さが混じっていた。
「もちろん、そんな勝負ばかりじゃないぞ。果樹園ごとの果物を食べ比べたり、実際に果実を採れる収穫体験をやったり、子供向けには果実運びの競争なんかもある。夜になれば湖の広場で音楽と踊りが始まって、最後はみんなで果実酒を開けるんだ」
「結構いろいろやるんだな」
「この辺りじゃ一年で一番大きい祭りだからな。湖の向こうの村からも人が来るぜ」
「果実酒……」
隣でルーエが小さく呟いた。
「気になる?」
「少しだけ」
「ははっ。嬢ちゃんには、まだ少し早いんじゃねぇかな」
その言葉を聞いた瞬間、ルーエの表情がぴたりと止まった。
眠たげだった瞳が、ほんの僅かに細くなる。
「……私は成人しています」
「え?」
「二十歳も、とうに過ぎています」
「あ、ああ……そいつは悪かった」
男が慌てて頭を下げる。
俺はその横で、そっと視線を逸らした。
初めて会った時、まったく同じように少女だと思った自分を思い出したからだ。
「……リヴェルさん」
「ごめんなさい」
「まだ、何も言っていません」
「いや、その目が……」
「私の目が、なんでしょうか?」
「なんでもありません」
じとっとした視線がしばらくこちらへ向けられる。
やがてルーエは何事もなかったように前へ向き直ると、残っていた果汁へ静かに口をつけた。
その後、店主から先ほどのお詫びも兼ねて、おすすめの果樹園を一つ紹介してもらった。
祭りが始まれば観光客で混み合うため、ゆっくり見て回りたいなら今のうちに行っておいた方がいいらしい。
せっかくなので、その助言に従って向かってみることにした。
町を離れるにつれ、人通りは減り、道の両側を果樹園が囲み始めた。
斜面には見たことのない実をつけた木々が何列も続き、熟した甘い香りが漂っている。
「すごいな……これだけあると、どれが何なのか全然分からないな」
「私も、知らないものが多いです」
「ムム、勝手に食うなよ」
「むぅ」
返事をした直後、ムムの顔が柵の隙間へすっと入り込んだ。
「言ったそばから!」
「むぅ!」
慌てて後ろから身体を引っ張り出したものの、口元を確認しても何かを食べた様子はない。
「……見てただけか」
「むぅ」
「疑って悪かったよ」
頭を撫でてやると、ムムは気にしていないと言わんばかりに身体を擦りつけてきた。
そんなやり取りをしながらさらに坂を登っていくと、やがて大きな木製の看板を掲げた果樹園が見えてくる。
入口の奥では何人もの人が籠を抱えて収穫作業をしており、そのさらに向こうには、湖を見下ろす斜面いっぱいに果樹の列がどこまでも続いていた。




