第20話 パンケーキ
「めぇぇぇぇ……!」
「……ん」
遠くから聞こえてきた鳴き声に、意識がゆっくりと浮かび上がった。
「めぇぇ!」
「…………」
今度は近い。
目を閉じたまま布団へ潜り直そうとすると、その直後にも窓の向こうから何頭分もの鳴き声が重なって聞こえてきた。
「めぇー」
「めぇぇ!」
「……朝か」
諦めて目を開ける。
窓から差し込む光はまだ柔らかく、時間としてはそれほど遅くないらしい。
この宿の裏手にも牧場があるのか、羊たちは朝から随分元気だった。
「ちょっと、うるさいな……」
嫌になるほどではない。
鐘や怒鳴り声で叩き起こされるよりはずっといいし、この町らしいと言えばこの町らしい。
ただ、毎朝これで起きるとなると少し考える。
そんなことを思いながら身体を起こし、首を左右へ倒した。
「……ん?」
寝具は上等で、夜中に目を覚ました記憶もない。
ちゃんと眠れたはずなのに、ソムニウムで起きた朝ほど身体が軽くなかった。
「寝具の違いか?」
昨夜は十分いい布団だと思ったが、比べる相手がソムニウムの寝具では分が悪い。
それにルーエが整えてくれる室温や明かりに、ムムが悪夢まで食べてもらえる。
「……そりゃ、普通の宿と比べる方がおかしいか」
自分で納得しながらベッドを降りる。
ただ、昨夜眠りにつく前に感じていたほど、この宿が完璧だとは思わなくなっていた。
顔を洗って一階へ降りると、朝食には焼き立てのパンと卵、それに温めたミルクが出された。
ミルクは昨夜飲んだものより甘味が強く、表面には薄い膜が張るほど濃い。
「朝からこれはいいな」
パンを千切って口へ運び、温かいミルクを飲む。
外からは相変わらず羊の鳴き声が聞こえていたが、食事をしているうちに少し慣れてきた。
朝食後は、定住先を見るため町の外れへ向かった。
中心から離れるにつれて店が減り、牧場と住居が増えていく。
石造りの家々の間には小さな水路が流れ、庭先では洗った毛を乾かしている家もあった。
「暮らすなら、こっちの方がいいかもな」
中心部ほど羊の鳴き声も密集していない。
食べ物を買うにも、それほど遠くはなさそうだった。
そんなことを考えながら歩いていると、通りの向こうに見覚えのある白銀の髪が見えた。
「あ」
ルーエだった。
片腕には細長い包みを抱えていて、その足元ではムムがいつものようにちょこちょこと歩いている。
「むぅ!」
俺に気づいたムムが真っ先に走ってきた。
「おはよう、ムム」
「むぅ!」
頭を撫でると、身体ごと手へ押しつけてくる。
「リヴェルさん。おはようございます」
「ああ、おはよう。寝具の方は終わったのか?」
「はい。お願いしていた分を受け取ってきました」
ルーエが抱えている包みを見る。
「もうできたのか?」
「以前から預けていた毛の分です。昨日持っていったものは、また次に来た時ですね」
「ああ、なるほど」
ルーエは何度かこの町を利用していると言っていた。
旅をしながら毛を預け、次に立ち寄った時に完成したものを受け取るらしい。
「リヴェルさんは、宿はいかがでしたか?」
「悪くなかったよ。飯はかなり美味かったし、寝具もよかった」
「では、候補になりそうですか?」
「うーん……昨日の夜は結構いいと思ったんだけどな」
「何かありました?」
「朝、羊に起こされた」
「羊に?」
「宿の近くに牧場があるみたいでさ。朝から『めぇめぇ』すごかった」
ルーエは少しだけ口元を緩めた。
「この町では、よくあることですね」
「やっぱりか」
「朝が早い町ですので」
「そこはちょっと気になるところだったかな。ソムニウムほど気持ちよく起きられなかったし」
「眠れなかったのですか?」
「いや、普通に眠れたよ。夜中に起きた覚えもないし、寝具だってかなり良かった。ただ、起きた時の感じが違った」
「そうですか」
「ムムの毛の差かな」
「むぅ!」
「お前の功績なのは間違いないな」
褒められたムムが胸を張った。
ルーエは俺とムムを交互に見たあと、少しだけ考えるように視線を伏せた。
「リヴェルさんは、これから町を見て回られるのですか?」
「ああ。今日は外れの方も見ておこうと思って。住むなら中心から少し離れた方がよさそうだし」
「そうなのですね」
「ルーエは?」
「私は、もう用事は終わりました」
「じゃあソムニウムに戻るのか?」
そう尋ねると、ルーエはすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ視線が泳いでから、俺の方を見る。
「……もし、リヴェルさんがよろしければ」
「ん?」
「今日も一緒に町を回りませんか?」
一瞬、返事が遅れた。
これまで俺の方から一緒に見て回っていいかと尋ねることはあった。
けれど、ルーエの方からこうして誘われたのは、たぶん初めてだった。
「昨日は寝具のことで別れてしまいましたし、この町にはまだご案内していないところもありますので」
「案内してくれるのか?」
「それもありますが……」
少しだけ間を置く。
「私も、もう少し一緒に見て回りたいなと思いました」
いつもの淡々とした声だった。
ただ、それを聞いた瞬間、なぜか少しだけ嬉しくなった。
「ああ。じゃあ一緒に回ろうか」
「はい」
ルーエの頬がほんの少しだけ緩む。
「むぅ!」
置いていかれると思ったのか、ムムが俺とルーエの間へ割って入るように身体を押し込んできた。
「誰も置いていかないって」
頭を撫でながら笑う。
「それで、どこ行く?」
「この先に、乳製品を使った焼き菓子のお店があります。以前食べて美味しかったので」
「……ルーエ」
「はい?」
「案内って言ってたけど、普通に食べたいだけじゃない?」
眠たげな瞳が、僅かに逸れた。
「……それもあります。ダメでしたか?」
「まさか。むしろ大歓迎だ」
「では、行きましょう」
「ああ」
「むぅ!」
三人で並んで歩き出す。
ルーエに案内されて着いたのは、焼き立てのパンケーキに、出来たてのバターをたっぷり乗せて出す店だった。
ただ、店先には何人かの客が待っている。
「すみませんねぇ。ちょうど朝の分を使い切っちゃって、次のバターができるまで少しかかるんですよ」
店員の視線の先では、大きな木桶から伸びた取っ手を若い男がひたすら回していた。
「……あれ、何してるんだ?」
「バターを作っているのだと思います」
「回すだけで?」
「基本的にはそうですね。乳から分けた濃いクリームを、脂肪分が固まるまで攪拌するんです」
見ていると、男は額に汗を浮かべながら一定の速さで取っ手を回し続けている。
「あとどれくらいですか?」
「二十分くらいですかねぇ。これが結構大変なもんで」
「二十分……」
焼き上がったパンケーキから漂ってくる甘い香りが鼻をくすぐる。
俺は攪拌器を見た。
「……あれって、早く回せばその分早くできるのか?」
「ええ。限度はありますけど、しっかり攪拌できればその分早くはなりますよ」
「じゃあ、俺が代わろうか?」
「え?」
「たぶん、今の倍くらいの速さなら余裕で回せる。その代わりってわけじゃないけど、少しだけ順番を早めてもらえないかな?」
店員は一瞬ぽかんとしたあと、まだバターの完成を待っている客たちへ視線を向けた。
「まあ、どのみちバターができないことには皆さんに出せませんし……それなら構いませんけど」
「ありがとう」
許可をもらい、攪拌器を回していた男と代わる。
「助かります……。でも、結構重いんですよ?」
「このくらいなら大丈夫」
取っ手を握り、一度ゆっくり回して中の抵抗を確かめる。
重くはあるが、剣を振ることに比べればどうということもない。
「じゃあ、少し速くするぞ」
そのまま力を込め、取っ手を回す速度を一気に上げた。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
「……速っ!?」
店員の声が後ろから聞こえた。
「このくらいなら大丈夫か?」
「え、ええ……。さっきまで二人で交代してたんですけど……」
休憩していた男が何とも言えない顔でこちらを見ていた。
それから数分。
三段重ねのパンケーキが、俺たちの前へ運ばれてきた。
厚めに焼かれた三枚の生地の上には、今できたばかりのバターが惜しげもなく乗せられている。
熱を帯びた表面に触れたそばから端がゆっくりと溶け始め、さらにその上から琥珀色の蜜が細く回しかけられた。
「……これはヤバいな」
「見ただけで美味しさが伝わってきますね」
ごくりと喉を鳴らし、ナイフとフォークを手に取る。
「じゃあ、いただきます」
ナイフを入れると、ふかりと柔らかな生地が沈み、切り口から白い湯気が立ち上った。
そこへ溶けたバターと蜜をたっぷり絡め、口へ運ぶ。
「……うまっ!」
焼きたての生地は表面こそ香ばしいものの、中は驚くほど柔らかく、噛めば小麦と乳の優しい甘さがふわりと広がる。
そこへ出来たてのバターの濃厚な香りとほどよい塩気、蜜のまっすぐな甘さが重なり、一口食べた時点でもう手が止まらなくなった。
隣ではルーエも一口頬張り、眠たげな瞳を少しだけ大きくしている。
「……美味しいです」
その向こうでは、別皿に取り分けてもらったムムがパンケーキへ顔から突っ込み、鼻先を蜜でべたべたにしていた。
「むぅ!」
その姿を見てルーエと顔を見合わせ、思わず二人で笑う。
出来たてのバターをたっぷり使ったパンケーキは、わざわざ攪拌器を回した甲斐があると思えるくらい美味く、三段あったはずなのに気づけば皿の上から綺麗になくなっていた。
食事を終えて会計をしていると、先ほどの店員が笑いながら声をかけてきた。
「お兄さん、どうだい。このままうちで働かないかい? あんたがいてくれたら、店の回転もずいぶん良くなりそうだよ」
「いや、俺はただ早く食べたくて手伝っただけだからな。順番も融通してもらって助かったよ。また来た時に人手が足りてなかったら、その時は手伝わせてくれ」
「ははっ、まあそうだよね。またいつでも食べに来なよ」
「ああ。その時はまた頼むよ」
店を出ると、隣を歩いていたルーエがこちらを見上げた。
「もしこの町へ定住されるのであれば、働き先も見つかりましたね」
「毎日バターを作るために腕を回し続ける生活か……。あのパンケーキを好きな時に食べられるなら、ありかもしれないな」
「そこが決め手になるのですか?」
「十分なり得るな」
「では、お給金ではなく、パンケーキで支払っていただくのもよさそうですね」
「いや、それはちゃんと金でもらいたい」
「パンケーキは?」
「まかないで食べさせてくれないかなぁ」
「そこは要相談ですね」
そんな他愛のない話をしながら、俺たちはベルネの町をのんびりと歩いて回った。
◆
中心部を抜ければ大きな牧場が広がり、その間を縫うように石造りの家や小さな工房が点在している。
「こっちは結構静かだな」
「牧場が多いので、人通りは少ないですね」
「住むなら中心より、この辺りの方がよさそうだな」
丘からは町と牛や羊の群れ、その向こうの山並みまで見渡せた。
「景色もいいな」
「はい。私もこの辺りは好きです」
「何度も来てるんだっけ?」
「はい。ただ、寝具をお願いしてすぐ出発することも多いので、今日はいつもよりたくさん見て回れました」
「じゃあ、誘って正解だったな」
「誘ったのは私ですよ」
「あ、そうだった」
眠たげな瞳が、じっとこちらへ向けられる。
「私が誘わなくても、リヴェルさんから誘ってくださったのでしょうか?」
「ああ……たぶん、誘ってたと思う」
「それなら、どちらからでもあまり変わりませんね」
ルーエはそう言うと、少しだけ満足したように視線を前へ戻した。
その後も、牧場で搾りたてのミルクを飲んだり、熟成の違うチーズをいくつか買ったり、途中でまた羊たちに捕まったムムを待ったりしながら歩いているうちに、空は少しずつ橙色へ染まり始めた。
「そろそろ戻りましょうか」
「ああ。結構歩いたな」
「むぅ!」
ムムだけはまだ元気そうだった。
町の入口近くまで戻ったところで、ルーエが足を止める。
「リヴェルさんは、今夜も昨日の宿へ泊まられますか?」
「……そうだな」
宿も町も悪くない。
食事は好みで、中心部から少し離れれば静かな場所も多く、暮らす場所としては今まで見てきた中でもかなり上位だと思う。
ただ——。
「いや。今日からまた、ソムニウムに戻らせてもらっていいか?」
「よろしいのですか?」
「ああ。ベルネはかなりいい町だと思う。飯もうまいし、静かな場所もあるし、働き先まで見つかりそうだしな」
「はい」
「でも、もう少し他の町も見てみたいんだよ。ここで決めるには、まだ早い気がする」
それに、と少しだけ付け加える。
「毎朝羊に起こされるのは、ちょっとな……」
「そこなのですね」
「眠るのはかなり大事だからな。一日や二日なら町らしくて面白いけど、毎朝『めぇぇ』で起こされる生活を何年も続けるって考えると……」
「慣れるかもしれませんよ?」
「慣れる可能性に定住を賭けるのも嫌だろ」
「それもそうですね」
ルーエが小さく頷く。
「というわけで、今日も泊めてもらっていい?」
「はい。もちろんですよ」
ルーエは迷うことなく答えたあと、ほんの少しだけ頬を緩めた。
「夕食はどうされますか?」
「まだ食べるの?」
「カレーに、今日買ったチーズをのせるのも美味しそうですね」
「……そう言われると、お腹空いてきたな」
「むぅ!」
「お前はずっと空いてるだろ」
結局、三人で笑いながらソムニウムへ戻ることになった。
ベルネはかなりいい町だった。
もう少し長く暮らせば、羊の声だって気にならなくなるのかもしれないし、今のところ大きな不満もない。
それでも今は、ここで旅を終わらせるより、もう少し先を見てみたかった。
そう思いながら、すっかり見慣れてきた宿の扉をくぐった。
《牧都ベルネ》
食事 九点
睡眠 八点
暮らしやすさ 七点
人との距離 七点
匿名性 七点
パンケーキ 十点




