第19話 牧都ベルネ
ラサールを出てから四日ほど経った頃、窓の外の景色が少しずつ変わり始めた。
乾いた大地と低い草原が続いていたはずなのに、いつの間にか緑が増え、緩やかな丘の斜面には背の低い草が一面に広がっている。
遠くには白いものが点々と見え、最初は岩かと思ったが、近づくにつれてそれが羊の群れだと分かった。
「ずいぶん景色が変わったな」
「標高が少し高くなっていますからね。この辺りは雨も多いそうです」
向かいに座っていたルーエが、窓の外を眺めながら答える。
ルーエの旅には、細かな予定がほとんどない。
道中で聞いた町へ立ち寄り、必要なものを揃え、客がいれば足を止める。
目的地と日程ばかり追っていた勇者時代とは正反対だ。
予定通りに進む保証はないが、その分ずっと気楽だった。
そんなことを考えていると、突然、宿を引いていたムムの大きな顔が窓へぬっと押しつけられた。
「どうした?」
「むぅ、むぅ!」
ムムが見ている方へ視線を向けると、道沿いの柵の向こうを十数頭の羊がのんびりと歩いていた。
「同族……ではないよな?」
「違いますね」
「むぅ!」
ルーエに否定されても気にした様子はなく、ムムは尻尾を振りながら羊の群れを楽しそうに目で追っている。
「お前、自分のこと羊だと思ってる?」
「むぅ」
「その顔は分かってないな」
伝説では《千夜喰らい》なんて大層な名で恐れられている魔獣なのに、当人にはそんな自覚などまるでないらしい。
やがて窓の外には石造りの低い建物が増え始め、その向こうには広い牧草地と、木の柵に囲まれた牛や羊の姿が見えるようになった。
開いた窓からは草の青い匂いと、それに混じってどこか甘い乳のような香りまで流れ込んでくる。
「着いたみたいですね」
ルーエが席を立つ。
いつものように町から少し離れた場所へソムニウムを置き、俺たちは外へ出た。
ラサールの乾いた熱気に慣れていたせいか、頬を撫でていく風が驚くほど涼しく感じる。
高い空の下では、丘を越えて吹いてきた風が一面の草を撫で、緑の波のように揺らしていた。
「いいところだな」
「はい」
「むぅ!」
小さな姿へ戻ったムムは外へ出るなり草の上を駆け回り、少し離れたところで勢いよく転がると、そのまま背中を地面へ擦りつけ始めた。
「ああ、せっかく白いのに草だらけになるぞ」
「むぅ!」
「聞いてないな」
ルーエはそんなムムを目で追いながら、小さく笑った。
「それで、今回は何か目的があってここに来たのか?」
「はい。ムムの毛が、そろそろかなり溜まってきましたので」
「毛?」
「はい。換毛の時期になると、とてもよく抜けるんですよ。元があの大きさですので、それはもう大量に」
改めてムムを見る。
今は小さな姿になっているものの、それでも十分すぎるほど丸く、どこまでが身体でどこからが毛なのか分からないほどふわふわしている。
「捨てるのももったいないので、ある程度溜まったら加工してもらっているんです」
「加工?」
「寝具にします」
「ああ、宿で使ってるやつか」
「はい」
思わずムムを見ると、呼ばれたと思ったのか、草だらけの身体でこちらへ走ってきた。
「むぅ?」
そのまま俺の脚へ身体を擦りつけてきたので、草を払いながら頭を撫でる。
相変わらず指が沈み込むほど柔らかく、これを詰めた寝具が気持ちいいのも納得だった。
「でも、宿で使う分だけにしては結構な量が取れそうだよな。余った分はどうしてるんだ?」
「宿で使う分は十分にありますので、余った分の寝具は売っています。今では、ソムニウムの主な収入源の一つですね」
「……ムム、稼いでるんだな」
「むぅ!」
ルーエは荷物の中から小さな布袋を取り出す。
口を開けて見せてもらうと、中には綿のような白い毛がぎっしりと詰まっていた。
「確かに、あの寝具なら金を積んでも欲しがる人はいそうだよな」
「私も商人の方へ渡したあとの行き先までは詳しく知らないのですが、王族や貴族の方にも使われているそうです」
「おぉ……すごいな」
何気なく撫でていたムムの頭へ視線を落とす。
伝説の魔獣が引く宿で、伝説の魔獣の毛を使った寝具を売って旅費を稼いでいる。
改めて考えると、ソムニウムという宿は俺が思っていた以上に変わった経営をしているらしかった。
◆
町の門をくぐると、外から見えていた以上に、ここが酪農で成り立っている場所なのだとすぐに分かった。
通りの左右には乳を入れた大きな瓶や、丸いチーズを積み上げた店が並び、その間には焼き立てのパンや菓子を売る露店もいくつも出ている。
どこからともなく漂ってくるバターの濃い香りに、少し酸味のある乳の匂いや、焼いた小麦の香ばしさまで混じり、歩いているだけで自然と腹が減ってきた。
「ここが酪農の町《牧都ベルネ》です。私も寝具を作っていただく時に、何度かお世話になっています」
「……いい町だな」
「まだ入ったばかりじゃないですか?」
「ラサールとは違って、こういう乳とかバターの匂いはなんというか……安心するのに、それでいてちゃんと腹も減ってくるんだよな」
「それは……少し分かります」
ルーエも同意するように、ほんの少し頬を緩めた。
通りを少し進んだところで、木の板の上に何種類もの白や黄色の塊を並べた店が目に入る。
「チーズか?」
「そうですね」
近づいてみると、崩れそうなほど柔らかそうな白いものから、表面が乾いて硬そうな黄色いものまで、形も色もばらばらだった。
「やあ、ルーエちゃんじゃないかい。久しぶりだねぇ」
店先にいた恰幅のいい女性が、こちらに気づくなり嬉しそうに声を上げた。
「お久しぶりです」
「しばらく見なかったから、また遠くまで行ってたのかい?」
「はい。少し南の方まで」
「相変わらずだねぇ。それで——」
女性の視線がルーエから俺へ移り、次いで足元のムムへ落ちる。
「むぅ!」
「あらあら。ムムちゃんも久しぶりじゃないかい」
「むぅ!」
どうやらムムまで顔馴染みらしい。
「結構この町に来てるんだな」
「寝具をお願いする時は、こちらへ来ることが多いですので」
「なるほど」
女性はそんな俺たちを見比べると、にやりと笑った。
「それで、そっちのお兄さんは?」
「今、一緒に旅をしているリヴェルさんです」
「どうも」
「へぇ。ルーエちゃんが誰か連れて歩いてるなんて珍しいねぇ」
「そうなのか?」
「いつもはこの子とムムちゃんだけだったからね」
そう言われてルーエを見ると、本人は特に気にした様子もなく、並んでいるチーズへ視線を向けていた。
「今日は寝具をお願いしに来たのですが、その前に少し町を見て回ろうと思いまして」
「だったらちょうどいいよ。今朝できたばかりのがあるから食べていきな」
女性はそう言うと、白く柔らかなチーズを切り分け、小さな木皿に乗せて差し出してきた。
「いいのか?」
「試食だよ。旅人に食べてもらうのも商売のうちさね」
「じゃあ、遠慮なく」
一切れ口へ運ぶ。
舌に触れた瞬間、思っていた以上に柔らかな食感がほどけ、濃い乳の甘味とほんの僅かな酸味が広がった。
塩気も控えめで、口の中に残るのは新鮮な乳そのものに近い香りだった。
「……うまいな」
「でしょう?」
隣ではルーエも一切れ食べ、眠たげな瞳を僅かに細めている。
「前にいただいた時より、少し柔らかいですね」
「今年は乳の出来がいいからね。牧草がよく育ったおかげさ」
「むぅ!」
足元から強い主張が飛んできた。
「ムムちゃんには、こっちだね」
女性は慣れた手つきで別の塊を取り出し、小さく切ってムムへ差し出す。
「それは?」
「塩をほとんど入れてないやつだよ。前にルーエちゃんが、この子にはこっちの方がいいって言ってたからね」
「ちゃんと覚えられてるな、お前」
「むぅ!」
ムムは誇らしげに鳴いた直後、チーズを一口で飲み込んだ。
「……今、味わったか?」
「むぅ!」
「絶対味わってないだろ」
「ふふっ。ムムは昔からこうですよ」
ルーエが小さく笑う。
店の女性までつられて笑い、俺ももう一切れチーズを口へ運んだ。
それからしばらく、ルーエと一緒に町を見て回った。
チーズだけでなく、搾りたてのミルクやバターを使った菓子も多い。
焼き菓子、冷たいミルク、溶かしたチーズの料理と、気づけば予定以上に食べ歩いていた。
途中、顔馴染みの牧場へ連れていかれたムムが羊の先頭を歩くと、群れまでぞろぞろ後ろについていった。
「……完全に群れのリーダーになってるな」
「本人も楽しそうです」
伝説の魔獣が羊を率いる姿は、なんとも妙だった。
そうして町を一通り見て回ったところで、寝具の加工を頼みに行くルーエと、定住候補として宿を確かめたい俺とで一度別れることになった。
選んだのは町の中心から少し離れた、小さな宿だった。
夕食は、この町の乳をたっぷり使った白いシチューで、濃厚なのに後味は軽く、肉や野菜の旨味を乳の甘さが包み、パンにもよく合う。
「……これ、かなり好きだな」
食後には何種類かのチーズを少量ずつ味わえる盛り合わせと、この地方で作られている葡萄酒まで出してもらえた。
酸味や塩気、熟成の違いを酒と合わせて少しずつ食べ比べているだけでも十分楽しめる。
寝具も、羊毛や寝具の加工で知られているだけあって、布団や枕の質もかなりよく、身体を預けるとほどよく沈んでしっかり支えてくれる。
ソムニウムには及ばないが、普通の宿としては十分すぎる。
食事も美味い。寝具もいい。町も静かだ。
布団へ身体を沈めながら、俺は天井を見上げた。
「……ここ、結構いいかもな」




