第18話 夢香のカレー
もう少しだけ寝床の温かさを味わい、ようやく起き出す。
すると、先に起きたムムが妙に機嫌よく飛びついてきた。
「むぅ! むぅ!」
「お、おい。どうしたんだよ。柔らかいから痛くはないけど、くすぐったいって」
押し返すほどでもなく、そのまま好きにさせていると、隣で様子を見ていたルーエが何かに気づいたように首を傾げた。
「……ムム。昨夜は、悪夢を食べなかったのですか?」
「むぅ!」
ムムは嬉しそうに鳴くと、さらに強く頬を擦りつけてきた。
「食べなかった?」
「そのようですね。おそらく昨夜は、リヴェルさんがほとんど悪夢を見なかったのでしょう」
「俺が?」
「はい」
食事にありつけなかったというのに、不満そうな様子はない。
むしろ、俺が悪夢を見なかったことの方が嬉しいらしい。
「……お前、そこ喜んでくれるんだな」
「むぅ!」
返事と一緒に、また頬へ毛が押しつけられた。
「でも昨日は、結構緊張してたんだけどな」
「そうだったのですか?」
「あれだけ近くで寝たら、そりゃな」
「……そうですか」
ルーエの視線が、ほんの少しだけ下がる。
身体が触れることには緊張したが、危険だと思っていたわけではない。
最後には二人の温かさへ身体を預けて眠っていた。
「それと、昨日リヴェルさんの感覚へ触れた時に、一つ分かったことがあります」
「何が?」
「やはり、リヴェルさんの心には、とても強い精神防護がかかっていました」
ルーエはそこで言葉を切り、ムムへ目を向けた。
「以前、ムムがリヴェルさんの悪夢を『硬い』『味が濃い』と言っていましたよね」
「ああ」
「おそらく、あれも悪夢そのものではなく、リヴェルさんの精神防護が残っていたせいなのでしょう」
「……じゃあ、俺の悪夢が元から硬くて不味かったわけじゃない?」
「むぅ」
ムムも同意するように頷いた。
自分の悪夢の味を気にする日が来るとは思わなかった。
「昨夜は、いつもよりその防護も弱かったように感じました。リヴェルさん自身が安心していたことも関係しているのかもしれませんね」
「じゃあ、これからの悪夢は?」
「以前よりは、食べやすくなっているかもしれませんね」
「むぅ!」
ムムの耳がぴんと立った。
「そこは喜ぶのかよ」
「むぅ」
「俺が悪夢を見ない方が嬉しいんじゃなかったのか?」
「むぅ!」
どちらもだと言わんばかりに、ムムが勢いよく身体を擦りつけてくる。
「欲張りだな、お前……」
呆れながらその頭を撫でると、ムムは満足そうに目を細めた。
昨日までなら、眠る時に誰かが身体へ触れていること自体が気になっていたはずなのに、今朝はむしろ、その温かさがなくなったことの方が少しだけ物足りなく感じた。
……まあ、それを口に出すのはやめておこう。
◆
朝食後、ルーエは昨夜感じ取ったものを紙へ書き出した。
「まず、今まで使っていた香辛料の方向性はかなり近いと思います」
「そこは合ってたのか」
「はい。ただ、リヴェルさんが覚えているものは、今まで作ったものより香りが深くて、辛味も少し穏やかでした」
「そうそう。辛いのは辛いけど、それだけじゃないんだよな」
「それから、やはり油脂を使っています。かなり滑らかな口当たりでしたので、昨日試したバターも合っていると思います」
ルーエが紙へ書き足していく。
「一番大きな違いは、とろみですね」
「何が入ってたか分かった?」
「はっきりとは分かりませんでしたが、小麦に近い香りがありました。油と一緒に火を通してから使っていたのではないかと思います」
「小麦粉か……」
言われてみれば、そんな気がする。
前世でカレーを一から作ったことはないが、何かの料理番組で、小麦粉と油を炒めていた光景を見た覚えがあった。
「それと、甘味が丸葱だけではありませんでした」
「他にも何か入ってる?」
「果物だと思います。少し酸味のある、甘い果実です」
「果物……」
頭の中で記憶を探る。
「りんごか?」
「りんご?」
「こっちだと……赤蜜果だったかな。丸くて赤いやつ」
「ああ。それでしたら近いと思います」
「カレーにりんご……そういえば、入ってたような気がするな」
昔見た広告か何かで、そんな言葉を聞いた記憶がある。
「あと、少量ですが、強い旨味と塩味もありました。お肉や野菜だけではないように感じます」
「出汁か?」
「おそらく。煮詰めた肉の出汁か、発酵調味料のようなものかもしれません」
昨日まで手探りだった料理の輪郭が、一気にはっきりしてきた。
「……すごいな」
「かなり近くで眠りましたので」
昨夜を思い出し、少しだけ視線を逸らした。
「そ、そうか」
「はい……」
ルーエも一瞬だけ耳を赤くしたが、すぐに紙へ視線を戻した。
「では、足りないものを買いに行きましょうか」
「ああ。今日こそ完成させよう」
「むぅ!」
食べる気だけは誰よりもあるムムが、元気よく鳴いた。
◆
材料を揃えて戻ると、すぐ厨房へ入った。
俺が野菜と肉を切る横で、ルーエは香辛料の配合を調整していく。
「赤辛子は少なめにします。こちらの種は少し増やして、爽やかな香りは昨日の半分くらいに」
香辛料を弱火で煎り、別の鍋では丸葱をバターで炒める。
飴色へ変わるにつれ、甘く香ばしい匂いが漂った。
「ここまで炒めるのか」
「昨夜感じた甘味は、かなり強かったので。果物だけではなく、丸葱ももっと甘くしてよいと思います」
その間に俺は赤蜜果を細かくすり下ろした。
「これ全部入れる?」
「半分くらいから試しましょう。甘くなりすぎても戻せませんので」
「了解」
鍋へ肉を加え、表面へ焼き色をつける。
人参と芋を加えたところへ水と濃縮出汁を入れ、そのまましばらく煮込んでいく。
問題は、ここからだった。
「小麦粉はどうする?」
「まずは、バターと同じくらいの量を使ってみます」
小さな鍋へバターを溶かし、そこへ小麦粉を加える。
木べらで混ぜると、最初は白っぽかったものが次第に滑らかな塊へ変わり、さらに火を入れるにつれて薄い茶色になっていった。
「焦げない?」
「火を弱くしていますので大丈夫ですよ。でも、混ぜ続けてくださいね」
「はいはい」
木べらを渡され、ひたすら鍋の底をかき混ぜる。
思っていたより地味な作業だった。
「焦がすと今日のカレーが終わりますので」
「勇者の仕事より緊張感あるな」
「はい。頑張ってください」
「任せろ」
竜を斬るより慎重に木べらを動かす。
やがて小麦粉とバターが香ばしい匂いを放ち始めたところで、ルーエが煎った香辛料を加えた。
香辛料を加え、煮汁で伸ばしていくと、濃い茶色の滑らかなとろみに変わった。
「なんか……見覚えあるな」
「完成したものにですか?」
「ああ。これ、カレールーっぽい」
「るー?」
「カレーの元みたいなもの」
「なるほど。では、これを入れればよいのですね」
鍋へ加えると、さらさらだった煮汁にとろみがつき、色も匂いも一気に記憶へ近づいた。
「おお……」
思わず鍋を覗き込む。
「見た目はどうですか?」
「かなりカレーだ」
「かなり」
「かなりだ」
そこへすり下ろした赤蜜果を加え、濃縮出汁、塩、ほんの少しの砂糖で味を整える。
最後にバターを一欠片入れると、溶けるにつれて表面へ艶が出た。
ルーエが小皿へ少量を取り分ける。
「お願いします」
「……よし」
少し冷まし、匙を口へ運ぶ。
甘い香りのあとに深い風味と遅れてやってくる辛味。
肉と野菜の旨味がとろみの中へ溶け込み、バターのまろやかさと果物の甘酸っぱさが全体の角を丸くしている。
口の中で混ざった瞬間、頭の奥にあった記憶と重なった。
「……あ」
「どうですか?」
もう一口ゆっくり味わう。
完全に同じではない。
肉も香辛料も、前世で食べていたものとは違う。
けれど——。
「カレーだ」
自然と笑っていた。
「これだよ。これ、カレーだ」
「本当ですか?」
「ああ。まだちょっと違うところはあるけど……ちゃんとカレーだ」
ルーエも自分の小皿から一口食べる。
しばらく目を閉じて味わい、飲み込んだあと、眠たげな目が僅かに開いた。
「……美味しいですね」
「だろ?」
「はい。香辛料をたくさん使っているのに、それぞれが強すぎなくて、一つの味になっています」
「それが言いたかったんだよ!」
「最初からそう仰っていましたね」
ルーエの頬も少し緩んでいる。
「むぅ!」
足元から催促する声が飛んできた。
白い米へ、完成した茶色いカレーをたっぷりとかける。
その光景だけで胸が少し高鳴った。
「いただきます」
米とカレーを一緒に口へ運ぶ。
米の甘さへ、とろみのある香辛料と肉や野菜の旨味が絡み、その味を噛みしめた瞬間、思わず目を閉じる。
「……うまい。うまいよ……」
単純な言葉しか出てこなかった。
前世とまったく同じ味ではない。
それでも、間違いなく俺がもう一度食べたかった料理だった。
「うまい。めちゃくちゃうまい。今まで食べたカレーの中で、一番好きだ」
「よかったです」
ルーエも自分の皿から一口食べ、ゆっくりと味わってから小さく頷く。
「私もこのお料理好きです」
「本当か?」
「はい。辛いのに甘さもあって、お米ともよく合います」
「だろ?」
なぜか自分が褒められたような気分になって、少し嬉しくなる。
「むぅ!」
隣では、ムムも自分用のカレーへ勢いよく顔を突っ込んでいた。
「お前はもう少し味わえ」
「むぐぅ」
ほとんど皿へ顔を埋める勢いで食べていたせいで、ムムの鼻先には黄色いカレーがべったりとついている。
ルーエは小さく笑うと、布を手に取ってその鼻先を拭ってやった。
「ムム。ゆっくり食べてください」
「むぅ」
ルーエに鼻先を拭われながらも、ムムは名残惜しそうに皿を舐めている。
「なあ、ルーエ。もしルーエさえよかったらなんだけど、このカレーをソムニウムのメニューに入れるのはどうかな?」
ルーエは少し意外そうに目を瞬かせた。
「よろしいのですか?」
「ああ。ルーエが客に食べたいものを聞いて、その人に合わせて作ってくれるのは嬉しいと思うけど、こういう決まった料理もいくつかあった方が頼みやすいだろ? 何を食べたいかって聞かれても、疲れてる時はすぐ思いつかないこともあるだろうし」
「なるほど……確かにそうかもしれませんね」
ルーエは納得したように頷くと、自分の皿へ残っていたカレーをもう一口食べた。
「辛さも変えられるし、肉や野菜もその時あるものに合わせられそうだ」
「宿の料理にも向いていそうですね」
「だろ?」
「では、あとでメニューに加えておきますね」
ルーエは少し嬉しそうに頷いた。
「今までも、そういうのはあったのか?」
「ありますよ。ただ……今までは、作ったことのあるお料理や、お客様に好評だったものを書き留めているくらいでしたけど」
「じゃあ、これを機にちゃんとしたメニューにしていくのもいいかもな」
「そうですね」
そう言われると、少しだけ妙な気分だった。
前世ではどこにでもあって、特別珍しくもなかった料理が、今は俺の記憶を頼りに一から作られ、ソムニウムの料理の一つとして残っていこうとしている。
「むぅ!」
「ムムも賛成か」
「いえ、これはおかわりと言っているのだと思います」
「……ムム」
結局、ムムには少しだけ二杯目をよそってやることになった。
嬉しそうにまた皿へ顔を突っ込む姿を見ながら、俺も残っていたカレーを口へ運ぶ。
何度も失敗し、町を食べ歩き、最後には抱き合って眠ってまで完成させた。
けれど、これだけ美味いなら十分その甲斐はあった。
◆
「《夢香のカレー》?」
「はい。ただの『カレー』では少し味気ないかなと思いまして。リヴェルさんの夢から作れた料理ですので、この名前がよいかなと」
「ああ。いいかもな」
少し大仰な気もしたが、ソムニウムのメニューとしては、むしろそのくらいの名前の方が似合っている気がする。
ルーエは満足そうに《夢香のカレー》と書き加えると、メニューを閉じ、今度は俺の手元へ視線を落とした。
「リヴェルさんは、何を書かれているんですか?」
「俺はこの町の評価だな」
料理は文句なしで、食べ歩くならかなり楽しい。
むしろ香辛料を使った料理の種類はこちらの方が多く、食べ歩くだけならかなり楽しめる町だと思う。
匿名性も高い。
ただ、毎朝漂う香辛料の匂いは暮らすには少し刺激が強く、人の多さも気になった。
住むなら中心部からかなり離れる必要がありそうだ。
考えた末、数字を書き込む。
《香都ラサール》
食事 八点
睡眠 五点
暮らしやすさ 三点
人との距離 六点
匿名性 七点
カレー 十点
「……よし」
「それで、この町に定住されるのですか?」
ルーエが、少しだけ上目遣いにこちらを見ながら尋ねてくる。
「いや。料理は良かったんだけどな。やっぱり、もっといい場所がありそうだし……もう少し一緒に乗っていってもいいか? カレーも、食べたい時に食べたいし」
「はい。もちろんですよ」
ルーエはそう答えると、ほんの少しだけ嬉しそうに頬を緩めた。
「むぅ!」
足元のムムも、待っていたと言わんばかりに元気よく鳴いた。




