第17話 ただ温かい
夜。
風呂を済ませて戻ると、いつものベッドが妙に狭く見えた。
普段なら一人で好きなだけ転がれる広さがあるはずなのに、今夜はここへもう一人入るのだと思った途端、寝具の端から端までの距離が急に短く感じられる。
「……今さら緊張してきたな」
目的はカレーの味を伝えるだけで、お互い嫌ではないことも確認した。
それでも、実際にその時間が来ると話は別だった。
「リヴェルさん。入ってもよろしいですか?」
「ああ。大丈夫」
返事をすると、ゆっくりと扉が開いた。
ルーエもすでに寝支度を終えており、普段の服より薄手で柔らかな寝間着を身につけている。
白銀の髪もいつもより緩くまとめられていて、宿主として働いている時とは少し違って見えた。
「お待たせしました」
「じゃあ……寝るか」
俺が壁側へ入り、その隣へルーエが横になる。
寝具が沈み、身体同士の距離が近づいた。
近い。
思っていたより、ずっと近い。
普段向かい合って話している時なら気にならないのに、同じ枕の高さで横になると、ルーエの顔がすぐ目の前にある。
眠たげに垂れた目、長い睫毛、白い肌。その頬へ、白銀の髪がさらりとかかっていた。
いつもは小柄な体格もあって、可愛らしいという印象の方が強い。
けれど、こうして近くで見ると、整った顔立ちや柔らかな唇まで妙に目についた。
ルーエが指先で髪を耳へかける。
たったそれだけの仕草に、胸が一度、大きく鳴った。
「それで……抱き合うんだよな」
「はい。身体が触れている方が、感覚を拾いやすいと思いますので」
「分かった」
言葉にすると余計に意識する。
どう腕を回せばいいのか迷っていると、ルーエの方が先に少し身体を寄せてきた。
「こちらへ」
「え?」
肩へ手を添えられ、そのままゆっくりと引き寄せられる。
気づけば俺の頭は、ルーエの胸元へ抱え込まれるような形になっていた。
「……こう?」
「はい……」
耳元の鼓動は、気のせいでなければ少し速い。
俺だけが緊張しているわけではないのだと分かったが、それで安心できるかと言われれば、むしろ余計に意識してしまった。
柔らかな寝間着越しに伝わる身体の柔らかさと体温に、ほのかな甘さを含んだ石鹸の香り。
頭へ回された細い腕や、時折髪へ触れる指先まで、普段なら気にも留めないものがやけに鮮明に感じられる。
意識すればするほど胸の鼓動まで大きくなり、これでは眠るために抱き合っているのか、眠れなくなるために抱き合っているのか分からなかった。
どうしたものかと考えていた、その時だった。
「むぅ」
扉の向こうの隙間から小さな白い毛玉がするりと部屋へ入り込んできた。
「むぅ!」
「どうしたんですか、ムム」
答える代わりに、ムムはベッドへ向かって跳ぶ。
ぼふっ、と柔らかな音を立てて着地すると、俺とルーエの間へ当然のように身体を押し込んできた。
「むぅ」
俺の腹へ背中を押しつけ、反対側をルーエへ預けるようにして丸くなった。
「……ここで寝るつもりだな、こいつ」
「そうみたいですね」
「むぅ」
満足そうに目を閉じる。
さっきまで張り詰めていた空気が、急に馬鹿らしくなった。
「ふっ……」
思わず笑いが漏れる。
ルーエを見ると、彼女も口元へ手を添え、小さく肩を揺らしていた。
「ムムも一緒に寝ましょうか」
「むぅ!」
結局、そのままムムを間へ挟んで眠ることになった。
ルーエは変わらず俺の頭へ腕を回し、俺も遠慮がちに腰へ腕を添える。
身体の中央あたりには、俺たち二人に挟まれるようにムムが丸く収まっている。
さっきまであれほど一つ一つの感触を意識していたのに、ムムが当然のような顔で間へ入り込んできたせいか、いつの間にか胸の鼓動も少しずつ落ち着いていた。
ルーエも同じだったらしく、先ほどより力の抜けた表情でこちらを見る。
「少し、楽になりましたね」
「ああ。ムムのおかげだな」
「むぅ!」
褒められたと分かったのか、間に挟まれたままムムが嬉しそうに鳴いた。
「眠れそうですか?」
「ああ。さっきよりはな」
「では、カレーのことを思い浮かべてみてくださいね」
「そういえば、それが目的だったな……。寝る前に飯のこと考えるのか」
「今まで食べた中で、一番美味しかったカレーでお願いします」
「分かったよ」
寝る前にする会話ではないなと思い、少し笑いながら目を閉じる。
前世で何度も食べたカレーの中から、一番好きだった味を探していく。
湯気の立つ白い飯と、その上へかかった茶色いカレー。
匙ですくった時の重さや、口へ運んだ瞬間に広がる香りまで、できるだけ鮮明に思い浮かべる。
「ルーエ」
「はい?」
「分かるといいな」
「はい。私も、食べてみたいです」
思っていたより近い場所から、静かな声が返ってきた。
けれど、もうそれを気まずいとは感じなかった。
背中へ回された腕の温かさと、耳元から聞こえる落ち着いた鼓動。
身体の間ではムムが早くも眠り始め、小さな寝息を立てている。
誰かとこれほど近い距離で眠るなんて、少し前の俺なら落ち着かないとしか思わなかったはずだ。
それなのに今は、不思議と離れたいとは思わない。
やがてルーエの呼吸もゆっくりと一定になり、それにつられるように俺の瞼も重くなっていく。
記憶の中にあるカレーの香りを思い浮かべたまま、俺は二人分の温かさに挟まれるようにして、ゆっくりと眠りへ沈んでいった。
◆
目を開けると、すぐ目の前に白銀の髪があった。
「……ん?」
まだ眠気の残ったまま何度か瞬きをすると、ぼやけていた視界が少しずつはっきりしていき、その向こうにルーエの寝顔が見えてくる。
昨夜とほとんど変わらない距離で、ルーエは静かな寝息を立てながら眠っていた。
眠たげな瞳は閉じられ、普段よりも幼く見える表情のまま、俺の頭を抱いていた腕もまだ背中へ回されたままだった。
身体の間へ視線を落とせば、ムムも俺たちに挟まれたまま丸くなり、腹を小さく上下させている。
「……朝か」
ぼそりと呟きながら身体を動かそうとして、ふと止まった。
驚くほど、身体が軽い。
途中で目を覚ました記憶もなく、疲れまで抜け落ちたようだった。
ソムニウムの寝具で眠るだけでも十分すぎるほど気持ちがいい。
けれど今朝の心地よさは、それだけではない気がした。
背中へ回された腕から伝わる温かさ。
すぐ近くから聞こえる穏やかな呼吸と、胸元へ耳を寄せれば微かに聞こえる鼓動。
腹の辺りにはムムの柔らかな毛と体温もあり、寝具とは違う生きた温かさに身体の前後を包まれている。
最初はあれほど意識して眠れなくなりそうだったのに、眠ってしまえばむしろ逆だったらしい。
「人の体温って……こんなに気持ちよかったんだな」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
前世でも一人で過ごす時間は好きだったし、この世界へ来てからも眠る時はほとんど一人だった。
仲間と野営することはあっても、こんなふうに誰かの体温を感じながら安心して眠った記憶はほとんどない。
だからなのかもしれない。
誰かがすぐそばにいるのに、何かを求められる心配がない。
ただ温かいというだけの存在が隣にいることも、思っていた以上に心地よかった。
「……ん」
そんなことを考えていると、目の前のルーエが小さく身じろぎした。
閉じていた睫毛が震え、ゆっくりと瞳が開いていく。
「……おはようございます、リヴェルさん」
「ああ。おはよう」
起きたばかりだからか、普段よりさらに柔らかな声だった。
ルーエはしばらく俺の顔を見つめたあと、まだ腕を回したままだということに気づいたらしく、僅かに目を瞬かせる。
「よく眠れましたか?」
「ああ。びっくりするくらい」
「それは、よかったです」
ルーエの頬が少しだけ緩む。
「ソムニウムで寝るだけでも十分気持ちいいと思ってたけど、こうやって誰かの体温を感じながら寝るのも結構いいんだな」
そう口にすると、ルーエは一度だけ瞬きをして、それから僅かに視線を逸らした。
「……そうですね。私も、思っていたよりよく眠れました」
「ルーエも?」
「はい。ムムと一緒に眠ることはありますが、人とこうして眠るのは初めてでしたので」
「むぅ……」
名前を呼ばれたムムが寝言のように鳴き、俺たちの間でもぞもぞと身体を動かした。
その姿に思わず二人で小さく笑う。
昨夜までなら緊張した距離なのに、今はそれほど気にならなかった。
少しして、ルーエが何かを確かめるように俺を見た。
「それと……昨日より、かなり分かりました」
「カレー?」
「はい」
眠気の残っていた頭が、一気に覚める。
「味も?」
「味と香り、それから口当たりも。全部ではありませんが、昨日とは比べものにならないくらい鮮明でした」
「本当か?」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「リヴェルさん、眠る直前まで本当にカレーのことばかり考えていたんですね」
「言われた通りにしたんだけど」
「とても分かりやすかったですよ」
少しだけ頬を緩めながら言われ、何となく恥ずかしくなる。
「それなら、今日こそ作れそうか?」
「かなり近づけられると思います」
「よし」
思わず声が弾んだ。
その拍子に間で眠っていたムムが目を開き、不満そうにこちらを見上げる。
「むぅ……」
「悪い。起こしたか」
「むぅ」
ムムは一度大きく欠伸をすると、俺とルーエの間へさらに深く身体を埋めた。
「……まだ寝るつもりだな」
「もう少し、このままでもよいですか?」
ルーエが静かに尋ねる。
「俺はいいけど」
「では、もう少しだけ」
そう言って、ルーエは再び枕へ頬を沈めた。
俺もすぐに起き上がる理由はなく、そのまま身体の力を抜く。
目を閉じれば、柔らかな寝具と、ルーエとムムの体温がもう一度身体を包んだ。
もう眠るつもりはなかった。
ただ、この温かさから出るのが少しだけ惜しかった。




