第16話 もう少し近い距離で
朝。
目を開けると、いつもの白い天井が視界に入った。
身体を起こして隣を見る。
昨夜、ルーエが座っていた椅子は元の場所へ戻され、部屋には俺以外誰もいなかった。
「……朝か」
昨夜は、ルーエに手を握ってもらったまま眠った。
いつの間にか意識は途切れたが、普段より少し眠りが浅く、何度か夢を見た感覚が残っている。
それでも、身体に疲れはなかった。
ベッドから降りて顔を洗い、一階へ向かう。
食堂へ入ると、ルーエはすでに厨房に立っていた。
朝食の準備をしているらしく、焼いたパンの香ばしい匂いが漂っている。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
足元ではムムが丸くなり、まだ眠そうに欠伸をしていた。
「昨日の、どうだった?」
尋ねると、ルーエの手が僅かに止まる。
「……少しだけ分かりました」
「少し?」
「はい。味や香りの輪郭のようなものは感じられました。ですが、それ以上はほとんど」
「駄目だったか」
「駄目というより、届かなかったという方が近いかもしれません」
ルーエは火を弱めると、こちらへ向き直った。
「リヴェルさんは、精神に干渉する魔法への対策をされていますか?」
「ああ。勇者として活動してた頃は、精神操作とか幻覚を使う魔物もいたからな。意識しなくてもある程度は弾くようにしてる」
魔王軍には精神操作や幻覚を使う敵もいた。
一度受ければ全滅しかねないため、精神への干渉を常に弾く癖がついている。
「たぶん、それですね」
ルーエは納得したように小さく頷いた。
「眠っている間も、かなり強く残っていました。外側へ滲んでいる感覚には触れられるのですが、その奥へ進もうとすると、硬い壁のようなものに遮られてしまって」
「硬い……」
「そういえばムムも、俺の夢は硬いって言ってたな」
「はい。おそらく同じものだと思います」
「むぅ……」
ムムは思い出したように顔をしかめた。
「自分でも、そこまで強く残ってるとは思ってなかった」
「長い間、身を守るために使ってきたものなのでしょうから。今では意識しなくても、常に働くようになっているのだと思います」
「なるほどな……」
勇者として生きるために身につけたものが、今になってこんなところで邪魔をするとは思わなかった。
「じゃあ、手を握るだけじゃ無理か」
「そうですね」
ルーエはそこで少し言葉を止めた。
何か続きを考えているようだったので、俺は椅子へ座りながら待つ。
「方法がないわけではありません」
「あるのか?」
「はい。もう少し近い距離で眠れば、伝わってくるものは増えると思います」
「近い距離?」
「身体が触れる面積が増えるほど、感情や感覚は伝わりやすくなりますので」
そこまで聞いて、何となく嫌な予感がした。
「具体的には?」
「隣で眠って、抱き合うくらいでしょうか」
「……抱き合う?」
「はい」
いつもの眠たげな顔で、あっさりと言われたように見えたが、よく見ると耳の先がほんの少し赤くなっていた。
二十歳を超えた男女が、同じベッドで抱き合って眠る。
料理のためとはいえ、何でもないこととして受け入れるには少し抵抗があった。
「嫌でしたら、やめましょう」
俺が返事をするより先に、ルーエはそう言った。
「別の方法を探せばよいだけですので」
「……いいのか?」
「はい。リヴェルさんが嫌だと仰ることをする必要はありませんから」
あまりにも普通に引き下がられた。
「じゃあ……やめとくか」
「分かりました」
ルーエはそれだけ答えると、再び朝食の準備へ戻った。
朝食を食べたあとも、彼女からその話を持ち出すことはなかった。
昼は再び町を回り、近そうな料理や香辛料を探した。
カレーに近そうなものは、昨日より増えたが、決定的なものは見つからない。
「これは?」
「少し違うな。もっと香ばしかった気がする」
「では、こちらは?」
「それは甘すぎるな」
答えているうちに、自分でも少し苛立ってきた。
ルーエの料理が悪いわけではない。
材料が足りないわけでもない。
確実に近づいているのに、俺が覚えている味を俺自身が正確に説明できないせいで、最後の一歩だけがどうしても埋まらない。
夕方、ソムニウムへ戻ってからも、俺たちは何度目かの試作を続けた。
香りも色もとろみも、最初とは比べものにならないほど近い。
それでも違う。
本物を食べれば絶対に分かるのに、どう言葉にすればいいのかだけが分からなかった。
「……くそ」
「リヴェルさん?」
「いや。何でもない」
小さく息を吐き、匙を皿の上へ置いた。
最初は、懐かしいから久しぶりに食べてみたい。その程度だったはずなのに、何度も失敗して記憶の味へ近づくほど、本物のカレーをもう一度食べたいという気持ちは強くなっていた。
抱き合って眠れば、ルーエももっと深く俺の感覚へ触れられるかもしれない。
けれど、いくら料理のためとはいえ、男女で抱き合って眠るのだ。
ルーエは何でもないことのように話していたが、耳が赤くなっていたのを見れば、まったく抵抗がないわけではないのだろう。
俺がカレーを食べたいというだけで、そこまで付き合わせていいものなのか。
向かいに座るルーエを見て、ふと思う。
これまで彼女は、俺が口にした言葉を勝手に別の意味へ置き換えず、そのまま受け取ってくれた。
だったら俺も、ルーエがどう思っているのかを勝手に決めず、本人に聞けばいい。
何も言わなければ、今朝断ったことを尊重して、ルーエの方からもう一度勧めてくることはないだろう。
俺は小さく息を吐いてから、口を開いた。
「……ルーエ」
「はい?」
匙を持っていたルーエの手が止まり、眠たげな瞳がこちらへ向く。
「ルーエは……俺と抱き合って寝るの、嫌じゃないのか?」
ルーエは一度、ゆっくりと瞬きをした。
「嫌ではありません」
迷いなく答えたあと、今度は逸らすことなく、しっかりと俺の目を見る。
「ただ……眠っている方のそばで手を握ることはあっても、誰かと一緒に抱き合って眠ったことはありませんので。少し、恥ずかしい気持ちはあります」
「そっか……それだけ?」
「はい。それだけです」
ルーエは迷うことなく、まっすぐにそう答えた。
その言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜ける。
嫌ではなく、ただ恥ずかしい。
そのくらいなら、俺と大して変わらない。
さっきまで一人であれこれ考えていたのが、少し馬鹿らしく思えるほど単純なことだった。
「じゃあ、お願いしても良いか?」
「よろしいのですか?」
「ああ。やっぱり、カレー食いたいからな。朝断ったのも、俺自身が恥ずかしかったのと……ルーエが少しでも嫌だと思ってるなら、俺が食べたいってだけの理由で無理に頼みたくなかっただけだ」
「そうだったんですね。お話しいただけて良かったです」
ルーエは小さく頷くと、ほんの少しだけ頬を緩めた。
「むぅ?」
足元にいたムムだけは、何の話をしているのか分からないらしく、俺とルーエを交互に見ながら首を傾げている。
俺はそんなムムの頭を撫でながら、もう一度小皿に残ったカレーもどきを口へ運んだ。




