第15話 夢抱の聖女
翌朝。
目を覚ました瞬間、鼻の奥へ香辛料の匂いが入り込んできた。
「……朝から濃いな」
まだ半分ほど眠ったまま、枕へ顔を埋める。
昨夜はソムニウムで眠らず、ラサールの町にある宿へ一人で泊まっていた。
この町を安住の地として考えるなら、実際に町の中で一晩過ごしてみた方がいいと思ったからだ。
宿そのものは悪くなかった。
寝台も柔らかく、部屋も清潔で、通りから少し離れていたおかげで夜は思っていたより静かだった。
フォルネアのように名前が広まることもなく、俺が勇者だと気づく者もいない。
ただ、朝になると事情が変わった。
市場ではもう香辛料を煎っているらしく、閉じた窓からでも甘さや苦さ、鼻を刺す匂いが入り込んでくる。
昨日は食欲を刺激した香りも、寝起きには少し重い。
「毎朝これか……」
暮らすなら、中心部から離れた方がよさそうだ。
「パンと卵だけでいいか」
朝食を軽く済ませ、宿を出る。
市場はすでに賑わい、荷車の麻袋から乾いた葉や種の匂いが流れてくる。
昨日は珍しさもあって楽しかったが、生活するとなると毎日これを嗅ぐことになる。
「食事はいい。匿名性も問題なし。でも、朝はちょっときついか……」
頭の中の評価へ一つ加え、町外れへ向かった。
ソムニウムのある場所へ近づくにつれ、香辛料の匂いは少しずつ薄くなり、代わりに草と土の匂いが戻ってきた。
宿の前ではルーエが洗濯物を干し、ムムが乾く前の布へ身体を擦りつけようとして止められていた。
「ムム。乾くまで触ってはいけません」
「むぅ……」
「朝から何してるんだ」
「お手伝いのつもりだったようです」
「それは手伝いなのか……」
「リヴェルさんは、よく眠れましたか?」
「ああ。宿自体は悪くなかったよ。夜も静かだったし」
「では、住む場所としてもよさそうでしょうか?」
「今のところはな。ただ、朝から香辛料の匂いがすごかった」
「ああ……」
ルーエは納得したように頷いた。
「市場の近くでしたら、朝から煎ったり挽いたりしていますものね」
「寝起きにあれはちょっと重いな。昨日はうまそうにしか感じなかったんだけど」
「毎日となると、また違うのかもしれませんね」
「そういうことだな」
俺が答えると、ルーエは干し終えた籠を持ち上げた。
「ところで、昨日の続きなんだけど」
俺が厨房の方へ目を向けると、ルーエもすぐに意図を察した。
「カレーですね」
「ああ。昨日のやつ、もう少し試してみたい」
「では、今日は香辛料の扱い方を変えてみましょうか」
「昨日言ってた、煎るやつか?」
「はい。あとは油に香りを移してから使ってみようかと思います」
「それで粉っぽさも減る?」
「完全には分かりませんが、昨日よりはよくなると思います」
「じゃあやってみるか」
洗濯物を片づけたあと、二人で厨房へ入る。
昨日使った香辛料の袋と、ルーエが書き残した配合の紙を作業台へ並べる。
俺は昨日と同じように野菜を切り、ルーエは香辛料を石臼で細かく挽いていく。
「丸葱は多めにして、長く炒めるんだったよな」
「はい」
「カレーって、そんな丁寧な料理だったかな……」
前世では箱から鍋へ入れるだけだった。
どれだけ完成品に助けられていたのか、今さら思い知る。
丸葱を弱火で炒めると、白から薄茶色へ変わり、甘い香りが強くなった。
別の小鍋では、油へ挽いた香辛料を加える。
じゅ、と音がした瞬間、昨日とは比べものにならない香りが立ち上った。
「おお……!」
反射的に顔を近づける。
「近いですか?」
「かなり。これだよ、こういう感じだった」
「では、昨日は香りを十分に出せていなかったのですね」
ルーエはすぐに紙へ書き加える。
炒めた丸葱へ肉と野菜を加え、香辛料を移した油も鍋へ入れていく。
昨日より色は濃くなり、匂いも明らかに記憶へ近づいていた。
「今度こそいけるんじゃないか?」
「まだとろみがありませんね」
「そこなんだよな」
「昨日、粉を使っていたかもしれないと仰っていましたが」
「ああ。たぶん……何かは入ってた気がするけど」
「何の粉でしょうか」
ルーエの疑問に答えられないまま、試作を見る。
香辛料の香りは一つにまとまり、丸葱の甘さも加わっている。
油を使ったことで口当たりも滑らかになり、粉っぽさもほとんど感じなくなっていた。
ただ、それでも違う。
「……うまいんだけどな」
「何が足りませんか?」
「それが……」
もう一口食べる。
味は近い。
匂いも近い。
色もそれらしくなってきた。
なのに、記憶の中にあるものとは何かが違う。
「もっと濃いというか……角がなくて、香辛料以外の風味も混ざってた感じなんだよ」
「乳脂肪でしょうか」
「それもありそうだな。あと、やっぱりもっととろっとしてたし、香りも良くはなってきてるんだけど……何か違うんだよな。今のは少し爽やかすぎるっていうか」
最初の試作よりずっと近いはずなのに、記憶の中にあるカレーには、もう少し重くて深い香りがあった気がした。
「爽やかすぎる、ですか」
ルーエも味を確かめるように一口含み、しばらく考えてから作業台に並んだ香辛料へ目を向けた。
「でしたら、こちらの香りが少し強すぎるのかもしれません。鼻へ抜ける香りは綺麗ですが、リヴェルさんの覚えているものがもっと重たいのでしたら、量を減らして、逆に煎った種や根の香辛料を増やした方が近づきそうです」
「そう言われると、そんな感じがする」
「それと、とろみですね。何か粉を使っていたのでしたら、その正体が分かれば大きく変わると思うのですが……」
「そこが一番分からないんだよな。ルーエに直接、俺の記憶を見せられたら楽なんだけどな」
何気なく零した言葉に、香辛料を混ぜていたルーエの手が止まった。
「……できなくはありません」
「ん?」
思わず顔を上げる。
ルーエは少し考えるように視線を伏せたあと、こちらを見た。
「記憶そのものを見ることはできません。ですが、眠っている時であれば、強く残っている感覚に触れることはできます」
「感覚?」
「はい。味や香り、温度、その時に感じていた気持ちなどです」
それなら、カレーを食べた時の味や匂いも拾えるかもしれない。
「そんなこともできるのか」
「正確には、いつでもできるわけではありません。眠っている方が感情や感覚は表へ出やすいので、その時に触れる必要があります」
「前に旅人を眠らせてた時の力と同じか?」
「近いものです。不安を預かる時も、相手の感情へ触れていますので」
そこでルーエは少しだけ間を置き、昔を思い出すように視線を落とした。
「ムムと出会う前は、その力を使って、眠っている間も悪夢に苦しめられている方の不安や恐怖を一時的に預かり、少しでも穏やかに眠れるようにするお役目をしていました」
「悪夢に苦しむ人を、休ませる……」
その言葉に引っかかるものがあり、遠い昔、勇者として各地を巡っていた頃に耳にした話を思い出した。
「そういえば……どこかの国で戦争が続いていた頃、兵士も市民も合わせて何万人もの眠りを支えて、士気を保ち、国を勝利へ導いた《夢抱の聖女》って人がいたって聞いたことがあるけど」
ルーエは少し困ったように眉を下げた。
「……かなり尾ひれがついていますが、はい。以前は、そのように呼ばれていました」
「やっぱりルーエのことなのか」
「私は皆さんが眠れるようにしていただけで、戦争を勝たせたつもりはないのですが……」
「いや、ちょっと待て。ルーエ、聖女だったのか?」
「はい。昔の話ですけど」
「それが今は、宿の店主……?」
「はい」
「そうか……。で、具体的にはどうするんだ?」
俺が話を戻すと、ルーエは少し意外そうに目を瞬かせた。
「何も聞かなくてよろしいんですか? これからすることを考えると、その力についてもう少し説明した方がいいと思うのですが」
「ルーエが話したくなった時でいいよ」
正直、聖女だったルーエがどうして今はソムニウムの店主をしているのかは気になった。
けれど、ルーエは俺が勇者だと知っても、その理由や王都を離れた経緯を何一つ聞いてこなかった。
俺自身がそうだったように、話したくないことや、まだ言葉にしたくないことがあるのかもしれない。
なら、今ここで無理に聞く必要はない。
ルーエがいつか自分から話したくなった時に、その時は聞けばいい。
「……そうですか」
ルーエは少しだけ目を伏せたあと、どこか柔らかく頬を緩めた。
「ありがとうございます」
「それで、前の客と同じように手を握ればいいのか?」
「うまくいけば、ですが」
「どうやるんだ?」
「眠っているリヴェルさんに触れさせていただきます」
「触れるって?」
「まずは、手を握るくらいで試してみるのがよいと思います」
「手を?」
「はい。眠っている間は、起きている時より感情や感覚が表へ出やすいので」
そう言われ、少し考える。
眠っている間に手を握られるくらいなら、それほど大したことでもない。
「それで分かるなら、試してみるか」
「よろしいのですか?」
「ああ。カレー食べたいし」
「分かりました」
ルーエは小さく頷いた。
結局、二度目の試作も完成には届かなかった。
だが、昨日よりは確実に近づいた。
そして今度は、俺自身の記憶から味を探すことになった。
まさかカレーを食べるために、元聖女の力まで借りることになるとは思わなかったが。




