第9話 月蝕の魔女
薄暗い森の中を、快斗とガイドは並んで歩いていた。
木々の隙間から差し込む月明かりが、足元をまだらに照らしている。
風が吹くたびに枝葉が擦れ、誰かが後ろからついてくるような音を立てた。
それでも、快斗は振り返らなかった。
右手はいつでも剣を抜けるように、腰の柄へ添えている。
以前のような浮ついた様子はない。
魔物を倒せば、現実の誰かを救える。
その意味を知り、夢世界での戦いは、快斗にとって単なるゲームではなくなっていた。
「快斗さんにとって――」
隣を歩いていたガイドが、静かに口を開いた。
「次のクエストは、最後の試練になるかもしれませんね」
快斗は足を止めかける。
「え?最後……?」
ガイドは前を向いたまま、歩き続けている。
いつものような冗談めいた言い回しではなかった。
快斗はその横顔を見つめた。
だが、問い返さなかった。
ガイドが答えるつもりなら、最初から説明している。
快斗は視線を前へ戻した。
やがて、木々の隙間から巨大な建物の輪郭が見え始める。
森の奥に隠されるように、一棟の洋館がそびえ立っていた。
◇
森を抜けた先。
月明かりの下に現れた館は、遠くから見た以上に巨大だった。
窓から漏れる明かりは一つもない。
外壁は黒い蔦に覆われ、ところどころ崩れ落ちている。
敷地を囲む鉄柵は赤黒く錆び、中央の門だけが、何かを閉じ込めるように固く閉ざされていた。
快斗は門の向こうにある館を見上げる。
「……ここか」
空気が重い。
館そのものが呼吸しているような、嫌な圧迫感がある。
「この中に、最後の魔物がいるんだな」
「はい」
「このクエストは、誰の願いなんだ。それとも絶望……?」
ガイドは館を見つめたまま答えた。
「間もなく、お分かりになりますよ」
その顔に、いつもの穏やかな笑みはなかった。
快斗は怪訝そうに横顔を見つめる。
「今日は、いつもと違うねぇ……」
短い沈黙。
ガイドは何も答えず、門へ手を触れた。
錆びついているはずの門が、低い音を響かせながら開いていく。
ガイドはそのまま敷地へ入り、館へ向かって歩き出した。
快斗も黙って、その背中を追った。
◇
二人は、館の巨大な玄関扉の前に立った。
近くで見ると、扉には無数の傷が刻まれている。
内側から爪を立てたような傷だった。
ガイドが快斗へ向き直り、片手を差し出す。
白い手のひらの上に、小さな光が生まれた。
「何ですか、それ」
「ここまで頑張った快斗さんへ、わたくしからの贈り物です」
「贈り物?」
問い返すより先に、光がガイドの手を離れた。
「うわっ」
光は快斗の胸へ吸い込まれる。
心臓の奥を冷たい指で触れられたような感覚が走った。
目の前に、半透明の表示が浮かぶ。
《ユニークスキルを獲得しました》
《命喰らい《ライフフォース・ドレイン》》
「命を……喰らう?」
続けて、スキルの説明が表示される。
《現実世界の生命力を使用し、レベルを最大まで上昇させます》
《使用者の寿命を消費します》
快斗は眉を寄せ、何度も表示を読み返した。
「要するに――」
喉がわずかに乾く。
「寿命と引き換えに、強くなるってことか?」
「おおむね、その認識で間違いありません」
「いやいや、使わないよ、こんなの!」
快斗は両手を振って拒絶した。
「何年減るのかも分からないんだろ? レベルを上げるために寿命を使うとか、割に合わなさすぎる」
ガイドは、何も言わずに快斗を見つめている。
「ただの贈り物ですから」
やがて、静かに告げた。
「《《使うかどうかは、あなた次第です》》」
重い音を立て、玄関扉が内側へ開き始める。
扉の向こうには、光の届かない暗闇が広がっていた。
「……参りましょう」
ガイドが先に館へ踏み込む。
快斗は、その背中を見つめた。
使うつもりはない。
そう自分へ言い聞かせ、《命喰らい》の表示を閉じる。
そして、ガイドを追って館の中へ入った。
◇
玄関ホールは、外から想像していたよりも広かった。
天井は見上げても闇に溶け、古びたシャンデリアが、風もないのに僅かに揺れている。
鎖が軋むたび、乾いた音が空間に響いていた。
快斗は周囲を警戒しながら、左手を開いた。
掌の上にステータス画面が現れる。
《プレイヤー名:鏑木快斗》
《職業:魔道剣士》
《レベル:47/99》
《HP:2350/2350》
《MP:4700/4700》
「レベル四十七……」
夢世界では、ゲームの攻略法だけでは勝てない。
そのことを知ってから、快斗はレベルを上げるために現実の身体を鍛えた。
走り、筋力をつけた。
机へ向かい、集中力も高めた。
以前の自分とは比べものにならない。
それでも。
半月にも満たない時間で埋められる差には、限界がある。
成人男性の平均がレベル五十。
今の自分は、ようやくそこへ手が届きかけているだけだった。
「はあ……」
快斗はステータスを閉じる。
これまでとは違う。
ここから先に、とんでもない敵が待っている。
それだけは、ガイドの態度からも分かった。
◇
長い廊下を進む。
壁には、古びた肖像画が何枚も並んでいた。
だが、描かれた人物の顔だけが、どれも黒く塗り潰されている。
快斗は鼻をひくつかせた。
「薬品みたいな匂いがする……」
湿った木材の匂いに混じって、消毒液を思わせる刺激臭が漂っている。
「館っていうより、廃病院みたいだ」
「そうですね」
ガイドは、それ以上何も言わなかった。
快斗は腰の剣へ手を添え、前後を警戒する。
「それに、ここ……」
耳を澄ませる。
物音一つしない。
「魔物がいない」
これまでのダンジョンなら、道中にも敵が現れた。
それなのに、館の中には何の気配もない。
静かすぎる。
まるで、館に存在するすべての悪意が、たった一か所へ集まっているようだった。
ガイドは前を向いたまま、歩き続けている。
快斗はその背中を見つめ、小さく息を吐いた。
今さら問い詰めても、答えは返ってこない。
二人の足音だけが、再び館内へ響いた。
◇
大階段を上っている途中、快斗の足が止まった。
踊り場の隅に、古い少女の人形が置かれている。
色褪せた白い服。
長い髪。
その片手には、剣を持った少年の人形が握られていた。
「……これ」
「どうかしましたか?」
「いや……」
何かが胸の奥に引っかかった。
だが、何を思い出しかけたのか分からない。
快斗は人形から目を離し、再び階段を上っていく。
二人の背中が遠ざかる。
その背後で。
少女の人形の首が、僅かに動いた。
そして、快斗の背中へ顔を向ける。
直後。
「あああああああっ!」
館の奥から、少女の叫び声が響いた。
快斗は勢いよく顔を上げる。
「今の叫び声……」
胸がざわつく。
聞いたことがある。
ずっと昔。
すぐ近くで。
だが、誰の声だったのか、今はまだ思い出せなかった。
◇
二階の廊下へ出ると、正面から冷たい風が吹き抜けてきた。
快斗の吐いた息が白くなる。
足元に薄い霜が広がり、床や壁を青白く染め上げていた。
快斗は剣を抜いた。
「近いな」
「はい」
廊下の先に、一枚の巨大な扉がそびえていた。
扉の中央には、黒く欠けた月の紋章が刻まれている。
快斗はその紋章を見つめ、息を呑んだ。
「……まさか」
ゲームで何度も見た。
氷に覆われた古城。
黒く欠けた月。
その奥で待つボス。
月蝕の魔女。
ゲーム内でも、高い魔法攻撃力と転移能力を持つ難敵だ。
◇
快斗は扉を見上げる。
「《《今の》》俺には、かなりの強敵だ」
「そうですか」
「『そうですか』じゃないんだけど……」
剣の柄を握る手に力が入る。
ガイドが、静かに尋ねた。
「それでも、進みますか?」
快斗はガイドを見る。
しかし、その表情から意図は読み取れない。
進むなと言っているのか。
それとも、覚悟を確かめているだけなのか。
快斗は扉へ向き直った。
「行くしかないでしょ……」
「……はい」
扉へ手を伸ばす。
指先が、冷たい扉へ触れる。
押し開けようとして、快斗は気づいた。
ガイドが動いていない。
「来ないのか?」
「わたくしは、ここまでです」
「どうして?」
ガイドは答えず、閉ざされた扉を見つめている。
「相変わらず、何も教えてくれないんですね」
「必要なものは、すでにお渡ししましたから」
【命喰らい】
快斗の脳裏に、先ほど獲得したスキルが浮かぶ。
「……そうか」
快斗は前を向いた。
剣を握り直す。
そのとき。
扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。
「……ねえぇ」
少女の声。
「あ……、遊ぼう……」
胸が強く脈打った。
「……今の声」
この声は。
快斗は振り返り、ガイドを見る。
ガイドは何も言わない。
ただ、静かに快斗を見つめている。
快斗は再び扉へ向き直った。
両手へ力を込め、巨大な扉を押し開ける。
隙間から、青白い光が差し込んだ。
◇
扉の先には、広大な大広間が広がっていた。
床も。
柱も。
壁も。
すべてが厚い氷に覆われている。
天井の一部は崩れ、そこから月明かりが差し込んでいた。
黒く欠けた月の下。
一人の少女が宙に浮かんでいる。
白い髪。
青白い肌。
装飾の少ない白いドレスは、病衣のようにも見えた。
整った顔は、苦痛に歪んでいる。
少女の背後には、欠けた月をかたどる巨大な魔法陣。
その手前には、五つの光の玉が弧を描くように浮かんでいた。
《BOSS》
《月蝕の魔女》
快斗は、魔女の顔から目を離せなかった。
白い髪も。
青白い肌も。
ゲームの中で見た魔女そのものだ。
それなのに。
その顔は。
「希……?」
声が震えた。
希が入院したのは、五年前。
当時の快斗は、すぐに治る病気だと思っていた。
少しの間だけ病院で過ごし、またすぐに家に戻るのだと。
何の根拠もなく、そう信じていた。
「希……なのか?」
魔女の瞳が、わずかに揺れた。
苦しそうに唇が動く。
「お、お兄ちゃん……」
快斗の目が見開かれる。
「希……!」
一歩、前へ出る。
「話せるのか?」
だが、次の瞬間。
「あああああああっ!」
魔女の瞳から、人間らしい光が消えた。
足元に青白い魔法陣が展開する。
無数の氷の矢が、魔女の周囲へ出現した。
「……!」
【アイスアロー】
氷の矢が一斉に放たれる。
快斗は反射的に床を蹴り、横へ跳んだ。
「くっ!」
直前まで立っていた場所へ、氷の矢が次々と突き刺さる。
砕けた氷と床石が飛び散った。
着地した快斗は剣を構える。
「希! 俺だ!」
呼びかけても、返事はない。
魔女は右手を軽く振った。
再び、青白い魔法陣。
無数の氷の矢が生まれる。
「連続で使えるのか!」
【アイスアロー】
【身体強化】
淡い光が快斗の全身を包む。
《MP 4700 → 4200》
脚へ力が満ちる。
快斗は一気に加速し、上体を横へ傾けて氷の矢をかわした。
続く矢を剣で弾く。
一本。
二本。
三本。
防ぎ切れなかった一本が、頬をかすめた。
「くっ……!」
切り裂かれた細い傷から血が流れる。
距離を詰めるしかない。
遠距離攻撃が主体なら、懐へ入ればこちらが有利だ。
快斗は氷の矢の隙間を駆け抜けた。
前へ。
横へ。
さらに前へ。
魔女との距離が縮まっていく。
床を強く蹴り、剣を振り上げた。
「はあああっ!」
刃が届く。
そう思った瞬間。
魔女の姿が、霧のように消えた。
「なっ!?」
剣が空を切る。
快斗の背後。
音もなく、魔女が現れる。
快斗は振り返った。
「転移……!」
白い髪が、冷気に揺れている。
魔女の周囲に、細かな氷の結晶が生まれ始めた。
「まずい!」
【ダイヤモンドダスト】
無数の氷の結晶が、一斉に弾けた。
快斗の視界が白く閉ざされる。
「うおおおっ!」
顔の前へ剣を構える。
結晶が刃へ激突し、甲高い音を立てた。
肩。
腕。
脚。
鋭い氷が装備を裂き、身体へ突き刺さる。
「ぐっ……防ぎ切れない!」
背中を丸め、頭と胸だけは守る。
ゲームより範囲が広い。
威力も違う。
結晶の嵐が止んだ。
血が、凍りついた床へ落ちる。
快斗は片膝をついた。
《HP 2350 → 1950》
その背後。
五つの光の玉のうち、一つだけが、僅かにその光が薄くなっていく。
快斗は剣を支えに立ち上がり、魔女を見る。
相変わらず、苦痛に耐えるような表情を浮かべている。
しかし。
ほんの一瞬だけ。
歪んでいた口元が、柔らかく緩んだ。
「……?」
その微笑みに、遠い記憶が重なる。




