第8話 願いと絶望
想定外のシャドウパンサーの動き。
快斗はそれに対応できず、地面を転がっていた。
《HP 1810 → 1070》
「ゲームとパターンが違う……!」
シャドウパンサーは、そのまま森の影へ溶けた。
姿が見えなくなる。
赤い目だけが、木々の間を素早く移動していた。
「追えば逃げる。止まれば背後を取る……」
快斗は周囲を警戒しながら呟く。
「厄介だな」
黒豹の姿へ、背後から女性のバッグを奪った男が重なる。
弱い相手を選び。
反撃されない場所から襲い。
危険を感じれば、すぐに逃げる。
「ゲームより、ずっと狡猾だな」
背後で空気が動いた。
快斗は振り返りざまに剣を構える。
黒い爪と刃が激突した。
火花が散る。
「ぐっ……!」
両腕が震える。
押し切られる前に、快斗は身体を捻り、地面を転がって距離を取った。
膝をつき、深く息を吸う。
頭の中に、これまでの日々が浮かんだ。
夜道を走った。
腕立て伏せをした。
机へ向かい、問題を解いた。
ゲームの攻略法が通じないなら。
快斗は剣を強く握り、立ち上がった。
現実で積み重ねた力で戦う。
シャドウパンサーが影から飛び出す。
快斗は身体を横へ滑らせ、すれ違いざまに剣を振った。
刃が黒豹の肩を切り裂く。
「腕力だけじゃ……勝てない!」
「ヴガァァアアアアッ!」
シャドウパンサーが咆哮する。
周囲の黒い霧が膨れ上がった。
そこから、同じ姿をした黒豹が次々と生まれる。
一体。
二体。
三体。
四方から赤い目が迫ってくる。
「こんな技、ゲームにはなかったぞ!」
一体目が飛びかかる。
快斗は剣で切り裂いた。
黒豹は影となって消える。
偽物。
二体目も斬る。
それも影だった。
次は。
背後。
そう気づいたときには遅かった。
本体の爪が、快斗の背中を切り裂いた。
「ぐあっ!」
血が石畳へ飛び散る。
《HP 1070 → 230》
《DANGER》
快斗は片膝をついた。
視界の端が赤く明滅している。
全身から力が抜けていく。
アイテム欄を開く。
《ハイポーション×1》
《ポーション×2》
指が、ハイポーションへ伸びる。
HPを二千五百回復する。
今使えば、完全に立て直せる。
だが。
快斗は一瞬だけ迷い、指を下へ動かした。
《ポーション》
身体が緑色の光に包まれる。
《HP 230 → 1230》
「ハイポーションではなくて、よろしいのですか?」
ガイドの声が聞こえる。
「これで十分だ!」
「そうですか」
シャドウパンサーが、ゆっくりと近づいてくる。
逃げ道を塞ぐように回り込み、低く唸る。
弱った獲物を前にして、勝利を確信している。
快斗は剣を杖にして立ち上がった。
「いいね……」
荒い息を整える。
「戦いは、これからだ」
これはゲームではない。
決められた攻撃パターンも。
確実に通用する攻略法もない。
シャドウパンサーが突進する。
快斗は直前まで動かなかった。
爪が届く寸前。
身体から力を抜き、最小限の動きで横へかわす。
黒豹の巨体が、勢いを止められず前へ流れた。
「力で勝てないなら――」
快斗は森へ向かって走り出す。
「頭を使う!」
木々の間を駆け抜ける。
シャドウパンサーが背後から追ってくる。
(速いっ……)
直線では絶対に逃げ切れない。
快斗は前方にある一本の大木へ向かった。
背後で地面を蹴る音。
黒豹が飛びかかってくる。
爪が届く直前、快斗は身を低くした。
巨大な爪が、快斗の頭上を通過する。
そのまま大木へ深く突き刺さった。
「ガアッ!」
シャドウパンサーの動きが止まる。
「速いだけじゃ、俺を捕まえられないぜ!」
快斗は振り返り、剣を振り下ろした。
刃が黒豹の背中を切り裂く。
黒い霧が噴き出した。
シャドウパンサーが暴れ、身体を振る。
「うわっ!」
快斗は弾き飛ばされ、地面を転がった。
《HP 1230 → 730》
剣が手から離れる。
石畳の上を滑り、数メートル先で止まった。
シャドウパンサーが大木から爪を引き抜く。
赤い目が快斗を捉えた。
再びの突進。
快斗は片膝をついたまま、黒豹を見据える。
「来いよ!」
シャドウパンサーが地面を蹴る。
巨体が一直線に迫る。
爪が届く寸前。
快斗は低く身を沈めた。
黒豹の身体が頭上を通過する。
快斗は立ち上がる勢いのまま、その腹部へ肩からぶつかった。
「おおおおっ!」
鍛えた脚で地面を踏みしめる。
巨体を止めることはできない。
だが、その軌道を僅かに変えることはできた。
シャドウパンサーが石柱へ激突する。
轟音。
古びた石柱が崩れ、瓦礫が黒豹の身体へ降り注いだ。
快斗は地面を転がりながら、剣へ手を伸ばす。
指先が柄へ届く。
強く握り、立ち上がった。
瓦礫が弾け飛ぶ。
シャドウパンサーが、傷だらけの身体で姿を現した。
快斗も剣を構える。
「終わりだ!」
地面を蹴る。
黒豹が爪を振り上げる。
快斗は身体を捻り、その内側へ潜り込んだ。
剣を両手で握る。
そのまま、シャドウパンサーの胸へ突き立てた。
刃が深く沈む。
静寂。
赤い目から、光が消えた。
巨大な身体が黒い霧となり、少しずつ崩れていく。
その霧の中に、一瞬だけ人影が浮かんだ。
黒いフードをかぶった男。
男は何かに追われるように背後を振り返り、頭を抱えている。
怯えているようにも見えた。
その姿も、すぐに黒い霧へ溶けて消えた。
快斗は剣を地面へ突き立て、倒れそうな身体を支える。
「はっ……はっ……」
全身が痛い。
呼吸をするたびに、背中の傷が疼く。
「お疲れさまでした」
ガイドが歩み寄ってくる。
「もう少し……心配そうな顔をできないのか?」
「とても心配しておりましたよ」
「ずっと笑ってたじゃん……」
「ふふ」
黒い霧が完全に消える。
快斗は周囲を見回した。
地面には何も落ちていない。
「今回はアイテムなし?」
「いいえ」
ガイドが両手を胸の前で重ねる。
その手の中へ、淡い光が集まり始めた。
光は次第に形を変え、小さな銀色の指輪となった。
中央には、青白い石が嵌め込まれている。
《生命循環の指輪》
《レア度:★★★★☆》
《装備者のHPとMPを徐々に回復する》
「自動回復……?」
「どうぞ、快斗さん」
「これ、かなり使えるアイテムじゃん!」
快斗は喜んで手を伸ばした。
しかし、ガイドはすぐには指輪を渡さなかった。
「……何だよ?」
「これは、魔物が落とした品ではありません」
「じゃあ、何なんだ?」
「あなたへの祝福です」
「祝福?」
ガイドは快斗を見つめた。
「ひったくり犯を追い、被害者の方を交番まで送り届けましたね」
指輪へ伸ばしていた快斗の手が止まる。
ガイドを見る目が鋭くなる。
「何で、それを知ってる?」
ガイドは問いには答えず、穏やかに微笑んだ。
「とても勇気ある行動でした」
「現実でのことも、見てるのか?」
「どうでしょう」
「またそれかよ」
ガイドは、快斗の手のひらへ指輪を置いた。
「これは、わたくしからのプレゼントです」
銀色の指輪は、見た目以上に冷たかった。
「大切にお使いください」
快斗は右手の中指へ指輪をはめた。
青白い石が、小さく瞬く。
指輪から淡い光が身体へ広がった。
荒かった呼吸が、少しずつ整っていく。
強張っていた肩からも、力が抜けた。
それでも、傷の痛みが完全に消えたわけではない。
だが、身体の奥から少しずつ力が戻ってくるのを感じる。
「これなら、もっと長く戦える」
「はい」
快斗は指輪を眺める。
「これ、あっちの世界でも使えたりしないかな」
現実でも体力が回復するなら、トレーニングがもっと楽になる。
ガイドは答えず、目を細めて微笑んだ。
「何だよ、その顔」
「トレーニングも、頑張ってください」
「急に何の話だ?」
足元へ光が広がる。
目覚めの時間。
「待て、聞きたいことが――」
快斗の視界が、白い光に染まった。
◇
目覚まし時計が鳴る。
快斗は布団の中から手を伸ばし、音を止めた。
その手を見て、動きが止まる。
右手の中指。
そこに、銀色の指輪が嵌まっていた。
「これって……」
快斗は飛び起きた。
「嘘だろ」
指輪を外し、手のひらへ載せる。
消えない。
光にもならない。
夢世界で触れたときと同じ冷たさが、指先へ伝わってくる。
「夢の物が、現実に……」
背中に残った傷。
父親からもらったボールペン。
そして今度は、夢世界で受け取った指輪そのものが、現実へ持ち込まれた。
二つの世界の境界が、さらに曖昧になっていく。
◇
学校の授業中。
快斗は右手の指輪を気にしながらも、黒板の内容をノートへ書き写していた。
以前よりも、集中が続く。
教師の説明も、途中で頭から抜けていかない。
「鏑木」
教師に名前を呼ばれ、快斗は顔を上げた。
「最近、ずいぶん授業に身が入っているじゃないか」
「先生、それ酷くないですか?」
教室に小さな笑いが起きる。
教師も、わずかに口元を緩めた。
「今までが今までだからな」
「否定できないのが悔しい……」
教室に、また和やかな笑いが広がった。
◇
その日の夜。
快斗はいつものように住宅街を走っていた。
五キロを超えても、呼吸はそれほど乱れていない。
「これなら、まだ走れそうだ」
右手の指輪が、街灯の光を反射する。
『トレーニングも、頑張ってください』
ガイドの言葉を思い出す。
「……ありがとな、ガイドさん」
快斗は小さく呟き、再び走り出した。
◇
「最近、ずいぶん身体を鍛えているそうじゃないか」
夕食の席で、父親が言った。
「まあねぇ」
快斗は照れを隠すように、ご飯を口へ運ぶ。
母親が快斗の茶碗へ、追加のご飯をよそった。
「勉強もしているのよね」
「一応……」
「進路希望調査票も、そろそろ書けそうか?」
父親の問いに、快斗の箸が僅かに止まる。
「それは……まだ」
以前のように、話を遮って席を立つことはしなかった。
快斗は机の上の銀色のペンを思い出す。
「でも、父さんにもらったペン、使いやすいからさ……。進路のことも、ちゃんと考えてみるよ」
父親が少し目を丸くした。
「……そうか」
口元が、ほんの僅かに緩む。
「そういえば」
母親が思い出したように言った。
「近所のひったくり犯、捕まったんですって」
快斗の箸が止まる。
「逮捕されたのか?」
父親が尋ねる。
「自分から交番へ来たそうよ」
「自首……?」
「どうしてあんなことをしたのか自分でも分からない、とにかく怖くて逃げたくて仕方なかった……って、ずっと怯えてたらしいわよ」
快斗は右手の指輪を見る。
頭の中に、黒い霧の中で消えていったフード姿の男が浮かぶ。
何かに怯えるように背後を振り返り、頭を抱えていた。
「ふーん、そうなんだ」
平静を装いながら、快斗は椅子から立ち上がった。
「もう食べないの?」
「ちょっと調べたいことがあるから」
「冷めちゃうわよ」
「あとで食べる」
快斗は食卓を離れ、自室へ向かった。
今度こそ。
偶然ではない。
◇
ベッドへ横になり、右手の指輪を見つめる。
「今度こそ、答えてもらうからな」
快斗は目を閉じた。
◇
目を開ける。
夜の草原。
森の前で、ガイドがいつもの笑顔を浮かべて待っていた。
快斗は目覚めると同時に問いかけた。
「教えてくれ!」
「何をでしょうか?」
「俺が倒しているものは何だ?」
「魔物のことですか?」
「それだけじゃない!」
風が草原を渡る。
ガイドの金色の髪が揺れた。
「父親の頭痛も、母さんの肩も、近所の人も、ひったくり犯も」
快斗は一歩、ガイドへ近づく。
「全部、俺が倒した魔物とつながってるんだろ?」
ガイドは、静かに目を閉じた。
少しの沈黙。
そして。
「《《人の願い》》と」
ガイドが目を開く。
「それを押し潰そうとする《《絶望》》です」
「願いと……絶望……」
快斗の頭に、これまでの光景が浮かぶ。
眉間を押さえる父親。
痛みなく肩を回し、笑っていた母親。
穏やかな顔で花へ水をやる近所の女性。
塀の上で眠る野良猫。
毛布を肩へ掛け、震えていた被害者。
黒い霧の中で怯えていた、フード姿の男。
「俺がここで戦えば」
快斗はガイドを見つめる。
「現実の誰かを助けられるってことか?」
「はい」
ガイドは、初めてはっきりと答えた。
快斗は右手の指輪を握る。
やはり、そうだった。
ゲームの中でいくら勝っても、現実は何も変わらない。
そう思っていた。
だが、この世界は違う。
ここでの戦いが、現実の誰かへ届く。
何もできなかった自分でも。
剣を握れば。
鍛えれば。
考えて戦えば。
誰かを救えるかもしれない。
快斗は剣の柄を強く握った。
迷いのない目で、森の奥を見据える。
「次は、誰の願いだ?」
ガイドが一瞬だけ目を見開いた。
やがて。
これまでよりも柔らかな笑みを浮かべる。
「それでは、参りましょうか」
「ああ」
快斗とガイドは、並んで歩き出した。
願いを押し潰そうとする、次の絶望へ向かって。




