第7話 今日のターゲット
「この世界の魔物は、現実と関係があるのか?」
ある夜。
快斗はガイドへ詰め寄った。
「どう思われますか?」
「関係あると思ってる」
快斗は即座に答える。
「父親の頭痛。母さんの肩。近所の人。それに、あの猫……」
ガイドは黙って聞いている。
「それと……」
快斗は目を細めた。
「《《あんたの目的は何だ》》?」
風が森の木々を揺らす。
ガイドの金色の髪が、静かになびいた。
「いずれ分かります」
「またそれか」
「それまで、しっかり頑張ってください」
「頑張れ……、か」
快斗は剣の柄へ目を落とす。
ガイドはそれ以上答えず、いつもの穏やかな笑みを返すだけだった。
◇
五キロを走り終えた快斗は、夜の住宅街を歩いていた。
「はあ……」
以前に比べれば、息が整うのも早くなった。
それでも、五キロを走り切った直後は脚が重い。
腕を振りながら歩いていると、前方から甲高い悲鳴が聞こえた。
「きゃあっ!」
快斗が顔を上げる。
歩道の上で、一人の女性が転倒していた。
その先を、黒いフードをかぶった男が走っている。
腕には、女性物のバッグ。
(ひったくり!)
快斗は考えるより先に駆け出した。
「待てー!」
男が振り返る。
一瞬だけ見えた目には、焦りも罪悪感もない。
獲物を抱えて逃げることだけを考えている目だった。
男は角を曲がり、暗い路地へ入っていく。
速い。
快斗も以前より走れるようになっていた。
だが、五キロを走った直後だ。
脚に疲労が残っている。
追いつけない。
「くそっ……!」
そのとき。
後方から、女性のか細い声が聞こえた。
「だ、誰か……」
快斗は足を止めた。
男が消えた路地を見る。
追えば、まだ間に合うかもしれない。
だが。
背後では、倒れた女性が助けを求めている。
快斗は拳を強く握った。
「……くそ!」
踵を返し、女性のもとへ駆け戻る。
「大丈夫ですか?」
女性は地面へ座り込み、肩を震わせていた。
転んだ際に勢いよく手をついたらしく、手のひらから血が滲んでいる。
快斗はしゃがみ込み、手を差し出した。
「立てますか?」
「は、はい……」
「交番まで一緒に行きましょう」
女性は震える手で、快斗の手を握った。
◇
交番の中。
快斗と被害に遭った女性は、並んで椅子へ座っていた。
女性は警察官から渡された毛布を肩へ掛け、震える手で自分の腕を抱いている。応急処置を施された手は、痛々しく包帯が巻かれていた。
「最近、この辺りで同じような事件が続いていてね」
警察官が机の上へ地図を広げた。
「今回、あなたが被害に遭われたのはここかな」
そう言って指し示した場所の周りには、すでに赤い印が複数つけられていた。
「夜、一人で歩いている女性ばかりを狙っているんだ」
「こんなに……」
「今夜で四件目だ。同一犯の可能性が高いな」
快斗は地図を見つめた。
犯人を追いかけた。
だが、捕まえられなかった。
自分がもっと速ければ。
もっと体力があれば。
そんな考えが頭から離れない。
「あ、あの……」
女性の声に、快斗は顔を上げた。
「ありがとうございました」
「俺は何もできませんでした」
バッグを取り返したわけではない。
犯人を捕まえたわけでもない。
結局、逃げられただけだ。
「そんなことはない」
警察官が快斗を見る。
「君がその場にいてくれたから、そして今こうして付き添ってくれたから、この人も落ち着いて話せているんだよ」
快斗は答えられなかった。
ただ、視線を落とす。
誰かの役に立ったと言われても、素直には喜べなかった。
犯人を逃した悔しさだけが、胸に残っていた。
◇
交番を出たあと。
快斗は、男が消えた路地の前で立ち止まった。
街灯の光が届かない、暗い道。
もし、あの男と正面から鉢合わせていたら。
快斗は自分の手を見る。
鍛えている。
以前よりも速く走れるようになった。
腕力も、体力もついてきた。
それでも、まだ普通の高校生にすぎない。
犯人が刃物を持っていたら。
殴りかかってきたら。
現実の自分では、勝てたかどうか分からない。
だが。
頭の中に、夢世界で握る剣が浮かんだ。
あの世界なら。
魔法も使える。
現実よりも強い身体で戦える。
そして、今までと同じなら。
あの男も、魔物として現れるのではないか。
◇
「おかえり。遅かったわね」
玄関を開けると、母親が台所から顔を出した。
「ひったくりに遭った人を、交番まで送ってた……」
「ひったくり?」
リビングにいた父親も、会話を聞いて玄関へ近づいてくる。
「お前、怪我はないか?」
「俺は大丈夫」
「犯人を追いかけたりしなかったでしょうね?」
母親の問いに、快斗は少しだけ視線をそらした。
「……少しだけ」
「もう」
母親は眉を寄せる。
「危ないことはしないで」
「無茶はするな」
父親も低い声で言った。
「分かってるよ」
◇
夕食後。
快斗は階段を上り、自室へ戻った。
そして、ベッドへ横になる。
机の上には、父親からもらった銀色のペン。
壁際には、最近買ったダンベルが置かれている。
快斗は天井を見つめた。
犯人が夢世界へ現れる保証はない。
今までの出来事だって、本当に関係しているのか、ガイドは教えてくれない。
それでも。
毛布を肩へ掛け、震えていた女性の手。
暗い路地の奥へ消えていく、黒いフードの男。
その二つが、何度も頭の中へ浮かぶ。
あいつは、きっと現れる。
その思いを胸に抱いたまま、快斗はゆっくりと眠りへ落ちていった。
◇
草の匂い。
頬を撫でる夜風。
快斗が目を開くと、目の前にガイドが立っていた。
「おはようございます、快斗さん」
「今日のターゲットは?」
快斗は挨拶も返さず尋ねた。
「まだ何も申し上げておりませんが」
「いるんだろ」
ガイドは少しだけ目を細めた。
「本日は、森の奥です」
「……そうか」
やはり。
快斗は剣の柄へ手を置いた。
◇
夜の森には、黒い霧が漂っていた。
地面を這うように流れ、木々の隙間へ消えていく。
快斗とガイドは、並んで森の奥へ進んだ。
木の幹には、深い爪痕が残されている。
時折、遠くで何かが走る音がした。
快斗が振り返る。
だが、そこには何もいない。
「速い……」
「お気をつけください」
「珍しく心配するんだな」
「いつも心配しておりますよ」
「笑顔で魔物の前に連れてくるくせに」
「ふふ」
ガイドの笑い声が、暗い森へ小さく響いた。
やがて、二人は石造りの広場へたどり着いた。
古びた石畳。
周囲を囲む崩れかけた柱。
その中央で、黒い霧が渦を巻いている。
霧の奥に、二つの赤い目が浮かび上がった。
「ヴルルルルル……」
低い唸り声。
快斗は剣を抜く。
黒い霧を突き破り、巨大な黒豹が飛び出した。
「ガアアアアアアッ!」
ゲームに登場する通常個体の三倍はある。
全身が黒い影に包まれ、頭部を覆う霧はフードのように揺れていた。
《BOSS》
《シャドウパンサー》
快斗は、その姿を見つめる。
「……こいつが、あの男か」
黒いフード。
獲物へ飛びかかるような姿勢。
そして、こちらの隙を窺う赤い目。
間違いない。
そう確信した瞬間、シャドウパンサーが地面を蹴った。
「ガアアッ!」
「速っ――」
一瞬で距離を詰められる。
快斗は反射的に剣を構えた。
爪と刃が激突する。
金属音のような鋭い音。
腕へ凄まじい衝撃が走った。
「ぐっ!」
身体ごと吹き飛ばされる。
快斗は石畳の上を転がり、剣を突き立てて止まった。
《HP 2150 → 1810》
「一発で三百以上……!」
シャドウパンサーはすぐに追撃しなかった。
少し距離を取り、快斗の周囲をゆっくりと回り始める。
頭を低くし、赤い目で快斗の足元から喉元まで見定めている。
まるで。
抵抗できない相手を選び、襲う場所を決めているようだった。
快斗は剣を構え直す。
「ゲームと同じなら、二回目の突進のあとに隙ができる」
シャドウパンサーが一度目の突進を放つ。
快斗は横へ跳び、爪をかわす。
すぐに黒豹が地面を蹴った。
二回目。
快斗はぎりぎりまで引きつけ、横へ避ける。
「ここだ!」
すれ違いざまに剣を振りかぶる。
しかし。
シャドウパンサーは空中で身体を捻った。
「なっ――」
鞭のようにしなる尾が、快斗の脇腹を打ち抜く。
「がっ……!」
呼吸が止まる。
快斗は地面を転がった。




