第6話 現実と夢世界
夜の住宅街を、快斗は走っていた。
「はっ……はっ……!」
ジャージの背中は汗で濡れ、呼吸をするたびに喉の奥が焼けるように痛む。
足も重い。
少し前までなら、とっくに歩いていた。
それでも、快斗は速度を落とさなかった。
腕時計へ視線を落とす。
《4.8km》
あと少し。
前方に見える街灯を目印に、腕を強く振る。
夢世界へ入るようになって、十日。
その間、快斗は一つの法則に気づいていた。
腕時計の数字が変わる。
《4.9km》
「くっ……!」
歯を食いしばり、最後の直線を駆け抜ける。
肺が空気を求めて悲鳴を上げる。
脚は今にも止まりそうだった。
それでも、もう一歩。
さらに一歩。
そして。
《5.0km》
「っしゃ……!」
快斗は走るのをやめ、両膝へ手をついた。
汗が顎を伝い、アスファルトへ落ちていく。
苦しい。
今すぐ地面へ寝転びたい。
だが、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
現実での努力は、夢世界での強さへ反映される。
それはもう、間違いなかった。
◇
「四十八……四十九……!」
自室の床へ両手をつき、快斗は震える腕を曲げる。
「ごじゅ……っ!」
身体を持ち上げようとしたところで、腕から力が抜けた。
そのまま床へ倒れ込む。
「もう無理……!」
頬を床につけたまま、荒い呼吸を繰り返す。
腕が熱い。
肩も胸も、引き千切れそうなほど痛んでいる。
その夜。
夢世界の森で剣を振った瞬間、快斗は違いを感じた。
刃が空気を裂く。
以前よりも速い。
踏み込んだ足もぶれない。
そのまま木製の標的へ剣を振り下ろす。
乾いた音とともに、標的が真っ二つに割れた。
「……軽くなってる」
剣が軽くなったわけではない。
踏み込んだ足がぶれず、振り抜いた腕にも力が乗って。
快斗の身体が、剣の扱いに馴染んでいく感覚だ。
それから、身体を鍛えることが快斗の日課になった。
腕立て伏せに、スクワット、腹筋。
夜になれば住宅街を走り、少しずつ回数と距離を伸ばしていく。
すぐに劇的な変化が起きたわけではない。
それでも、夢世界へ入るたびに、ステータスの数字は確かに上がっていた。
《HP 1850 → 1900》
夢世界で魔物を倒しても、レベルは上がらない。
現実の自分が成長しなければ、夢世界の自分は強くならない。
面倒な仕組みだった。
だが。
努力した結果が、目に見える数字として表れる。
それは思っていた以上に楽しかった。
◇
運動だけではない。
快斗は、久しぶりに勉強机へ向かっていた。
机の上には、学校から出された課題。
その横には、父親からもらった銀色のボールペン。
快斗はペンを手に取り、気だるそうに問題文を読んだ。
「面倒くさ……」
分からなければ、明日学校で誰かに聞けばいい。
そう考えながら、適当に答えを書き始める。
しかし。
一問。
もう一問。
ペンを走らせているうちに、いつの間にか姿勢が変わっていた。
椅子へ深くもたれていた背中が伸びる。
問題文へ顔を近づけ、途中式をノートへ書き込む。
「あれ……?」
気がつけば、一時間近く経っていた。
普段なら、集中が切れて十分も続かなかったはずだ。
父親にもらったこのペンを使うと、不思議と集中できる。
その影響は、夢世界にも現れた。
《MP 3700 → 3800》
「順調ですね」
隣に立つガイドが、嬉しそうに微笑んでいる。
「最初から説明してくれてもよかっただろ」
快斗はステータス画面を閉じながら言った。
「ご自身で気づかれた方が、身につきますので」
「先生みたいなこと言うなっ」
「ふふ」
ガイドはいつものように、口元へ手を添えて笑った。
快斗は左手を開き、もう一度ステータス画面を表示させる。
《プレイヤー名:鏑木快斗》
《職業:魔道剣士》
《レベル:38/99》
《HP:1900/1900》
《MP:3800/3800》
「なあ……」
快斗は表示された数字を見ながら尋ねた。
「結局、このレベルって何の意味があるんだ?」
ガイドは人差し指を頬へ添え、少しだけ首を傾げる。
「努力の目安でしょうか」
「雑だな!」
「分かりやすいと思いますが」
「まあ、単純な仕組みではあるな」
快斗は呆れながらも、レベル三十八という数字を見つめた。
十日前は二十三だった。
現実で身体を動かし、机へ向かい、少しずつ積み上げた結果だ。
「要するに、現実の俺自身が成長しないと、レベルも上がらないってことか」
「ご理解が早くて助かります」
ガイドは満足そうに頷いた。
そして、森の奥を指差す。
「本日の魔物が、お待ちです」
「よし!力試しといきますか」
快斗はそう言いながら、剣の柄へ手をかけた。
◇
「ブオオオオオッ!」
森を揺らすような咆哮とともに、巨大な棍棒が振り下ろされた。
快斗は横へ跳ぶ。
直後、地面が大きく砕けた。
土と小石が舞い上がる。
棍棒を振り下ろしたのは、快斗の倍以上はある巨大なオークだった。
頭には不釣り合いなほど派手な王冠。
分厚い腕。
丸く突き出した腹。
そして、肩が異様に膨れ上がっていた。
《BOSS》
《オークキング》
快斗は剣を構えながら、その顔を見た。
垂れた目尻。
柔らかく丸みのある頬。
何となく見覚えがある。
「……こいつ、母さんだろ!」
「どうでしょう」
少し離れた場所で、ガイドが微笑んでいる。
「似すぎなんだよ!」
オークキングが再び棍棒を振り回す。
快斗は身を低くして攻撃をかわし、そのまま懐へ潜り込んだ。
以前なら、巨大な棍棒の風圧だけで体勢を崩していたかもしれない。
だが、今は違う。
踏み込んだ足が地面を捉える。
頭上に大きく剣を振り上げた。
一閃――。
きらめいた銀閃が、オークキングの分厚い胴体を肩から縦一文字に切り裂く。
「ブオ……ッ!」
巨体が動きを止める。
次の瞬間、その身体は黒い霧となって崩れていった。
目の前に文字が浮かぶ。
《BOSS CLEAR》
「よし」
剣を振り、刃についた黒い霧を払う。
オークキングが消えた場所に、赤い液体の入った小瓶が落ちていた。
《ハイポーション》
《レア度:★★★☆☆》
《HPを2500回復する》
快斗は小瓶を拾い、光へ透かして見る。
「今の俺には、完全回復アイテムだな」
「おめでとうございます」
快斗は小瓶を軽く振ってみる。
中の緑色の液体は、エメラルドグリーンの光を放ち、ゆらりと揺れた。
「夢なのに、本当に手に入れた気分になるな」
「そうかもしれませんね」
「……その言い方」
快斗は苦笑しながら、小瓶をアイテム欄へ収納した。
強力な回復アイテムだ。
◇
翌朝。
母親が食卓の前で、不思議そうに肩を回していた。
「どうした?」
新聞を読んでいた父親が顔を上げる。
「肩が軽いの」
母親はもう一度、腕を大きく回した。
「最近、ずっと痛かったのに」
快斗の箸が止まる。
母親は何度か肩を動かし、痛みがないことを確かめると、嬉しそうに目を細めた。
「久しぶりに、ぐっすり眠れたからかしら」
「それならよかった」
父親はそう言い、再び新聞へ目を戻した。
母親は快斗に向かって笑った。
「今日はチーズケーキを買ってくるわね」
「急だなぁ」
「快斗も好きでしょう?」
「まあ、好きだけど」
快斗は、肩を回しながら笑う母親を見つめた。
昨夜倒したオークキング。
母親に似た顔。
そして、消えた肩の痛み。
(偶然?)
◇
それからも、似たようなことは続いた。
夢世界で、叫び続けるキメラと戦った。
つり上がった眉。
苛立ちを隠そうともしない目。
「こいつも、どこかで見た顔だな……」
翌朝。
自宅の前では、いつも不機嫌そうに歩いている近所のおばちゃんが、穏やかな顔で花へ水をやっていた。
「あら、快斗君。おはよう」
「あ……おはようございます」
普段なら挨拶をしても、聞こえないふりをされる。
それなのに、その日は向こうから声をかけてきた。
別の日には、荒れ狂うグリフォンと戦った。
「ギャオオオオォォォッ!」
「ゲームじゃ雑魚だったじゃねえか!」
爪と剣が、何度も激突する。
予想以上に力が強く、快斗の肩が切り裂かれた。
現実へ戻ったあとも、その場所には鋭い痛みが残っていた。
登校途中、塀の上に野良猫がいるのを見つけた。
いつもは毛を逆立て、人が近づくだけで威嚇していた猫だ。
その日は、穏やかな日差しの中で気持ちよさそうに眠っていた。
快斗は痛む肩を押さえながら、猫を見つめる。
夢の魔物を倒すたびに。
現実の何かが、少しずつ変わっている。
ただの気のせいではない。
もはや、そう思い始めていた。




