第3話 本日のダンジョン
チョークの音だけ響く、静かな教室。
午前の授業。
教師が黒板へ数式を書いている。
快斗は頬杖をつき、窓の外を眺めている。
雲一つない青空。
昨夜見た草原の空に、よく似ていた。
夢だよな。
何度考えても、それ以外の答えは出ない。
けれど、あの剣の重さ。
スライムを斬ったときの感触。
風の匂い。
どれも、普通の夢とは思えないほど鮮明だった。
「鏑木」
名前を呼ばれても、快斗は反応しない。
教師が教科書で教壇を叩いた。
「鏑木快斗!」
「は、はい!」
快斗は勢いよく立ち上がった。
教師が眉をつり上げている。
「お前、授業を受ける気はあるのか?」
「……一応」
教室に小さな笑いが起きた。
「一応では困る!」
「すみません」
「それから、進路希望調査票」
その言葉に、快斗の表情がわずかに曇る。
「まだ提出していないのは、お前を含めて三人だけだぞ」
「……明日、持ってきます」
「昨日もそう言っいたが!」
再び教室から笑い声が上がった。
快斗は後頭部をかきながら席へ座る。
担任はため息をつくと、黒板へ向き直り、授業を再開した。
だが、その後の授業も快斗の頭にはほとんど入ってこなかった。
進学するのか。
就職するのか。
そもそも、自分が何をしたいのか。
考えたところで、何も浮かばない。
ゲームのように、最初から職業と能力が決められていれば楽なのに。
いっそのこと、ニートでもいいんじゃないか。
ゲームをして、眠くなったら寝る。
そんな生活ができたら――。
そこまで考えて、快斗は窓の外へ目を向けた。
◇
午後の体育では、短距離走が行われた。
快斗は全力で走った。
極端に遅いわけではない。
しかし、身体は思うように動かなかった。
足は重く、呼吸もすぐに乱れる。
ゴールすると同時に、快斗は膝へ手をついた。
「お前、体力なさすぎ」
クラスメイトが呆れたように笑いながら近づいてくる。
「寝不足なんだよ」
「毎日ゲームばっかりやってるからだろ」
「ひ、否定はしない」
快斗は荒い息を整えながら答えた。
クラスメイトは少し考え、快斗の顔を覗き込む。
「でも、お前、小学校の頃は足速かったよな」
その言葉に、快斗の表情が止まった。
一瞬。
遠い記憶が蘇る。
小学校の運動会。
土のグラウンドを走る、自分の小さな身体。
周囲の声を置き去りにして、先頭を駆け抜けていた。
観客席から、小さな声が聞こえる。
『お兄たん、がんばれー!』
小さな手を懸命に振る少女。
その顔を思い出す前に、快斗は記憶を閉じた。
「部活でも入れば?」
クラスメイトの声に、現実へ引き戻される。
「高三から入る奴なんていないだろ」
「身体を動かせって意味だよ」
「今さらいいよ」
快斗は苦笑して立ち上がった。
昨夜の自分は、あんなにも軽く動けた。
スライムの攻撃をかわし、剣を振り抜いた。
けれど現実の自分は、短い距離を走っただけで息を切らしている。
その差が、妙に引っかかった。
◇
「ただいまー」
夕方。
快斗は力のない声で帰宅した。
「おかえり」
台所から母親の声が返ってくる。
快斗は靴を脱ぎ、そのまま自室へ向かおうとした。
「あ、快斗!」
母親が台所から顔を出す。
「今度の日曜日、希のお見舞いに行くんだけど」
階段へ向かっていた快斗の足が、一瞬止まった。
「たまには、一緒に行かない?」
「あー……」
快斗は母親と目を合わせないまま、片手を上げた。
「俺はいいよ」
「そう……」
母親の眉がわずかに下がる。
快斗はそれ以上何も言わず、階段を上り始めた。
数段上ったところで、足が止まる。
幼い少女が、自分の服の裾を握っている。
『お兄たん、待って』
そんな記憶が、頭の中をよぎった。
快斗は手すりを握り、階段の上を見つめる。
(希……)
最後に会ったのは、いつだっただろう。
思い出そうとすると、胸の奥が妙に重くなる。
快斗は振り返らなかった。
そのまま、再び階段を上っていった。
◇
夜。
四人掛けの食卓を、三人で囲んでいた。
父親。
母親。
快斗。
そして、一脚だけ、誰も座っていない椅子が残されている。
快斗は視線を上げず、黙々とご飯を口へ運んでいた。
「快斗」
父親が箸を止める。
「ん?」
「お前、進路どうする気だ?」
「まだ……」
父親の眉が寄った。
「もう高校三年だぞ」
「分かってるよ」
「分かっているなら、ゲームばかりしていないで――」
父親が突然、眉間を押さえた。
「……痛っ」
「また頭痛?」
母親が心配そうに身を乗り出す。
「大丈夫だ」
快斗の箸が止まる。
父親の顔を一度だけ見る。
父親は軽く首を振り、話を戻そうとした。
「とにかく、自分の将来なんだから――」
「ごちそうさま」
快斗は残っていたご飯を口へ運び、立ち上がった。
「おい、快斗!」
父親の声を背中で聞きながら、食器を流し台へ置く。
母親も快斗に何か言おうとして、結局、口を閉じた。
◇
自室へ戻った快斗は、いつものようにパソコンの前へ座った。
画面には『Beyond Prayer II』のアイコンが並んでいる。
マウスを動かし、カーソルを重ねる。
クリックしようとした指が止まった。
昨夜までは、何の迷いもなく起動していた。
画面の中でキャラクターを動かし、敵を倒す。
それだけで、現実を忘れられた。
けれど。
今は、右手に別の感触が残っている。
自分で剣を握った。
自分の足で踏み込み。
自分の腕で振り抜いた。
「……夢だったのか」
快斗はマウスから手を離した。
「あれは、夢なんかじゃない」
右手をゆっくりと握る。
「俺が、自分で斬った」
『快斗さんは、眠るたびにこの世界を訪れます』
ガイドの声が蘇る。
机の時計を見る。
午後九時六分。
次に、ベッドを見る。
「……寝れば、行けるのか?」
誰に聞かせるでもなく呟く。
(確かめるだけ)
何に対して言い訳しているのか、自分でも分からない。
快斗はパソコンの電源を落とし、椅子から立ち上がった。
そのまま布団へ潜り込み、目を閉じる。
しかし。
「……眠れねえ」
目を開ける。
時計は午後九時三十分。
寝返りを打つ。
布団を頭まで被る。
もう一度目を閉じる。
次に時計を見ると、午後十時三十七分になっていた。
「眠ろうとすると、眠れないの何なんだよ……」
快斗は枕へ顔を埋めた。
早く眠りたい。
夢の続きを見たい。
そう意識するほど、目が冴えてしまう。
何度か寝返りを繰り返すうちに、やがて思考が少しずつぼやけ始めた。
時計の秒針の音が遠ざかっていく。
身体が沈む。
意識が暗闇へ落ちていく。
そして。
前回と同じ、浮遊するような感覚が訪れた。
快斗は暗闇の中で確信する。
来る。
◇
ゆっくりと目を開く。
今度は、草の上に横たわってはいなかった。
快斗は両足で、しっかりと地面に立っている。
「本当に来れた……」
目の前には、昨夜と変わらない穏やかな微笑みを浮かべたガイドがいた。
「お待ちしておりました」
快斗は自分の身体を見る。
防具。
腰の剣。
昨夜と同じ姿だった。
「いや、本当に来れるんだな……」
「契約ですので」
「その言葉、便利に使いすぎだろ」
快斗は呆れながら周囲を見渡した。
そこで、ようやく異変に気づく。
ここは、昨夜の草原ではない。
薄暗い、巨大な石造りの大広間。
見上げても、天井は高く闇に隠れてよく見えない。
左右には太い石柱が並び、壁にかけられた松明が弱々しく揺れていた。
大広間の奥には、すべてを飲み込むような暗闇が広がっている。
快斗の頬が引きつる。
「ここ、どこ?」
ガイドは両手を身体の前で重ねた。
「それでは、本日は最初のダンジョンをご案内いたします」
「えっ……ダンジョン?」
暗闇の奥。
二つの赤い光が、ゆっくりと浮かび上がった。




