第7話 沈んだ観測船
未明の海は、息を殺していた。
陸の調査艇は港を離れ、灯台の光の届かない北の海域へ進んだ。船首に当たる波だけが青く散り、星潮の筋が航跡をゆっくり閉じていく。源三は操船席で黙っていた。灯は潜水服の留め具を何度も確認する。
「無理だと思ったら上がる」
陸が短く言った。
「命令ですか」
「助言です」
「助言なら聞きます」
源三が鼻を鳴らした。緊張で固まっていた灯の肩が少し緩む。
座標に着くと、陸は探査ドローンを降ろした。画面には暗い海底が映る。砂の上に金属片が散らばり、やがて船体の一部が見えた。観測船「しらなみ」。灯はその名を見た瞬間、喉の奥が詰まった。
兄が最後に乗った船だった。
公式記録では、しらなみは南の浅瀬で座礁し、その後沈没したことになっている。けれど画面の船体は、北の深場で横倒しになっていた。船腹には外から押し潰されたような傷があり、周囲には暁環の破片らしい黒い板が刺さっている。
「事故調査報告と違う」
陸の声は硬かった。
灯は潜水ヘルメットをかぶった。
「船内に入ります」
「灯」
「兄の記録を探す」
海に入る瞬間、体が拒んだ。冷たさではない。八年間、岸から見ていた海が、ようやく灯の胸倉をつかんだのだ。
それでも潜った。
海底のしらなみは、眠っている獣の骨のようだった。ライトを向けると、窓の内側で星潮がゆらめく。船内には魚が入り込み、計器盤には白い貝がついていた。灯は操舵室の壁に手を当てる。
――おまえが泣くと計器が曇る。
兄の冗談が耳の奥で蘇る。灯は曇ったマスクを拭い、船長席の下を探った。父の地図にあった非常記録装置は、そこにあるはずだった。
あった。
小さな黒い箱は固定具ごと歪んでいたが、まだ原形を留めている。灯が手を伸ばした瞬間、船体の奥で光が走った。星潮が一斉に集まり、人影のような輪郭を作る。
海里に見えた。
灯は水中で息を呑み、酸素警告が鳴った。人影は手を上げ、操舵室の外を指した。そこには破れた隔壁があり、さらに奥へ続く暗い通路が見える。
「灯さん、酸素残量が少ない。戻って」
陸の声が通信に入る。
灯は記録装置をつかんだ。人影はまだ奥を指している。行きたい。兄が呼んでいる。けれど春の顔、父の貼り紙、奈津の怒った顔が頭をよぎった。
灯は奥へ行かなかった。
海面へ上がると、肺が燃えるようだった。源三が腕をつかみ、船へ引き上げる。陸はすぐに記録装置を受け取り、防水ケースへ入れた。
「よく戻りました」
「褒められると腹が立つ」
「生きて戻った人を褒めるのは、僕の趣味です」
灯は笑う力もなく甲板に座り込んだ。
東の空が薄く明るくなる。星潮の光が消えていく海の下で、観測船は嘘の場所に沈んでいた。
兄はまだ、何かを指している。




