第6話 潮ノ島の地図
海へ出る前に、灯は島の地図を広げた。
灯台の作業机に残されていた紙の地図は、父の書き込みで埋まっていた。赤は高潮時に沈む道。青は星潮が濃く流れる入り江。緑は老人が歩ける避難路。黒い点は、ひとり暮らしの家。
沿岸データ局で使っていた電子地図より、ずっと雑で、ずっと正確だった。
「お父さん、全部歩いて記録したんだ」
叶美汐が地図を覗き込んだ。漁協で働く彼女は灯より二つ下で、子どもの頃は兄の後ろを走り回っていた。いまは祭りの段取りも、漁港の補助金書類も、ほとんど彼女が背負っている。
「低地の家は来年までに移転したほうがいい。役場もそう言ってる」
「移転先は本土の団地。船を持てない漁師は漁師じゃなくなる」
美汐は地図の端を指で押さえた。爪に魚網の傷がある。
「残りたい人と、もう無理だって人が半分ずつ。灯台が動いてる間は、まだ島で暮らせるって皆思ってた。だから撤去の話を聞いて、怒る人より先に黙る人が増えた」
灯は地図の黒い点を見た。父は一軒ずつ訪ねていたのだろう。夜、星潮の濃い海を見ながら、誰をどの道へ逃がすか考えていたのだろう。
自分はその間、都市の冷房の効いた部屋で、潮ノ島をモデルケースの一つとして処理していた。
春が机の反対側から地図を見つめていた。奈津の許可をもらい、短い時間だけ灯台へ来ている。彼は低地の端、すでに海へ沈んだ旧小学校のあたりを指した。
「ここ、知ってる気がする」
「春くん、島に来たことがある?」
「分からない。でも、鐘の音がする。水の中から」
陸が顔を上げた。
「旧小学校の防災鐘ですか」
美汐が首を振る。
「小学校の鐘は撤去済み。沈んだのは、もっと古い航路鐘。霧の日に鳴らしてたって、じいちゃんが言ってた」
源三を呼ぶと、彼は地図を見るなり渋い顔をした。
「海底の鐘か。あれは近づかんほうがいい」
「なぜですか」
「暁環が落ちた夜、海里の船が最後に向かったのがそこだ。星潮が濃すぎて、機械も羅針盤も狂った。わしは止めた」
源三の声が小さくなる。
「だが海里は、灯台が呼んでると言った」
灯の胸が冷えた。兄は何を聞いたのか。自分が昨夜聞いたような声を、あの夜も聞いたのか。
春は地図から手を離し、申し訳なさそうに灯を見た。
「ぼくのせいで、嫌なこと思い出す?」
「違う。思い出さなかった私のせい」
言ってから、灯は自分で驚いた。逃げていたことを、こんなに短く認められるとは思わなかった。
灯は地図を丁寧に畳み、作業鞄へ入れた。
「明日、観測船の沈没地点へ行く。鐘の場所はその後」
源三が腕を組んだ。
「海は答えをくれるが、欲しい形とは限らんぞ」
「知っています」
「なら、わしの古い潜水具を持っていけ。知っとる者が怖がるのは、海への礼儀だ」
灯はうなずいた。潮ノ島の地図は、ただの土地の形ではなかった。残る人、去る人、沈んだ場所、まだ灯が届く場所。そのすべてが、父の線でつながっていた。
灯は初めて、灯台を守るという言葉の重さを少しだけ理解した。




