第4話 死者の声
春は自分の名字を覚えていなかった。
診療所のベッドで粥を食べながら、少年は何度も「春」とだけ名乗った。どこから来たのか、誰と船に乗っていたのか、なぜ記録核を握っていたのか。質問のたびに瞳が曇り、やがて頭痛で顔を伏せる。
「無理に聞かない」
奈津は灯の手を軽く叩いた。
「でも、あれは暁環の記録核かもしれない」
「子どもより機械が先?」
灯は黙った。奈津の言う通りだった。けれど兄の声を聞いた耳が、黙っていてくれない。
春は布に包まれた記録核を胸元へ抱いたまま、灯を見た。
「これ、取られる?」
「取らない。調べたいだけ」
「調べたら、ぼくが誰か分かる?」
「分かるかもしれない」
春は長く迷った後、記録核を差し出した。灯は両手で受け取る。外殻は海水に濡れても傷ひとつなく、内側で細い光が呼吸しているように脈打った。
灯台の制御室へ持ち込むと、陸が端末の配線を調べていた。灯を見るなり、彼は記録核へ目を留める。
「それをどこで」
「拾いました」
「嘘が短い」
「あなたに本当のことを言う義務はありません」
陸はため息をつき、工具を置いた。
「その規格は一般流通していません。暁環の中枢記録か、オリオン海洋の研究品です。無理に読めば焼ける」
「読めるんですね」
「読めるとは言っていない」
「焼けると知っているなら、読んだことがある」
陸は負けを認めるように眼鏡を外した。
「星潮灯台の送信器なら低出力で開ける可能性があります。ただし、記録の所有権は」
「死んだ人の声にも所有権があるんですか」
制御室に沈黙が落ちた。
灯は記録核を接続台へ置いた。陸は止めなかった。代わりに端末の出力を手早く絞り、過負荷を避ける回路を組んだ。指先は正確で、機械に触れるときだけ彼の顔から役所の影が消える。
送信器が低く唸った。灯台の床下で古いコイルが目を覚ます。記録核の光が伸び、制御室の壁へ青い波紋を描いた。
『灯、もしこれを聞いているなら、まず怒るな』
兄の声だった。
灯は息を忘れた。陸も手を止める。
『怒るなと言って怒らなかったことがないのは知っている。でも時間がない。暁環の落下は事故だけじゃない。灯台を閉じるな。星潮はまだ、誰かを運んでいる』
音声はそこで途切れた。代わりに、短い座標列が画面へ流れる。
陸が顔色を変えた。
「これは旧観測船の最終位置だ」
「兄が乗っていた船?」
「公式記録では沈没地点が違う」
灯は壁に手をついた。死者の声は、慰めではなかった。八年遅れで届いた告発だった。
窓の外で、昼の海が一瞬だけ青く光った。




