第2話 漂着した少年
少年は、東の磯で見つかった。
灯が駆けつけたとき、診療所の朝倉奈津が膝をついて少年の脈を取っていた。波打ち際には割れた救命筏がひっくり返り、青白い星潮がその縁を舐めている。少年は十二歳くらいに見えた。濡れた髪が頬に張りつき、右手には透明な卵のような記録核を握りしめている。
「低体温。外傷は浅い。灯、毛布」
奈津の声で灯は我に返った。港から持ってきた毛布で少年を包む。触れた指先が驚くほど冷たかった。
「名前、言える?」
少年のまぶたが震えた。唇が動く。
「……はる」
「春くん?」
少年は小さくうなずいた。それきり力尽きたように目を閉じる。記録核だけは離さなかった。
源三が海を睨んだ。
「沖の避難筏だな。だが番号が削られとる。まともな登録艇じゃない」
「密航?」
「さあな。最近は星潮を掬う連中もいる。データが金になると思っとる都会者だ」
灯は少年の手元を見た。透明な核の中に細い光が沈んでいる。かつて暁環の観測機器に使われた高密度記録体に似ていた。けれど家庭用でも研究用でもない。外殻に刻まれた識別子は、海水で削れたのではなく、最初から消されている。
診療所へ運び込まれた春は、夜明け前に熱を出した。奈津は点滴をつなぎ、灯へ椅子を顎で示した。
「目を離さないで。私は薬を取りに行く」
「私、医者じゃない」
「灯台守でしょ。灯を見るくらい得意になって」
奈津は幼なじみらしい雑さで言い捨て、奥へ消えた。
灯は春の枕元に座った。島の診療所は昔と変わらない。白い壁、薬品棚、雨戸の隙間から入る潮の匂い。兄が怪我をするたび、母がここへ連れてきた。海里は包帯を巻かれながらも笑っていた。灯が泣くと、いつも「灯台みたいな顔をしろ」と言った。遠くを見る顔、怖がっても消えない顔。
春の手の中で、記録核が淡く光った。
耳のインプラントが低く鳴る。灯は反射的に首筋へ手を当てた。雑音が波のように寄せ、言葉の形を取り始める。
『航路、北北東へ補正。灯、泣くな。おまえが泣くと計器が曇る』
灯は椅子を蹴って立ち上がった。
それは兄の声だった。少し笑っていて、少し疲れていて、八年前の夜からそのまま届いたような声。
「海里兄さん」
記録核の光は消えた。春が苦しそうに眉を寄せる。灯は声を呑み込んだ。生きているはずがない。あれは録音だ。星潮が運んできたただの断片だ。
そう思おうとしたのに、手が震えた。
奈津が戻ってくる足音がする。灯は記録核へ布をかけ、春の乱れた毛布を直した。
「どうしたの、顔色悪い」
「星潮のノイズを拾っただけ」
「うそ下手」
奈津はそれ以上聞かなかった。春の額へ手を当て、静かに息をつく。
灯は窓の外を見た。夜明け前の海はまだ青い。潮ノ島へ戻った最初の夜、海は遭難した少年と、兄の声を連れてきた。
灯台は人を待たない。
父の貼り紙の言葉が、いまさら胸に引っかかった。




