第1話 星潮の夜に帰る
水瀬灯が潮ノ島へ戻った夜、海は空より明るかった。
最終便の連絡船は港に近づくほど速度を落とし、船底で砕ける波が青白い火花を散らした。甲板の手すりから身を乗り出すと、暗い海面の下に無数の粒が流れている。魚の群れのようでも、星屑を溶かした川のようでもあった。
「星潮だ。久しぶりだろう」
船長の源三が操舵室の窓から顔を出した。白い眉に潮が張りついている。
「前より濃いですね」
「濃すぎる。きれいなもんは、たいてい何かを隠しとる」
灯は返事をしなかった。八年前、気象衛星網「暁環」が落ちた夜も、海はこんな色をしていた。島の観測船が戻らず、兄の海里が行方不明になった。遺体は上がらず、死亡認定の紙だけが役場の金庫に眠っている。
島を離れてから、灯は沿岸データ局で働いた。潮位、風向、避難経路。数字は人を助けるためにあるのだと信じて、画面の中の海を見続けた。けれど父が倒れたと連絡を受けたとき、画面には何も映らなかった。ただ、潮ノ島の旧灯台が廃止されるという小さな通知だけが、未読のまま残っていた。
港には迎えがなかった。父の透は島外の病院で眠っている。母は灯が中学の頃に亡くなり、兄は海へ消えた。家族の気配は、待合所の錆びたベンチと、防波堤に掛かった父の古い雨合羽に残っているだけだった。
灯台は港の北、崖へ続く石段の先に立っていた。白い塔の塗装は風で剥がれ、明かりを回すレンズ室には黒い防護幕が掛けられている。いまの灯台は船を照らす光ではない。星潮に信号を流し、青白い海そのものへ航路を描く観測塔だ。
父はそれを守っていた。灯は逃げた。
石段を上がる途中、足元の草むらで小さな光が瞬いた。海から飛ばされた星潮の粒が、露に混じって震えている。近づくと、粒は一斉に灯の靴先へ寄った。昔からそうだった。灯の体内にある旧式の補聴インプラントが、星潮の微弱な信号を拾ってしまうのだ。
耳の奥で、かすかな雑音が鳴った。
――あかり。
灯は息を止めた。波の音、風の音、遠くで鳴る係留索。そこに混じった声は、聞き間違いにしては懐かしすぎた。
「兄さん?」
問いかけても返事はない。光の粒は草の上でばらけ、ただの青い露に戻った。
灯台の扉には、父の字で貼り紙があった。
『灯へ。鍵はいつもの場所。灯台は人を待たない。先に点検しろ』
胸の奥が少しだけ痛んだ。父らしい命令口調だった。灯は石壁の隙間から鍵を取り、重い扉を開けた。
埃の匂いと、油と金属の冷えた匂いがした。螺旋階段の上で機械が眠っている。廃止予定の灯台。帰る場所ではなく、片づけるための場所。
そう思っていた。
そのとき、港のほうで警鐘が三度鳴った。遭難者発見を知らせる鐘だ。灯は扉を閉める暇もなく石段を駆け下りた。
星潮の海が、また誰かを島へ返していた。




