第19話 夜明けの航路
夜明けは、嵐の端から静かに始まった。
風が弱まり、雨が細くなり、雲の隙間から薄い光が差す。海はまだ荒れていたが、星潮の航路は消えなかった。青い線は島の周りを巡り、避難船と港と高台を結んでいる。
取り残された人はいなかった。
美汐からその報告を受けたとき、灯は制御室の床に座り込んだ。体中が痛み、手は包帯だらけだった。湊は奈津に怒られながら眠っている。陸は端末にもたれたまま、眼鏡を外して目を閉じていた。
外部回線には、受信確認が増え続けていた。事故記録は複数の報道機関と研究機関へ届き、霞庁の内部からも照合データが漏れ始めている。オリオン海洋の作業船は灯台の誘導で岩礁を避け、港の外で停止していた。
瀬名梓から通信が入ったのは、朝日が海に触れる頃だった。
画面の中の梓は、初めて疲れて見えた。整っていた髪は乱れ、背後では作業員が慌ただしく動いている。
『誘導に感謝します』
「記録の公開停止を求めますか」
『いいえ。もう止まりません』
梓は目を伏せた。
『私は事故当時の担当ではありません。ただ、隠された記録の上に作られた計画を進めていました。知らなかったと言うことはできます。でも、知ろうとしなかった』
灯は何も言わなかった。許しを求める言葉ではない。責任を回避する言葉でもない。梓自身が、ようやく自分の立つ場所を見た声だった。
『霞庁の停止命令は一時凍結されます。正式には調査委員会の判断を待つことになりますが、少なくとも今朝、灯台は必要でした』
「今朝だけじゃありません」
『承知しています』
通信が切れた。
制御室に、海里の光が浮かんだ。嵐の後の朝のせいか、輪郭はさらに薄い。
『よかったな』
「まだ何も終わってない。調査も、補償も、島の移転も」
『でも、隠されたままではなくなった』
灯はうなずいた。それは大きな違いだった。
海里は窓の外を見た。青い航路の先で、避難船が港へ戻ってくる。船上の人々が灯台へ手を振っていた。
『僕はそろそろ行く』
灯は立ち上がった。言わなければならないことは山ほどあるのに、どれも言葉にならない。
『灯』
「なに」
『父さんに、怒鳴ってごめんって伝えて』
「自分で言えばいいのに」
『そうしたい。でも、できないことはできないって認めるのも大事だろ』
灯は泣きながら笑った。
「兄さんらしくない正論」
『八年考えたからな』
海里の光は、記録槽から星潮へ少しずつ流れ始めた。制御室の床を青い粒が渡り、窓の隙間から外へ出ていく。灯は止めなかった。湊が目を覚まし、奈津に支えられて立つ。
「海里さん」
『湊。名前、いいな』
「うん」
『忘れてもいい。覚えていてもいい。どっちでも、君のものだ』
湊は泣きながらうなずいた。
最後に、海里は灯へ向き直った。
『灯台を頼む』
「うん」
『いや、違うな。灯台だけじゃない。おまえの行きたい場所へ行け。灯は持って歩ける』
青い光が朝の海へ溶けた。
灯の耳には、もう兄の声は聞こえなかった。代わりに、波の音がした。鳥の声がした。高台から人々が降りてくる足音がした。
夜明けの航路は、消えずに海を照らしていた。




