第20話 灯を渡す
三か月後、潮ノ島の灯台には新しい銘板が掛かった。
『星潮灯台。潮ノ島共同管理灯。避難信号、航路誘導、記録慰霊のため運用』
霞庁の調査委員会はまだ続いている。オリオン海洋は星潮回収事業の停止を命じられ、暁環事故の再調査が始まった。補償も、移転も、島の未来も、すぐにきれいな形にはならない。だが、すべては公開された記録の上で話し合われることになった。
低地の家のいくつかは本土へ移った。空き家になった場所には、満潮のたび海水が入る。けれど持ち主たちは鍵を美汐に預け、「祭りの日には帰る」と言った。残った人々は高台に小さな共同倉庫を建て、避難路を広げている。
灯は灯台守になった。
ただし、父の後をそのまま継いだわけではない。沿岸データ局にも復職し、潮ノ島から遠隔で働く形を選んだ。数字で人を助ける仕事と、島の道を歩いて確かめる仕事。どちらか一つにしなくてもいいと、ようやく思えるようになった。
父の透は退院し、灯台の石段を半分だけ上ったところで息を切らした。
「運動不足」
灯が言うと、父は不機嫌そうに眉を上げた。
「おまえにだけは言われたくない」
それから父はレンズ室を見上げ、長い間黙っていた。灯は海里の伝言を伝えた。怒鳴ってごめん、と。
父は「馬鹿が」とだけ言った。けれどその夜、灯は父が記録慰霊室でひとり泣いているのを見た。声をかけなかった。泣く場所を選ぶ権利くらい、父にも必要だった。
春田湊は、潮ノ島の小さな学校分室へ通い始めた。本当の家族を探す手続きは奈津が進めているが、急がないことにした。湊は記録核を灯台へ預け、代わりに美汐からもらった釣り竿を宝物にしている。
「ぼく、覚えてることが増えた」
ある夕方、湊は防波堤で言った。
「怖かったこと?」
「それも。でも、奈津先生が怒る顔とか、源三さんの船酔いしない立ち方とか、陸さんが工具を探すときだけ早口になることとか」
「いい記憶だね」
「うん。ぼくの」
陸は委託契約を切られた。本人は「設備確認の範囲を広げすぎた結果です」と真面目に言い、灯と美汐に笑われた。今は潮ノ島灯台の公開技術顧問として、古い設備の保守と新しい回線の設計をしている。
「都市へ戻らなくていいんですか」
灯が聞くと、陸は灯台の外壁に新しいセンサーを取り付けながら答えた。
「戻りますよ。必要なら。ここにも戻ります。灯は持って歩けるんでしょう」
灯は工具箱から必要なレンチを渡した。
「兄の言葉を勝手に使わないでください」
「便利だったので」
灯は笑った。
星見祭の夜が来た。港には今年も提灯が並び、去年より少し少ない人と、去年はいなかった人が集まった。本土へ移った家族も船で戻り、空き家の鍵を持つ人々が互いに近況を話している。灯籠には亡くなった人の名前、移った家の名前、生まれた子の名前、そして「また来る」とだけ書かれたものもあった。
灯は一枚の灯籠へ、兄の名前を書いた。
水瀬海里。
字は相変わらず上手くない。けれど今年は、からかう声は聞こえなかった。灯は少し寂しく、少し誇らしかった。
灯籠を水へ置く。星潮が青く集まり、紙を沖へ運ぶ。湊の灯籠が隣を流れ、父の灯籠、美汐の灯籠、陸が不器用に折った灯籠も続いた。
灯台から信号が放たれる。海に青い航路が現れ、沖へ、島へ、本土へ、そしてまだ名前のない未来へ伸びていく。
灯はレンズ室の窓を開けた。風が髪を揺らし、潮の匂いを運んでくる。耳のインプラントは静かだった。もう死者の声は聞こえない。
それでよかった。
覚えている。選んだ。送り出した。
灯は机の上の新しい灯台日誌を開き、一行目にこう書いた。
『本日、星潮穏やか。航路異常なし。灯は次の人へ渡せる状態にある』
ペンを置くと、下の広場から湊が呼んだ。
「灯さん、早く! 焼きそばなくなる!」
「今行く」
灯は窓から海をもう一度見た。星潮は静かに瞬いている。誰かを閉じ込めるためではなく、誰かが帰る道を見つけるために。
灯台の扉を閉め、灯は石段を下りた。




