第16話 兄の選択
灯台へ戻る頃には、空が鉛色に沈んでいた。
風は港の旗を横殴りにし、星潮は昼だというのに青く光っている。新型ブイ網の警報がようやく鳴り出したが、遅すぎた。低地の避難は始まっている。美汐が拡声器を手に走り、奈津は診療所の患者を高台へ送っていた。
灯は保護ケースを抱え、制御室へ上がった。海底の鐘から持ち帰った核は、春の記録核より大きく、内側に無数の光点を抱いている。そこには事故の全記録と、星潮に避難した声が入っていた。
接続すると、海里が現れた。
今度の姿は少し薄い。水面に映った影のようで、輪郭が風に乱れる。
『いい顔になったな、灯台みたいだ』
「やめて。泣く」
『泣いても計器は曇らない。陸が拭く』
背後で陸が「僕ですか」と小さく言い、灯は少し笑った。
笑えたことが、痛かった。
「兄さんを残す方法を探す。記録槽を拡張すれば、人格モデルを安定させられるかもしれない。暁環の補助モデルなら、都市の設備で」
『灯』
海里の声は穏やかだった。
『僕は残りたいわけじゃない』
灯は言葉を失った。
『あの夜、僕が選んだのは、島の避難信号を止めないことだった。そのために僕の判断の癖が使われた。役に立ったなら、それでいい。でも八年は長い。僕の断片は、同じ夜を何度も再生している』
「苦しいの?」
『苦しいというより、終われない。灯や父さんが僕を覚えてくれることと、僕を装置の中に留めることは違う』
灯は拳を握った。兄を失ったと思った。声を聞いた。もしかしたら取り戻せると思った。その希望が、どれほど自分勝手だったかを突きつけられている。
「私、まだ何も言えてない。怒ってたことも、寂しかったことも、島を出てごめんってことも」
『言って』
海里はただ待った。
灯は泣きながら言った。兄が海へ行ったことを憎んだ日があること。父を置いて逃げたこと。都市で島のデータを見るたび、潮ノ島が沈めばもう戻らなくて済むと思った夜があること。春の記録核から兄の声が聞こえたとき、誰より先に「返して」と願ったこと。
海里は全部聞いた。
『灯は逃げたんじゃない。生き延びたんだよ。生き延びた人が戻ってきて、次の灯を点ける。それで十分すぎる』
春が制御室の入口に立っていた。奈津の目を盗んできたらしい。彼は泣いていた。
「海里さんが消えたら、ぼくの中の記憶もなくなる?」
『僕の声は薄くなる。でも春の記憶は春のものだ。オリオンの施設から逃げたこと、海で怖かったこと、灯に助けられたこと。これから増えるものは誰にも取られない』
「ぼくの本当の名前は?」
海里は目を伏せた。
『記録にあった。春田湊。母親がそう呼んでいた』
春、いや湊は、胸を押さえてしゃがみ込んだ。奈津が駆け寄り、何も言わずに抱きしめる。
灯台が大きく揺れた。嵐の第一波が島へ届いたのだ。制御端末に赤い警告が並ぶ。遠隔停止、黒い潮、星潮嵐。すべてが重なっている。
海里は灯へ手を差し出した。触れられない手だった。
『全記録を開いて。事故の真相も、避難航路も、閉じ込められた声も。僕だけを特別に残さないで』
灯は涙を拭った。
「分かった」
その返事は、兄を失う二度目の合図だった。
けれど今度は、灯が選んだ別れだった。




