第13話 嵐の前の投票
灯台が止まった翌日、島の空は妙に澄んでいた。
遠くの雲の縁が硬く、風は湿っている。源三は港で空を見上げ、「大きいのが来る」と言った。台風ではない。暁環事故の後に増えた、局地性の星潮嵐。星潮が濃い海域で電磁気と気圧が乱れ、予報より早く育つ嵐だ。
新型ブイ網の警報はまだ静かだった。
役場では、島民投票の準備が進んでいた。残るか、移るか。灯台の再起動に協力するか、霞庁の指示に従うか。美汐は投票箱を机に置き、いつもより硬い声で説明した。
「これは誰かを責める投票じゃない。選ぶための投票です」
灯は後ろの席で春と並んで座った。春は帽子を深くかぶり、記録核を服の下に隠している。霞庁の職員が本土から来る前に、島としての意思を決める必要があった。
最初に発言したのは、低地に住む若い母親だった。
「私は移ります。子どもを危険に置きたくない。でも灯台を止めろとは思わない。残る人の道がなくなるのは嫌です」
次に、年老いた漁師が立った。
「わしは残る。だが若いもんに残れとは言わん。灯台は、残れという命令じゃなく、帰りたいときの目印であってほしい」
言葉が少しずつ積もっていく。怒号はなかった。泣く人はいた。島を愛しているからこそ離れる人と、島を愛しているからこそ残る人が、同じ部屋で同じ海を見ていた。
灯は立ち上がった。
「私は、灯台を再起動したい。事故の記録を公開したい。でも、それで島に残れと言いたいわけではありません。選ぶために、隠されたものを外へ出したい」
春が小さく手を上げた。
「ぼくは、名前を知りたいです。でも、知ったあと、どこに行くかは自分で決めたい」
会場の空気が変わった。春の言葉は幼いが、島全体の願いに似ていた。
投票は夕方まで続いた。結果は、灯台再起動と事故記録公開への協力が過半数。ただし、再起動は避難信号に限り、島民の避難を最優先すること。海底の鐘の調査には、医師と漁協の安全判断を従えること。
灯はその条件に深く頭を下げた。
役場を出ると、空の澄み方はもう不自然なほどだった。陸が端末を見せる。新型ブイ網にはまだ警報が出ていないが、灯台の古い受信器だけが星潮嵐の兆候を拾っていた。
「三十時間以内に来ます」
「海底の鐘へ行く時間は?」
「明日の夜明け前まで。それ以降は無理です」
奈津が灯の前に立った。
「条件を忘れないで。危険なら戻る」
「分かってる」
「灯の『分かってる』は信用が薄い」
「今日は厚めにします」
奈津は呆れたように笑い、灯の肩を押した。
その夜、灯は父へ通信をつないだ。病院の画面に映った父は痩せていたが、目だけは灯台のレンズみたいに強かった。
『海底の鐘へ行くのか』
「うん」
『海里を連れて帰ろうとするな』
灯は息を止めた。
『あいつは帰れん。だが、あいつが守った道は帰ってくる』
父はそれだけ言い、疲れたように目を閉じた。
嵐の前の島は静かだった。静けさは、諦めではなかった。選んだ後の沈黙だった。




