4:みごと
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ペリエヴァッテが前の家から持ってきたものはない。そもそも、自分のもの、というのも持っておらず、経験がなかった。洗濯したシャツを誰かが間違えて持って行ってしまえば着るものがない、ということも、前の家では普通にあることだった。
半ばそれは当主の情けを受けて子を産んだ母に対する当てつけでもあったらしいが、ペリエヴァッテにも誰かの衣服を勝手に持っていくことを覚えさせた。そうして一方的にそれがわかり、殴り、詰問されるのはいつもペリエヴァッテだけで、怒鳴る誰かをいつもつまらなそうに見上げていた。その顔もまた不興を買い、また殴られる。そんな生活だった。
そういうことをひとつずつ思い出してくると胸の辺りを掻きむしりたい衝動に駆られた。腹の奥底から叫び声を上げて、突然地団太を踏む。ペリエヴァッテの中で眠り続けていた激しい怒りが、ようやく産声を上げた瞬間だった。
必ず同じ目に遭わせてやる。痛かったこと、辛かったこと、それらを全て味わわせてやる。幼い心を黒く染め上げた目標はペリエヴァッテの中ですくすくと育っていった。だからこそ、鍛錬、要は強くなれると言われたことにも意欲的になった。あの日、握り締めた石で殴った【兄】はこちらを怯えた目で見ていた。そう、何か道具があれば、強ければ、奴らを平伏させることもできるのだ。
「――最近、よく頑張っておるようだな」
再び季節は秋に差し掛かり、葡萄の収穫時期が来た頃、祖父・シュヴェルタスが朝食の席で言った。食べる量の調整が少しずつできるようになり、今朝は腹八分目で終えられたペリエヴァッテは、はい、と短く答えた。
背筋を伸ばしたまま、ゆっくりと祖父・シュヴェルタスを見遣れば、その視線のやり方に満足気に頷く【じぃじ】がいる。礼儀作法を学んでいる中で、執事・カナルディオがこだわった部分だった。これは祖父・シュヴェルタスが気に入る所作なのだろう。嫌われる行動を教え込まれていないことは、気味の悪い執事・カナルディオを多少見直すことに繋がった。
「よく頑張っているご褒美に、お前に従者を与えてやろう」
「カナルディオみたいな、ものですか?」
「ふむ、少々違う」
「ご説明いたします。あなたの希望を叶えるためだけに存在する、【おともだち】のことです、ペリエヴァッテ坊ちゃま」
おともだち、という言葉がわからずに首を傾げれば、執事・カナルディオは大袈裟な身振り手振りをつけ、嘆いた。
「あぁ! なんということでしょう! 少なくとも五つ程度のガキであれば石を蹴り、葡萄畑に忍び込んで葡萄を食い荒らす馬鹿な真似をおともだちとしようものを! ペリエヴァッテ坊ちゃまはそういった御経験もない! なんと嘆かわしい! なんと悲しいのでしょう!」
「茶会に出るにしても、お前のその無表情さはあまりにもよろしくない。多少こどもらしさを学ぶ必要があると考えたのだ。私の後継ぎとして出すのだからな、社交性も多少は持ってもらわねばならん」
「えぇ、そうです。なにせペリエヴァッテ坊ちゃまはまったく笑われませんしねぇ」
祖父・シュヴェルタスと執事・カナルディオにじぃっと見つめられ、ペリエヴァッテは口端をゆっくりと上げ歯を見せてニタァっと笑った。祖父と執事は盛大な溜息をついて首を振った。
「旦那様のお孫様でございますね」
「カナルディオ、跪きなさい。蹴ってやろう」
「はいっ」
もはや恒例のようにカナルディオは顔面を蹴り飛ばされ、恍惚とした表情でその怪我を撫でていた。ペリエヴァッテは幼心に、これらを真似してはならないと思った。
祖父・シュヴェルタスとそうした会話をした二日後、鍛錬の合間のティータイムで甘いドーナツと紅茶を楽しんでいるところへ執事・カナルディオが少年を伴ってやってきた。身綺麗にはされていて、落ち着かない様子でそわそわと周囲を見回し、カナルディオに肩を強く掴まれて大人しくなった。
「さぁ、ご挨拶なさい」
「は、はじめまして、ペリエヴァッテ坊ちゃま」
たどたどしい礼ではあったが、文句をつける気はなかった。それほどの興味が持てなかったというのが正直なところだった。執事・カナルディオは少年を引きずるようにしてペリエヴァッテの前に来させると、ゆっくりと、小指から少年の肩に手を置いて掴んだ。
「ペリエヴァッテ坊ちゃま、これに名を与えて【おともだち】とするのです」
「名を?」
「えぇ、そうです。そうすることでペリエヴァッテ坊ちゃまのモノとなります。奴隷紋が刻まれているのです」
奴隷紋、と繰り返せば、執事・カナルディオはわざわざ呆れた溜息をひとつ置いてから説明した。
生殺与奪を握る奴隷紋は、息をするなと言えば息ができなくなる。眠るなと言えば眠る度に激痛で起きるようになる。死ねと言えば死ぬ、そういうものらしい。今回、名づけをした者に対し従うよう、先んじて事前契約が済まされているという。だからペリエヴァッテが名づける必要がある、ということだそうだ。とにかく、名前を付ければいいのだとわかった。
「なんでもいいの?」
「もちろんです」
「……じゃあ、ディオ」
カナルディオは眉を顰めたものの、少年を押しやってペリエヴァッテの前に跪かせた。
「ペリエヴァッテ坊ちゃま、こいつの頭に触れて、名をつけるのです。……身綺麗にはさせましたのでねぇ、ご安心を」
人と触れ合うことを嫌うペリエヴァッテに対して一応の配慮はあった。少年の頭に手を乗せ、ペリエヴァッテは改めて言った。
「ディオ」
不思議な赤い波紋が一度広がり、じゃらりと鎖のような音がした。
「よいでしょう。これで【おともだち】です。さぁ! 握手しましょう!」
無理矢理手を掴んで【ディオ】と握らされ、ペリエヴァッテはすぐにそれを離した。ディオは自身の手を眺めた後、ペリエヴァッテに対してへらりと笑った。
「よ、よろしく、おねがいします! ペリエヴァッテ坊ちゃま!」
その笑顔にイラついたことをペリエヴァッテは忘れなかった。
――食事の席で、執事・カナルディオのようにディオもペリエヴァッテに対し、紅茶を用意したり、配膳したりと役目が与えられていた。その仕事の内容に【おともだち】ではなく【使用人】ではないかと思いもしたが、祖父・シュヴェルタス曰く、そうして日常的に身の回りのことをするのが従者なのだという。
「いずれお前の執事にすればよい。こういう執事には育てるでないぞ」
あぁ、そんな、旦那様、と執事・カナルディオは表情こそ気持ち悪いうっとり顔ではあるが、手さばきは見事なものでスマートにコーヒーを祖父・シュヴェルタスの前に置いていた。ディオは侍女や従僕に手伝われながらも紅茶を淹れ、それをペリエヴァッテに差し出した。
「お、お待たせしました!」
初めてサーブされた紅茶は色だけはあるものの味が薄く、眉を顰めれば目ざとくそれを見た執事・カナルディオが大股で近寄り、ディオの頬を手の甲で叩いた。
「情けない! ペリエヴァッテ坊ちゃまにお出しするものに妥協をしてはなりませんねぇ!」
「飲めるけど」
「いけません、ペリエヴァッテ坊ちゃま。貴族であるのです、最上のものだけを口に入れ、その体を作るのです。坊ちゃまが鍛錬中、ディオには私が教育を施し……」
「おじい様、別の誰か、いませんか」
執事・カナルディオの教育を拒否するペリエヴァッテに祖父・シュヴェルタスは大きな声で笑った。
「ふぁははは! うふふふ! よい、よい、手配しよう! こういう執事に育てるなと言ったのは私だからな!」
「あぁ、そんな、旦那様ぁ」
気味の悪い食事風景にも、少しずつ慣れてきてしまっていたことにペリエヴァッテは気づかなかった。
ディオが来てからまた日常が変わった。ペリエヴァッテは文字の読み書きが安定し、眠る前に読まされる本にも少しずつ慣れてきたこともあり、多少時間が空くようになったのだ。礼儀作法は週に三日、敢えて暇な時間を作らされ、ディオと過ごすように言いつけられた。ペリエヴァッテにとってはそれはただの命令だった。だから仕方なく一緒に居た、それだけだった。
「ペリエヴァッテ様! 厨房がパンを持たせてくれました!」
「ペリエヴァッテ様! 厩舎に馬がいるんですよ、知ってますか?」
「ペリエヴァッテ様! 今日の鍛錬で怪我したって聞きました、これ、カナルディオさんからです!」
言葉遣いは度々侍女や従僕に叱られてはいたが、ディオの賑やかな声は周囲をにこやかにさせるようだった。少しずつ慣れも出て、テキパキと働き始めるディオの姿にペリエヴァッテは言い知れない苛立ちも覚えた。
「ペリエヴァッテ様! 見てください! 今日は自分でタイを結べたんです!」
ディオはペリエヴァッテの答えを待たずにあれこれとまくし立て、ひとりでも楽しそうにあちこちを指差していく。面倒だった。相手にするだけ時間がもったいなく思え、ペリエヴァッテはそれを無視して寝る前に読むはずの本を進めたり、頭の中で鍛錬を反芻する方に時間を使った。
そうしていれば、一方的にペリエヴァッテに慣れたディオが馴れ馴れしくペリエヴァッテの手を掴んだ。
「ペリエヴァッテ様! 顔が暗いです!」
「触るな」
「ペリエヴァッテ様といる時間だけ、ぼくは遊べるんです!」
「勝手にしろ」
追い払うように手を払い、ペリエヴァッテは再びを本を開こうとした。
簡単な文字の羅列のものだ。貴族のこどもたちが小さい時に読むもので、きっと知らない者はいないはずだと教育係が言うので読んでいるもの。こうしたものの中から遊びはできていくのだと聞いて、よくわからなかった。次回までに読めと言われているので読んでいる。
ほうじょうのめがみ ハルフルウスト こむぎのなみを……
「っ! おい!」
本を奪われペリエヴァッテはカッとなってそれを取り返そうと腕を伸ばした。ディオは両腕に抱えたそれを体で隠し、だめです、だめです、と繰り返した。
「返せ! ふけいだぞ!」
「今日は本を読んじゃだめです!」
「命令するぞ!」
「旦那様からお外に連れて行くようにと言われているんです!」
命令だ、返せ、と言う前にディオが叫んだ。ペリエヴァッテは首を傾げた。
「おじい様が?」
「ペリエヴァッテ様はあまり遊ばないから、葡萄畑にでも連れて行ってやれって」
葡萄畑。教育係の言っていた見事だという景色には興味が湧いた。【みごと】とはどういうものなのだろう。本を取り返すことをやめたペリエヴァッテの顔を覗き込んで、ディオが心配そうに眉尻を下げた。
「ペリエヴァッテ様?」
「……葡萄畑はどこにある?」
「ええと、あっちの丘の向こう! だそうです! 行く? 行きます? やったぁ!」
わぁ! とディオは大はしゃぎで跳ねまわり、ペリエヴァッテに本を押し付けるとびゅんと走り去っていった。あれを追えばいいのか待てばいいのかわからず、ペリエヴァッテは座り直して読書を再開し、待つ方を選んだ。暫くしてディオが息を切らせながら戻り、ペリエヴァッテの腕を引いた。
「行こ! 荷台に乗せてくれるって!」
「おい……」
掴む手を振り払おうとしたが、ディオは構わずにグイグイと前を行く。その楽しそうな顔にも面倒になり、ペリエヴァッテはその先で待っていた庭師と馬に繋がれた荷台のもとへ行った。庭師は帽子を外し、深々と腰を折った。
「お久しゅうございます、坊ちゃま」
ん、と目を瞑って開けば、庭師は滲むような笑みでこちらを見ていた。その視線が首筋を痒くさせ、ペリエヴァッテはそこを摩った。
「葡萄畑に参られると伺いまして、私がご案内いたします。まぁ綺麗な荷台じゃありませんが、こういうのは、抜け出すくらいの悪戯心が必要かと思いまして」
「いたずらこころ?」
「ペリエヴァッテ様! 早く乗ってください! 遊ぶ時間がなくなっちゃう!」
荷台によじ登ったディオが手を差し出してきた。ゆっくりと手を持ち上げ、それを掴む前にディオが掴み、ぐいと引き上げた。こどもの力ではお互いに倒れ込むような形になり、庭師がペリエヴァッテを抱き上げてくれた。その腕は嫌ではなかった。
「そこに麻布があるでしょう、上に被っておいてください。樽に寄って隠れるように……あぁ、お上手です。いいですか、門を出たら声を掛けますので、それまではお静かに」
ガサガサとした麻布は少しだけチクチクした。樽に寄り掛かっていれば荷台の後ろをガタンと閉じる音がして、荷台がガタリと動いた。馬のカポカポと道を蹴る音、庭師のご機嫌な鼻歌、麻布の中でペリエヴァッテはディオとともに息を殺していた。
「冒険だね、ペリエヴァッテ様」
敬語を使い慣れないせいかディオはこうして不敬ではあったが、ペリエヴァッテは指摘も面倒で周囲の音を聞いていた。ガサガサ、カポカポ、鼻歌。おい、止まれ、と誰かの声がして荷台も止まる。
「庭師のじいさんか、どこに行くんだ? 仕入れか?」
「あぁ、そうさ。いい肥料が欲しくてね。葡萄の搾りかすなんかあるといいんだが」
「収穫時期だもんな、戻りは?」
「夕方頃かの」
わかった、いってらっしゃい、おう、ありがとうよ、という会話のあと、再び馬が動き荷台が揺れた。ペリエヴァッテがホッと息を吐いたのと同時、ディオもまた同じように息を吐いていた。少しだけおかしくなった。クスクスと笑う子供らしい音に、庭師がえへん、オホン、喉の調子が悪いのう、と誤魔化しをいれた。慌てて口を押さえ、笑い声を押さえ、変な汗をかき続けた。
荷台が少しだけ傾き始めた。転がりそうになって腕をついて体を支え、暫く耐えた。ガタン、と荷台の傾きが戻り、動きが止まった。
「さぁ、お顔を出していいですよ、坊ちゃま」
そろりと麻布を外すペリエヴァッテとは違い、ディオが勢いよく立ち上がり、それを払った。
「うわぁー! すごい! 見て! すごいよ!」
青いような、甘いような、かぐわしい香りを伴って少し涼しい風が吹いた。連なった緑の波状。どこまでも続くその波が太陽の光に照らされて美しい緑と艶やかな葡萄がここにあると自慢してくるような光景だった。麦わら帽子に色とりどりのエプロンをつけた女たち。籠を背負い、帽子をつけて強い日差しから自身を守る男たち。白く視界を奪うような眩しい太陽の熱で零れた汗を、皆が気持ちよさそうに手で拭い、レモトルネを浴びるように飲む。さぁ、もう一度。女たちはエプロンにたっぷりと葡萄を集め、男たちは背負った籠に葡萄を集める。
眩しかった。青い空、白い雲、広く、遠く、丘の向こうまで続く葡萄畑。聞こえてくる葡萄摘みの歌。ペリエヴァッテは荷台に立ったままそれを見て、口を開いて固まっていた。
「これが、【みごと】……」
「ペリエヴァッテ様! 行こ!」
腕を引かれ、荷台から転びそうになりながら降り、腕を引かれるままにペリエヴァッテは走った。
その時胸を叩いた風のことはきっと、忘れないような気がした。
場所に思いを馳せていただけますように、




