297 ときめきの聖夜祭 23
王太子の言葉に驚いた私は、ぴたりと動きを止めた。
「は、はい、もちろん私はエルネスト様から逃げようとしたわけではありません」
そんな誤解をされるなんて私ったら失礼だわと反省し、少しだけ王太子に近付く。はずが、距離を間違えたようで、彼の肩口に頬がぶつかってしまった。
しまったと思ったものの、ここで離れたら私が王太子から逃げようとしていることを誤解されたままになるわ、とそのままでいると、王太子の柔らかな声が降ってきた。
「本当だね。どうやら君は私から逃げようとしているわけではないようだ」
よかったわ。誤解が解けたみたいねと安堵していると、王太子は握っていた手を離して私を抱きしめてきた。
「えっ?」
エルネスト王太子は一体何をしているのかしらと、状況が把握できずに固まっていると、彼は温かな声を出した。
「ルチアーナ嬢、君は温かいな。そして、温かい者を抱きしめると、私まで温かくなるものなのだな」
エルネスト王太子の声には新しいことを知った喜びが含まれていたため、まさか王太子ともあろう者がそんな簡単なことも知らなかったのかしらとびっくりする。
「エルネスト様は寒い冬に、誰かとくっついたりしたことはないんですか?」
王太子は考えることなく即答した。
「ないな。私にとって親しい者といえばラカーシュだけだが、幼い頃を思い返してみても、相手の体温を感じるほど長い時間抱き合った覚えはない。それに、私の母は王妃だ。基本的に私の面倒は乳母が見ていて、母はたまに顔を見せる美しい人という印象だったから、抱きしめられた記憶はない」
「……そうなんですね」
王太子は王家の一人息子だ。
幼い頃から次代の王と大切にされはしたものの、子どもらしい触れ合いは経験してこなかったのかもしれない。
けれど、人と触れ合うことは必要だと思ったため、私はおずおずと王太子の体に腕を回した。
「少し寒いので、この洞窟は冬の庭にあるのかもしれません」
学園内にある洞窟は長く、秋の庭から冬の庭までつながっている。
この場所は肌寒いから、きっと冬の庭の部分にあるのだわと思いながら私は話を続けた。
「だから、寒いと感じたら、こうやってくっつくのが正解なんです。冬山とかで、寒くなった人たちが体を寄せ合うという話を聞いたことはありませんか」
すごくいい具体例を思い付いたわと考えながら口にすると、王太子は肯定するように頷いた。
「なるほど、確かに生き返った気分だな」
「え、そんなにですか?」
王太子の言葉を聞いて、彼はすごく寒いんじゃないかしらと心配になる。
顔色を確認しようとちらりと見上げたところ、王太子は私の肩に顎を乗せてきた。
まあ、さらに私に引っ付いてくるなんて、体が冷え切っているんじゃないかしらと、おろおろしていると、王太子は私を抱きしめたまま言葉を続けた。
「ルチアーナ嬢、私には幼い頃から多くの家庭教師が付いていて、様々なことを学んできた。王太子として学ぶことは多くあり、そのことにのみ力を注いでいたため、誰もが当然のように経験することを知らないまま成長してしまった。それは恥ずかしく残念なことだから、このままにしておきたくはない。だから、図々しい願いではあるが、君が私に教えてくれないか」
世継ぎの王太子が、誰もが知っていることを知らないと告白することは勇気がいるだろう。
それなのに、王太子は私に告白してくれただけでなく、私を頼ってくれたのだ。
そのことに気付き、私にできることであれば何だってやりたいという気持ちになる。
「エルネスト様、もちろんです! 私が知っていることであれば、何でもお教えします!!」
きらきらと目を輝かせながら宣言すると、王太子は少し頭を離して私を見下ろし、困ったように眉尻を下げた。
「それはありがたい。が……君が純粋過ぎて、心が痛むな。恋には駆け引きが必要だというが、私の言動は本当に駆け引きの範疇に入っているのだろうか」
王太子の声はそれまでと違って囁くようなものだったので、聞き取ることができずに聞き返す。
「すみません、よく聞こえませんでした」
「いや、つまり、……冬休みの間に一緒に出掛けようということだ」
王太子が心配そうに見つめてきたので、これは先ほどの話の続きで、私が頼りにされているのねと嬉しくなる。
そうよね。王太子の親友といえばラカーシュだけど、彼は王族に次ぐ高位貴族だから、王太子と同じように誰もが知っている常識を知らないかもしれない。
だから、庶民の常識を色々と教える相手としては、私が最適だわ。
「はい、分かりました! 明日からしばらくの間は、兄と一緒にカンナ侯爵領に滞在する予定なので、戻ってきたら連絡しますね」
兄だけでなく、カールも一緒に行く予定になっているけれど、実際に来てくれるかどうかは直前まで分からないため、彼の名前は省略する。
それでいいかしらと王太子を見上げると、彼は考えるように眉根を寄せた。
「カンナ侯爵家はアレクシス魔術師団長のところだな。ルチアーナ嬢、彼が君とともに『魔の★地帯』に飛ばされたという話は聞いている」
「えっ」
まさか王太子が知っているとは思わなかったため、驚きの声を上げる。
けれど、すぐに世継ぎの君である王太子であれば、重要事案は全て耳に入るようになっているのだろうと納得した。
「その際、『四星』の中の一星である『南星』が、世界樹を元気にするため、特別な海域に侵入できる船を探しているということも聞いた。カンナ侯爵は立派な船団を所有していたな」
王太子の言葉が非常に鋭いところを突いていたので、私はしどろもどろになる。
「えっ、そ、そうですね」
まずいわ。正確には船でなく人物なんだけど、私が『南星』の希望に従い、『魔の★地帯』に侵入できる者を探すためにカンナ侯爵領に行くと気付かれたわよ。
隠すことではないけれど、積極的に吹聴することでもないわよね。
それとも、やっぱり隠すべきことかしらと、正解が分からずにどきどきしていると、王太子がふっと微笑んだ。
「なるほど、抱き合っていると君の心臓の拍動まで分かるものなのだな」
「えっ!」
そんなに近付いていたのと慌てて体を離すと、王太子は宙に浮いた己の両腕を見下ろし、残念そうにため息をついた。
「まあ、こうなるだろうな。ルチアーナ嬢、君が言いたくなければ言う必要はない。しかし、君が相談してくれれば、私は力になれるだろう」
それは間違いない。王太子はこの国で、王に次ぐ権力を持っているのだから、何だってできるはずだ。
とはいえ、王太子の力を一個人のために使わせてもいいものかしら。
それに、まだ何も分かっていない段階なので、相談することがないのよねと考えていると、王太子が寂しそうに微笑んだ。
「サフィア殿が相手であれば、君は何だって気軽に相談するのだろうな。ルチアーナ嬢、恋人を持つということは兄君を卒業し、これまでサフィア殿に相談していたことを全て恋人に相談するようになるということだ」
「えっ」
突然、考えてもいなかった未来の話をされ、びっくりして声が出る。
それから、『恋人』という単語を聞いて、王太子が私に告白してくれたことを思い出した。
頬を赤くする私の前で、王太子は優しい笑みを浮かべる。
「君と付き合うためには、君からサフィア殿以上に信頼してもらわなければならない。非常に困難なことに思えるが、私は一度だって、やるべきことを投げ出したことはない」
王太子は真面目だからそうだろうなと思い、こくりと頷く。
「エルネスト様がご立派であることは、誰だって知っていますわ」
すると、王太子は困ったように眉尻を下げた。
「ルチアーナ嬢、私はそのような世間一般的な評価でなく、君から個人的に立派だと評価されたい」
「そ、そうなんですね」
個人的に立派だと評価するにはどうすればいいのかしらと思いながら返事をすると、王太子は私の手を握ってきた。
「ああ、そうだ」
それから、王太子はまっすぐ私を見つめてくる。
「サフィア殿が一緒であれば大丈夫だとは思うが、カンナ侯爵領ではくれぐれも無茶はしないでくれ」
「分かりました」
もちろん無茶はしないわと思いながら頷くと、エルネスト王太子は安心したように微笑んだ。
「それでは、気を付けて行っておいで。私は王都で君を待っているよ」







