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第二十話

筑前を制圧した俺たちは豊前へ侵攻。毛利と激突することとなる。


毛利は豊前に橋頭堡として門司城を有し、版図を広げようとしていた。もちろん目標は博多だ。

最近は中央から攻められたり、豊前への圧力は少ないものとなっていたが、大友の勢力に陰りが見えたことを見てとり、大国の面目躍如とでもいうかのような勢いで攻勢をかけてきていた。


海沿いに豊前へ向かっていた二男らの軍勢が門司と目と鼻の先辺りに着陣した頃、俺は筑前を七郎左衛門に任せ、小河武蔵と合流し豊前南部に侵攻した。そこで豊前南部に勢力を持つ城井や長野らの挨拶を受け、豊前北部で二男らと対峙する毛利軍を窺う姿勢を見せた。

また、筑後から蒲池の婿殿に豊後を窺わせるよう指示するなど、豊後に対する警戒と締め付けも続けている。


二男と小河武蔵は門司城外に布陣した毛利勢に西と南から攻めかかり、これを破った。敗れた毛利勢は城に逃げる者と港に逃げる者とに分かれた。そこで二男に城を囲ませ、小河武蔵は港へ差向けこれを制圧させた。さらに博多から回航させた松浦水軍や近隣の水軍え海上を警戒させていた。後に長門・周防から毛利の援軍が船でやってきたが、水軍で邪魔したうえに港を制していたので、容易く打ち払うことが出来た。


これらを尻目に門司城周辺以外の豊前を制したことで、援軍の来ない城は持ちこたえられず、城主の自害と引き換えに将兵の命を保全することを条件として降伏。兵たちは長門に撤退した。

これで豊前も宇佐郡を除いて制した。宇佐郡は豊後の一部と考えるのが良さそうだ。


少し戻って筑前を制した頃、筑後にいた三男を肥後に向わせ、豊後への備えを阿蘇と共に行うよう指示。そして納富能登が日向に向け進軍を開始、高森などを吸収して北日向に降り立った。

また相良が南日向に兵を進め、国境警備に一手を残してなお大隅へ向けて前進させた。

更に鍋島豊前と隈部式部を中心とする軍勢が薩摩へ侵攻始めたが、これに先立ち薩摩では留守部隊の一翼を担っていた島津修理が挙兵。龍造寺に援軍を要請し、これを受けたという形を取った。


日向から撤退中の島津一党は、先行部隊が南日向の国境地帯で相良の一手と遭遇。これを退けるも、大隅を窺う相良本隊に阻まれ動きを止めてしまった。そんな中、北日向に納富能登らの龍造寺勢が現れたという報告を受けて島津本隊は驚愕。さらに薩摩や大隅、南日向にも敵勢がいるということに恐慌した豪族の離反が相次いだ。島津当主は事態の収拾を図るが、これに時を取られ過ぎてしまった。


そんな状況下であるが、島津に対する攻勢。その手を緩める気は全くない。


俺は以前、豊後に亡命していた伊東の残党に呼びかけ、協力すれば日向の旧領回復も吝かではないと伝えさせた。伊東は大友に日向進出を依頼した上で耳川大敗となり、大友家中での立場がなくなりつつあるのを見てとり、本家当主は伊予へ逃れていた。そこで、残った分家一族が僅かな希望を託すということで応じてきた。その伊東一党には、幾許かの兵を付け日向南部の旧領・佐土原に向わせ蜂起を促した。時期は前後するが、この伊東を援けることを今回の名分と位置付けた。後になって大友の二番煎じになると気付いたが、まあ些細なことだ。気にしなくていいだろう。

島津主力は日向北部から少しずつ撤退していたが、空白となった北部より納富能登が後を追う形となり、兵らの動揺もありその動きは遅々としていた。更に日向南部では伊東と相良により先行部隊も抑え込まれており、大隅に入ることが出来ずにいた。伊東と相良に龍造寺の後詰が到着してからは、益々動きが取れなくなっていた。


一方、鍋島豊前と隈部式部は、長男の後詰を受けて速やかに薩摩に入り、島津修理と合流。守護嫡流家であることを掲げて進軍を続けた。これに呼応する者を吸収、反意を露わにする者を討ち取りながら薩摩を平定。

留守部隊の残党は大隅に逃げ、これを追って鍋島豊前と隈部式部・島津修理は兵を割いて薩摩に残し、北大隅と日向に侵攻。南大隅に篭ったの島津留守部隊残党を抑えつつ日向南部の味方へ後詰を行った。


島津主力と睨み合う龍造寺軍は「先方が仕掛けてくれば迎え撃つも、引けば追撃させず」を徹底させ、島津にあるであろう策を常に警戒していたため、中々大きな動きが出ることはなかった。


その間、日向南部で足止めされていた島津の先行部隊は、包囲されて動けず降伏。部隊を率いていた当主の末弟は拘束された。

これで大隅南部に逼塞する留守部隊と、日向中部で動けない島津主力が残された。

これらの有様を見た日向近隣の豪族たちは、次々離反しこちらに通じた。大友を退けてから日にちが経っておらず、支配が行き届いていなかったため、遠征先で孤立したうえに郷里が落とされ、しかも先行部隊の降伏まで伝えられると、島津一党の士気は地に落ちた。

島津主力では一気呵成に突っ込むことを考えたが、兵の士気が振わない様を見て諦め、ついに島津当主は降伏してきた。そこでこれを受諾、武装解除の上でひとまず延岡にて謹慎処分とした。

島津主力が戻って来るまでは、と持ちこたえていた大隅の勢力は、主力が降伏したことを知らされても、当初は信じなかったが、当主直筆の書状が届くに至り抵抗を諦め、降伏した。


ここに薩摩・大隅・日向を支配しかけた島津は影響力を失い、九州南部の平定がなった。


大隅諸島は省略

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