第1章 美術室の甘い思い出
「勝手に動く右手で絵を描くとね、風景が勝手に動くの」
記憶の中のセナは、そう言って朗らかに笑った。
色濃く残っている思い出は、いつも美術室だった。美術部はあまり活動的ではなかったため、放課後、部員のセナが部外者の天宮を連れ込むことは簡単だった。
そしていつも、自慢するようにセナは風景画を描く。
「いつも思うけど、それってどういう理屈で動いてるんだ?」
「さぁ?」
どこの筋肉をどう動かしてお前は呼吸しているんだ? というような当たり前の質問をされたように、セナは困った顔をして首を傾げるだけだった。
キャンバスに描かれた風景は、この学校の校庭だった。
青空には所々に白い雲が浮かび、春一番を受けた桜の木々は花びらを散らせる。特別なんて言葉が完全撤廃された、ごく一般的な高校の校庭だった。
その風景画が……動く。
ただの絵の具であるはずなのに、白い雲は時間とともにゆっくりと流れ、桜の木々はざわめき、散った花びらは風に舞い、どこからか飛ばされてきたゴミが校庭を横切った。
一枚のキャンバスが、そのままスクリーンにでもなったよう。まるで一昔前の古い携帯で撮影した動画みたいだと、天宮は感じた。
「理屈は分からないけど、子供の頃からこんな不思議なことができたんだ。右手で絵を描くとね、まるで本当の世界みたいに動き出すの」
「これって現実の世界とリンクしてるのか?」
「リンク?」
「あぁ、いや、例えばさ、これってこの学校の校庭だろ? ここにサッカーボールを描いて、転がるとするじゃん。ってことはさ、今校庭を見にいったら、同じようにボールが転がっていくのかなって」
「ふふ、そんなわけないじゃん」
鼻で笑われ、天宮はちょっとだけ赤面した。
「絵は絵だもん。現実の風景とはまったく関係がないよ。だって桜の木とかだって、私の記憶を頼りに描いてるだけだもん。もし絵が本当で現実の世界がそれに合わせて変わったら、みんなビックリしちゃう」
確かにそれもそうだな。と、自分の思慮の浅さをちょっとだけ恥じた。
ただ疑問なのは、風景画なのに、どうして外で描かないのか。一度だけ、訊いてみたことがあった。
「他の人に見られたくないもん。だって気持ち悪いでしょ? 絵が動くなんてさ」
「別に気持ち悪くなんてないさ。むしろ誇っていいんじゃないか? 超能力みたいなもんだろ?」
「気持ち悪いよぉ」
頬を膨らませ、自らの能力を頑なに拒絶する。そんなことで喧嘩になるのは嫌だから、天宮はそれ以上は何も言わなかった。
またある時には、セナが描く絵の統一性を疑問に思ったことがある。
「そういえばセナって、風景画しか描かないよな? 人物画とか、肖像画とか」
特定の人間に限らず、セナは天宮の前で人を描いたことがない。例えば校庭を描いたときだって、外で部活動をしていた生徒もいたはずだ。風景としての群集も、セナは一切描いたことがないように思えた。
「だって怖いんだもん」
「怖い?」
「人が意志を持って、もしかして話しかけてきたりとかしたら怖くない? 人見知りとかじゃなくて、誰でもない誰かが目の前にいるのが、私には耐えられない」
まぁ、確かに。
下手に肖像画など描いて、それが動くだけならまだいい。もし自分に似せた誰でもない誰かが話しかけてきたら、天宮だって戦慄する。それは生きているのか、ただの絵なのか。命があるのか、破いて捨ててしまうと殺したことになるのか。
そんな葛藤で悩むくらいなら、最初から描かない方が利口だ。
結局、一緒に過ごし、一緒に遊ぶ以上の進展はなかったけれど、それはそれで幸せだった。甘い日々だった。
「このことは誰にも言わないでね。私と宗太君だけの秘密だから」
別れ際、セナはいつもそう言っていた。授業や部活で絵を描く時も、左手を使っているという。涙ぐましいセナの努力を汲み取り、天宮は約束した。
絶対に誰にも口外しない、と。