第2章 地下室の男
昨夜に引き続き、被害者の残留思念を回収するため、天宮は『理容店KIRISAKI』を訪れていた。時刻は正午過ぎ。休日のせいか人通りも多く、高校生の天宮が私服でうろうろしていても見咎められることはない。
「…………」
店の場所は、どこの町にもありそうな商店街の中だ。行き交う人々の年齢層が高いことを除けば、特筆すべき点は何一つないだろう。
しかし『理容店KIRISAKI』だけは違った。
いかにも歴史がありそうな呉服屋と、人の良さそうなおばさんが立つ八百屋の間。煉瓦とコンクリートで固められた地下へ向かう細い下り階段は、さながらダンジョンの入り口のよう。もしくは階段に擬態した巨大生物が口を開け、獲物が飛び込んで来るのをじっと待っているとでも言うべきか。
階段の先を見下ろした天宮は、警戒するように左右を見回した。
ただの散髪屋に入るだけなのに、妙に緊張してしまう。未成年の自分がアンダーグラウンドな店に入ることを誰かに咎められるんじゃないかと、自意識過剰になっているのだ。
とはいえ、こんな場所で立ち尽くしていても仕方がない。
周囲の人々が疎らになるのを見計らってから、天宮は階段を一気に駆け下りた。薄暗くとも段差を踏み外すことなく、扉の前に到着する。
が――、
「『close』?」
扉には、休業の旨を伝えるプレートが掛けてあった。
休日の昼間に休業しているなんて、じゃあいつ営業するのかと首を傾げる。いや、閉まっているということは、里緒は出掛けているのだろうか。それとも事件の調査があるから、わざわざ臨時休業にしているのか。
どちらにせよ天宮は客として訪れたわけではない。プレートの内容に関係なく扉のノブを回すと――普通に開いた。
明度の高い白色光が虹彩を刺激する。すぐに順応した目で見回したそこは、昨夜と変わり映えのしない理容室だった。
いや、観葉植物で仕切られた待合席の一角が埋まっていた。
手にしているスマホから顔を上げたその男は、無表情のまま天宮を一瞥する。
「こ、こんにちは」
恐る恐る挨拶するも、怜生はわずかに顎を引いただけだった。反応してくれただけでもマシかと思う。昨夜はまったく会話らしい会話をしていないし、声を聞いたのも一度だけだったのだから。
なので簡単な質問をするだけでも、少しばかり腰が引けてしまう。
「えっと……里緒は?」
「姉さんなら出掛けている。第二、第三の被害者が殺された現場だ。俺はお前が来たら丁重にもてなせと言われた」
その態度が丁重なのかよと指摘してやりたかったが、それ以上に気になる情報を耳にして、天宮は眉を寄せた。残留思念を回収する際は、自分も同行させてくれるという約束だったはずなのだが。
「昨日の様子だと、どうせお前は退屈するだろうから、先に残留思念だけを集めてこようという姉さんの気遣いだ。四番目の被害者には必ずお前を連れていくから安心しろ、とも言っていた」
「……そうですか」
四番目の被害者といえばセナのことだ。里緒の配慮はありがたいが、できれば事前に連絡くらいはしてほしかった。
ただそうなると天宮は手持無沙汰になってしまう。どれくらい前に出て行ったのか、またはいつ頃帰ってくるのか訊ねようにも、再び黙り込む怜生に話しかけるのは二の足を踏んだ。そのため天宮は、店の入り口に突っ立ったまま呆然と店内を見回すばかりだ。
「そんな所にいないで、座ったらどうだ?」
「はあ……」
見かねた怜生が低い声で勧めてきた。いろいろ諦めた天宮は素直に従うことにする。
ソファの端に腰を掛けると、今度は怜生が立った。
「何か飲み物を淹れてこよう」
「いえ……おかまいなく」
「かまえ。こちらともてなすように言われているんだ」
そう言って、怜生は大股で店の奥へと引っ込んでいった。
もてなす心構えがあるのなら、もっと柔和に対応してほしいものだ。正直なところ、長身で無表情な年上の男というだけで、高校生の天宮にとっては委縮対象だというのに。まあ気持ち悪いくらい柔らかい里緒と比べれば、まだマシな方かもしれないが。両極端な姉弟だ。
怜生が持ってきてくれたオレンジジュースを前にして、天宮はまた固まってしまう。とても耐えがたい雰囲気だ。静かすぎて気まずい。時間を潰す用の少年誌や女性週刊誌も置いてあるものの、手に取る気にはなれなかった。自意識過剰だとは理解しているが、何故か一挙手一投足を監視されている気分になっていたからだ。
テレビやラジオのようなBGMもないため、秒針の音が妙に意識に浸透してくる。やることもなく途中まで数えていたが、時間が異様に長く感じられたので三十秒ほどでやめた。
気づかれないように怜生の方を一瞥する。瞼を閉じ、呼吸すら最低限に抑えている彼は、眠っているように見えなくもない。
だから『聞こえなかったら別にいいや』くらいの気軽さで声を掛けた。
「あの、怜生さん?」
「なんだ?」
即答だった。起きてるのかよと、天宮は心の中で毒づく。
とはいえ実際に質問したいことはあった。
「現実の風景を切り取るって、どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だ」
そう答えて、また黙ってしまった。
無口であることは最初から承知していたが、まさかここまでとは。天宮の方から何かしら会話の糸口を見つけなければ、再び重苦しい時間が訪れるだろう。
と思った矢先、天宮の予想とは裏腹に怜生の方が口を開く。
どことなくため息混じりだった。
「興味があるのか?」
「まあ……あるっちゃあります」
「そうか」
頷くと、怜生は首から下げている一眼レフカメラを手に取った。
「姉さんが他人の感情を切り取れるように、俺は実風景を切り取ることができる」
「そのカメラで?」
「そう、カメラで」
言い回しとしては、彼が手にしているカメラでなくても切り取れるように聞こえた。
「口で説明するよりも、実際に見せた方が早いな。そこを触ってみろ」
怜生が示したのは、ソファの後ろの白い壁だった。
言われた通り、天宮は手で撫でてみる。特に違和感はなかった。
「まったくの平らだろう?」
「ええ、まあ……」
「じゃあ退いてろ」
天宮が触っていた場所に照準を合わせ、怜生はほぼ接触しそうな位置でカメラのシャッターを切った。出来上がった写真は真っ白な壁だけが写っているか、あまりに近すぎて真っ暗なものになっているだろう。ただデジカメやスマホではないので、すぐには確認できないが。
「必要なのは写真じゃない。撮ったという『事実』だ」
意味が理解できず、天宮は怪訝そうに首を傾げた。しかし、それ以上の説明を受ける必要はなかった。
「あれ、色が変わった? いや、塗装が剥げたのか?」
カメラで撮られた場所が、白から茶色へと変色していたのだ。さらに色の境目を指でなぞってみると、さっきまでは確かに水平だったのに、わずかに凹んでいることが分かった。
その瞬間、天宮は結論に至る。同時に、全身が総毛立った。
現実の風景を切り取るって、まさか――、
「このカメラは特注でな。裏に調節用のつまみが付いている。最小は一ミリで最大が五センチだ。俺がカメラで写真を撮ると、最初に物体が写った地点から、つまみで調節しただけの奥行きを実際に抉り取る。ちなみに調節つまみのない普通のカメラなら、最大出力の五センチが常に発揮されることが分かっている」
つまりこの壁は、怜生のカメラによって実際に一ミリ以上抉り取られたというわけだ。
里緒の能力とは違い、目で確認できる異能を目の当たりにして、天宮は絶句した。
「す、すごい……」
言うまでもなく完全に兵器だった。点でしか狙えない拳銃とは比べるまでもない。写真は面で、しかも反動なしで連写もできる。貫通性が低いとはいえ、障害物さえなければ、どんなに離れていても必ず命中するだろう。
怜生の持つ能力の脅威を想像し、天宮は息を呑んだ。
しかし怜生の表情は芳しくなかった。眉間に皺を寄せ、天宮をきつく睨みつけている。彼と出会ってから初めて見る、感情らしい感情だった。
「すごい、だと?」
天宮の言葉を、怜生は凄みのある声で繰り返した。
不意にカツアゲにでも遭ったかのように、天宮は身を竦ませる。
「俺がどうやってこの能力を発見したと思っている?」
「そりゃ……写真を撮った時なんじゃ?」
「そうだ」
当然のように肯定。天宮には、怜生の問い掛けの意味が分からなかった。
「霧咲家は代々、右手が呪われた家系だった。俺の場合も、右手でシャッターを押さなければ能力を発揮できない」
と、怜生は己の右手をまじまじと見つめた。
どこか忌み嫌うような、憎しみの感情を込めて。
「ただ俺の能力は、何故かカメラという媒体が必ず必要だった。姉さんもハサミを使っているが、あれはあくまでも指の延長と見做してるのであって、右手だけで感情を切り取ることは造作もない。それは知っていたか?」
「まあ……」
「だから姉さんは、自分がどういう能力を持って生まれたのか、物心がついた時にはもう知っていた。本能的に、というよりは経験的に。なんせ二本の指を閉じるだけで、相手の感情を切り取ることができるんだからな。だが俺は自分がどういった能力を持っているのか、まったく見当もつかなかった。両親も姉さんも不思議がっていたよ。俺の手だけ呪われていないのは変だと。そして――」
怜生の表情が徐々に険しくなっていく。
「俺が自分の能力を発見したのは、小学六年生の時……修学旅行に行った時だ」
「あ……」
話の先に察しがつき、天宮はついつい声を上げてしまった。それと同時に、続きを聞きたくないがために耳を塞ぎたくなる。
だが怜生は容赦なく語る。
修学旅行では、一般的に何をするのか。
「あれは金閣寺だったか東大寺だったか、あまり思い出したくもないが……記念撮影を頼まれた俺は、デジタルカメラを持って、集合する班員を……撮った」
調節用のつまみがない普通のカメラでは、抉り取る奥行きは五センチで固定。
しかも記念撮影である。当然、被写体である班員たちは、カメラの前に顔をさらけ出していただろう。頭は髪の毛で多少は守られるとしても、顔面から五センチの奥行きでは……。
「全員死んだよ、俺の友達は。顔面の肉を抉り取られてな」
背中に寒気を感じた。胃の底から吐き気が込み上げてくる。
ただ話を聞き、想像しただけでも、その衝撃は大きい。
ならば当事者だった当時の怜生は、どんな心境だったのか。天宮が推し量ることなどできるはずはなかった。
「まあ……それからはいろいろ変わったよ。周囲の環境も、俺の人格も。こうやって惨い過去を普通に語れるくらいには、昔の自分を切り離すことができた」
「昔の自分を切り離す?」
「友人を殺してしまった少年は俺じゃない。拭いきれないトラウマを抱えた昔の自分を、客観的に見られるようになったってことだ。映画の中の悲劇の主人公を観ている感覚だな」
「…………」
自分の心を一旦真っ白に漂白し、新たな人格を作り上げる。とてもじゃないが、天宮にはマネできない芸当だと思った。
その理由は、今まさに同じ状況に追い込まれているといっても過言ではないから。
セナを失い、悲しみと憎しみが交錯する中で、犯人への復讐を誓った天宮。だが目的を達成した後、果たして自分は元通りの日常へ戻ることができるだろうか。もしくは怜生のように過去の自分を切り捨て、新たな人生を送ることができるか。
答えは否。できない、できるはずがない。
復讐を果たした後の世界など……セナのいない世界など、天宮には想像すらできなかった。
故に、小学六年生の時点で過去の自分に決着をつけられた怜生は、やはりすごいと思う。
「そういうわけだ。あー……天宮宗太」
初めて怜生に名前を呼ばれ、天宮は緊張した。ただそれは向こうも同じだったようで、他人の名前を呼び慣れていないのか、照れ臭そうに視線を逸らす。
しかし怜生が放った言葉は、真正面から天宮の胸を貫いた。
「この事件からは手を引け。以後、関わるな」
「……はい?」
耳を疑ったというよりは、ただ単純に理解ができなかった。おそらく話題転換が、あまりにも唐突だったからだろう。『この事件』というのが『切断魔』の件を指していることに気づくまで、少し時間を必要とした。
そのため怜生の言葉に抗議をする猶予もなく、彼は自分の忠告を訂正する。
「ああ、いや、言葉を間違えたな。お前が独力で犯人を追うことは咎めない。好きにやったらいい。だが霧咲家とは……姉さんとはこれ以上関わるな。これは助言ではなく、警告だ」
「どうして?」
「俺の過去を聞いてもまだ分からんか? 『呪家と関わるとロクなことがない』」
まるで格言のように怜生は言った。
確かに、その手で友人たちの命を奪った怜生が言うと説得力がある。いくら自分が気をつけていようとも、最悪の場合、死を覚悟しなければならない場面も出てくるだろう。
だけど、それが何だ。ロクな目に遭わないことが、死ぬことが何だというのだ。
天宮はすでに覚悟を終えているのだ。復讐を遂げられるのなら、その過程でどんな惨めな思いをしようが、何を失おうが構わないと。
だからこそ、胡散臭さ満点の里緒に手助けしてもらうことを甘んじて受け入れた。これが犯人の元へ辿り着ける唯一の道だと信じて。今さら手を引く気はない。
それに――、
呪家と関わるなと言われても、もう遅い。最初から始まっていたのだから。
セナと知り合った時点で、すでに。
「…………」
絶対に揺るぎそうにない天宮の意志を、その瞳から感じ取ったのだろう。眉尻を下げた怜生は、深々と息を吐き出した。
そして、また唐突に話題を変える。
「どうして姉さんが銀髪喪服なんて奇抜な恰好をしているか分かるか?」
「やっぱり弟の怜生さんから見ても、あの恰好は異様なんですね」
「当たり前だ」
真面目な顔で首肯したその動きは、何故だかとても力強かった。きっと自分がアレと同等のファッションセンスだと思われたくないに違いない。怜生の身なりは、里緒と比べれば何十倍もまともなのだから。
顔を伏せた天宮は、里緒が銀髪喪服の理由を考える。
「……分かりませんね」
「もうちょっと粘れよ」
そう言われても、できれば理解したくもなかった。
「姉さんを最初に見た時、お前はどう思った? どう感じた?」
「えっと……」
一昨日の夜、里緒と出会った時のことを思い返してみる。
夜道を単身で歩く、銀髪喪服の女。明らかに異様な姿だと警戒し、関わりたくないと思って道路脇に避けたはずだ。
「そうだ、その通りだ。姉さんのあの恰好は、他人の警戒心を高めさせるためにある」
「警戒心を高めさせるため?」
どういうことだ? 里緒は目的があって天宮に接触したのだから、警戒されたら逆にやりにくいのではなかろうか。
「姉さんは、急成長したお前の警戒心をバッサリと切ったんだよ。その結果、お前は何も疑わずに姉さんを信じることになった」
「……は?」
「率直に訊こう。姉さんと一緒に行動することになったのは、本当にお前の意思か?」
本当に自分の意思か、否か。だんだん頭が混乱してきた。
犯人への復讐心は間違いなく自分の意思だ。里緒と出会う前から心の底に根付いていたし、その後も特に変わったという実感はない。里緒に切り取られたり、感情が操作されたりなどはしていないはずだ。
しかし里緒と行動を共にすること自体はどうだ? 本当に自分の意思で選び取った選択だったか?
「警戒心を失ったお前は、疑うことを忘れ、ただただ流れに身を任せていた。違うか?」
「それは……」
成り行きに身を委ねたのは事実だ。だが、それは自分自身で選んだ行動だったはず。
いや、確かに里緒は天宮の警戒心を少し切り取ったと言っていた。その『少し』とは、どれくらいだったのだ? すべてを疑えなくなるくらい、警戒心を根こそぎ切り取られていたんだとしたら?
だとしても、それは里緒を疑わなくなったきっかけにすぎない。天宮の行動原理とは別物のはずだ。根底にある復讐心が健在ならば、天宮としては何も問題はなかった。
黙り込んでしまった天宮を見かねてか、怜生が唐突に立ち上がった。
「ちょっとついて来い」
「え?」
「いいから来い。店の奥に行くぞ」
有無を言わさず、怜生はさっさと行ってしまう。わずかに逡巡した天宮もまた、仕方なくその背中を追った。
何故か拘束具の備わった散髪用の椅子を通り過ぎ、店の奥にある扉へ。最初に天宮が目を覚ました時に、里緒が出てきた扉だ。今までいろいろありすぎて疑問にも思わなかったが、あの先はどうなっているのだろう。
怜生に続いて敷居を跨ぐ。そこに広がっていた光景は――普通の台所だった。
流し台に冷蔵庫に食器棚にテーブルに炊飯器に電子レンジに、そして小さなテレビまで。どこの一般家庭にもありそうな、それこそ天宮の家とまったく遜色のない、あまりにも普通すぎる台所だ。圧倒的に違うのは窓がないくらいだが、ここが地下だと思えば当然である。
どれだけ風変りな構造をした部屋なのかと身構えていた天宮は、その普通ぶりに呆気に取られてしまった。まるで見知らぬ他人の家に上がり込んだような感覚だ。いや、実際その通りなのだが。
「って、まさか住んでるんですか?」
「当然だ」
自営業の理容店は、自宅と直結している店がほとんどだ。天宮が通っている店も、扉一枚越えれば完全に他人の家であることは知っている。
とはいえ、地下にあるこの理容店にも住居スペースがあるのは驚きだった。地下室のある家には憧れるが、地下にしかない家にはあんまり住みたくないなと天宮は思った。
「こっちだ」
民家の中だと認識した天宮は、慌てて靴を脱いだ。
台所とを区切るガラス戸の向こうはリビングのようで、これまた平凡な様相になっている。あまり広いとは言い難いが、二人暮らしなら不自由はなさそうだった。
その他に扉は三つ。
怜生は、その一つへと足を向けた。
「さらに……地下?」
開け放たれた扉の先を目の当たりにして、天宮は訝しげに呟いた。
一歩踏み出したそこは、すぐ下り階段になっているのだ。店と地上を繋ぐ階段よりもさらに狭く、明かりらしい明かりもないので、歩を進めるかどうか躊躇ってしまう。
だが怜生の後頭部が闇へ沈んでいくのを見て、天宮は諦めた。
足元に気をつけながら、一歩一歩、壁を伝って下りていく。
「ここだ」
意外にも階段は数段しかなかった。危うく怜生の背中に衝突しそうになる。
天宮はつま先立ちになり、怜生の頭越しに前方を確認した。また扉だった。ただし階上の木製の扉とは違い、頑丈そうな鉄扉だ。表面を一見しただけでも、けっこうな厚みがあることが分かる。
それを見た天宮は、瞭然たる印象を受けた。
(まるで独房のようだ)
顔の高さにある格子が、看守と受刑者の関係をより明確に区別しているように感じられた。
天宮は首を振って自分の想像を振り払う。こんな場所に独房なんてあるはずがない。
だがしかし――、
怜生が開けた鉄扉の向こうを目撃した天宮は、驚きのあまり絶句した。
ギギギと錆び付いた音を立てて開いた先は、四畳半ほどの部屋だった。異様に高い天井からぶら下がる裸電球が、室内を淡いオレンジ色の光で照らし出している。それ以外で中にある物といえば、上辺に取り付けられた換気扇と、一番奥にある小さな棚くらいだろう。
そう、『物』は。
「誰……ですか?」
息を呑んだ天宮は、恐る恐る怜生の背中に問い掛けた。
独房の中には『人』がいた。四畳半の真ん中で車椅子に座り、微動だにしない男が一人。きちんと腰を深く掛けてはいるが、首はぐったりと床へ向き、全身に力という力が入っていないように見える。髪は伸び放題で、頬はげっそりと痩せこけていた。
そして虚ろな瞳は、無遠慮に入ってきた天宮と怜生に向けられることもなかった。
「姉さんの恋人だ。いや、恋人だった男か? 詳しいことは知らん」
「里緒の恋人?」
目を細め、改めて車いすの男を見定める。
とてもじゃないが、この男と里緒の間に、恋仲などという華やかしい関係があったとは思えなかった。いや、それどころか……。
「この人、死んでるん……ですか?」
「いや、生きている。すべての感情を削ぎ取った上で、姉さんが軟禁しているだけだ」
「軟禁……」
不穏な単語が飛び出たが、この独房のような部屋を目にしている手前、そこまで驚きはしなかった。それよりも、里緒が自分の恋人を軟禁している理由の方に関心が移る。
「どうして、そんなことを?」
「さあな。ただ一つ言えるのは、この男の感情はもう元には戻らないってことだ。昨夜、王子創平の末路は見たな? アレが丸坊主だとすると、この男はすべての髪の毛を永久脱毛された状態ってところだろう」
「えっと、つまり……」
「ただの廃人ってことだ。ちなみに感情……何か行動を起こすという意思がないだけで、意識も思考能力もある。俺たちがこうやって話していることも、この男の耳にはちゃんと届いているはずだ」
「なっ……」
驚いた天宮は、思わず車椅子の男を凝視した。
死人のように固まり続ける男。その顔に表情らしい表情はなく、全身の筋肉が弛緩しているかのように、ぐったり項垂れている。こちらの言葉がちゃんと聞こえているなど、とても信じられそうになかった。
いや、完全に感情を失ったこの状態は、すでに『死んでいる』のと同じなんじゃないか?
五感すべてが正常に働いてるなら『生きている』のか。脳と心臓が動いていれば『生きている』のか。それとも他人と対話ができなくなった時点で『死んでいる』のか。
……わずか十数年しか生きていない天宮には、確固たる死生観を己の中に導き出すことはできなかった。
すると突然、怜生が身を翻した。衝突しないよう、天宮は慌てて壁に身を寄せる。
「そろそろ姉さんが帰ってくる頃だ。上に戻ろう」
いつもと変わらない歩調で、怜生は階段を上っていく。あまりの素っ気なさに唖然とした天宮は、一度だけ車いすの男を振り返った後、静かに鉄扉を閉めて怜生を追った。
「……あの人を軟禁してる理由って、本当に里緒から聞いていないんですか?」
「…………」
返答はない。しかし今までの会話から察するに、本当に知らなければ知らないと冷たくあしらうはずだ。つまり無言なのは、あの男に関してあまり多くを語りたくないということ。
そう判断した天宮は、それ以上の追求はしなかった。固く閉ざした怜生の口を開けさせるような話術など、自分は持ち合わせていない。
リビングに出たところで、怜生から代わりのような回答が返ってきた。
「分かっただろう? 姉さんは自分の恋人までも廃人にし、軟禁している。言ってしまえば異常な能力を持った、異常な人間だ。一般人のお前とは釣り合わないんだよ。だから手を引け」
ここでようやく怜生が店の奥へ連れて行った理由を理解した。
里緒の異常性を見せつけて、天宮に身を引かせるよう誘導しているのだ。自分の姉は恋人さえ廃人にする狂った女だ。お前のことなんて実験動物程度にしか思っていないだろう、と。
「でも……」
葛藤が生まれる。ここで手を引くのは、あまりにも惜しい。
里緒と行動することにも利点はある。事件を担当する刑事と知り合えたし、敵対したとはいえ、独自に調査をしている探偵とも出会った。そしてまだ詳細は聞いていないが、死者の残留思念とやらを調べれば、さらに犯人へ近づけるだろう。
これらすべて天宮一人では成し得なかったこと。確かに手放しには信用できないとはいえ、もう少し情報を集めてから縁を切っても遅くはないんじゃないかと思う。
「少なくとも、青山セナが死ぬ直前に遺した感情だけは知りたそうな顔をしているな」
「――ッ!?」
図星ど真ん中だったため、天宮は狼狽を隠せなかった。まさか顔に出ていたとは思わず、慌てて顔面の筋肉をほぐす。
やはり一番の理由は、それだった。
もう一度セナの声が聞けるなら。もう一度セナと触れ合えるなら。
あの車椅子の男のような廃人に成り下がろうとも、惜しくはない。
「はぁ。まんまと釣られたってところか」
「え?」
ため息混じりに紡ぎ出された怜生の言葉は、天宮の耳には届かなかった。
聞き返そうにも、邪魔が入る。怜生が自宅と店内を結ぶ扉を開けるのと同時に、店の入り口の扉も開いたからだ。
現れたのは『理容店KIRISAKI』の店主、霧咲里緒。彼女は二人の姿を認めると、にんまりと笑ってみせた。
「ただいま。あらぁ、二人とも奥で何をしていたのかしらぁ?」
「…………」
「なにぃ? 二人そろってだんまりで。男同士で密会なんて、いやらしいわねぇ」
冗談めかしに言うものの、その目はまったく笑っていなかった。無表情で黙り込んでいる怜生以上に、里緒が何を考えているのか推し量ることができず、天宮は怯えたように全身を震わせた。
(本当に裏の見えない女だ)
彼女の秘密を知ってしまった今、天宮の抱く猜疑心が徐々に膨らんでいく。
「ふーん、まあいいわ。そうそう、帰ってきたら店先に珍しい子がいたわよ」
「珍しい子?」
「さ、入ってきなさいな」
開け放たれた入り口に向けて、里緒は手招きする。訝しげに首を傾げた男二人の前に現れたのは、昨夜と同じゴシックロリータ姿で仏頂面を引っ提げた王子真理子だった。




