第3章 王子兄妹
静まり返った住宅街を、里緒と怜生、そして天宮の三人は無言で歩いていく。
一戸建て住宅の多い区域だった。中には明かりの漏れている民家もあるが、住人の声は聞こえてこない。人の息吹を感じられない寝静まった深夜というのは、本当の意味で昼間とは別世界なんだなと、天宮は思った。
時間が静止したような児童公園の横を通り過ぎる際、前を行く霧咲姉弟の背中を見て、ふと疑問を抱く。
先頭を歩くのは、銀髪に喪服姿という奇抜なスタイルをした女性。高校男児の天宮より少しだけ背が低く、全体的に華奢な体躯である。しかしハサミで他人の感情を切り取るといった摩訶不思議な能力を持ち、さらに時折見せる腹に一物を抱えた笑顔が、この上なく不気味だった。
その隣には、自分の姉を護衛するように付き従う背の高い男。天宮より幾分か年上で、決して体格が良いとは言えないものの、サシの喧嘩ならまず勝てないだろうなと思わせるくらいの威圧感はあった。
姉に比べれば、こちらはまだ普通の身なりである。ただ天宮は、未だに彼の声を耳にしていない。里緒とは違った意味で中身の読めない人物だった。
疑問の矛先は、そんな二人の後ろを当たり前のようについて行く自分に対してだ。
確かに自分は復讐を誓い、そのためにはどんな犠牲も厭わないと覚悟を決めた。犯人を殺せるのなら、それこそ己の命と引き換えにしても構わないと。
しかし、それは霧咲姉弟を信用するための材料にはなり得ない。いくら危険を承知しているからといって、裏切りを懸念することも、今の状況が罠だと疑うこともなく、のこのこついて来てしまっている。驚くほど不安に思っていない自分が、不思議といえば不思議だった。
とはいえ、そんな疑問を口にしている暇もない。数分後、ここら一帯の象徴だと言わんばかりに聳え立つ、分譲型マンションの前に辿り着いた。
「ここね」
オレンジ色に輝くエントランスへ目を向けた里緒が、短く言った。
「こういうマンションって、中の住人に開けてもらう必要があるんじゃないのか?」
「はあ。貴方、本当に何も知らないのねぇ」
バカにした言い方が癇に障るも、何も知らないのは事実なので反論はしなかった。天宮にとってセナ以外の被害者など、どうでもよかったからだ。
「用があるのはこっちよ」
そう言って向かった先は、エントランスから少し離れたゴミ捨て場だった。
夜間であるためか、コンクリートで囲われたスペースには何もない。収集日を報せるプレートと、動物に荒らされないための網が転がっているだけだ。
「最初の被害者はこのマンションの住人。遺体はゴミ捨て場の中に放置されていたらしいわ。両耳を三半規管ごと抉り出されてね。まったく、こんな場所で死体を発見した人も不幸よね。一生もののトラウマだわ」
それには天宮も同意だった。もし発見したのがゴミ出しの際だったら、今後一生、ゴミを出すたびにフラッシュバックしてもおかしくはない。
頭の片隅で第一発見者に同情しながらも、天宮は里緒に訊ねた。
「それで? 死体の発見現場に来て、どうするんだ?」
「こうするのよ」
当然のように言い放った里緒は、ポケットから抜き身のハサミを取り出した。初対面の時に天宮を昏倒させたり、店の中で悲しみの感情を切り取った例の散髪用のハサミだ。
その銀色の輝きを見た天宮は少しだけ警戒心を高める。しかしハサミの先端が向けられているのは天宮ではなく、何もないゴミ捨て場の方だった。
「何もない? いいえ、私には見えるわよぉ。死者の遺した残留思念が」
射的で景品に狙いを定めるように片目を閉じた里緒は、ゆっくりとハサミを振り上げる。そして袈裟斬りをするのとともに、途中でハサミを一度だけ開閉させた。
「えいっ☆」
ヂョキンッ! と、何かが切られる音が響いた。
すると里緒はハサミをポケットに戻し、ゴミ捨て場の何もない空間に向かって右手を伸ばした。妙に滑らかな指の動きで、何かをやっている。その仕草は、まるでマリオネットを操る人形師のよう。だが彼女の指先には糸などないし、ゴミ捨て場の中で何かが動いている様子もなかった。
と、次第に指先だけではなく、右手で何かを掴み取るような動きになった。最終的には空気中の何かを小さく握りしめ、懐から取り出した小瓶の中に入れて蓋をした。
「はい、これで終わり」
「…………は?」
意味が分からなかった。いつ始まったのかも、何が終わったのかも。
里緒が得意げに小瓶を見せつけてくるので、天宮は怪訝そうな顔をして覗き込む。透明な小瓶の中には何も入っておらず、反対側の薄暗い景色が歪んで見えるだけだった。
「被害者の残留思念がこの瓶の中に入っているのよ。ま、私以外には視えないけど」
「……そんな簡単に? いや、そんなこともできるのか?」
「できるわよぉ。人間の感情に関してなら、私は何だってできるわ」
一杯食わされたような気分だった。もしくは狐につままれたとでも言うべきか。
当然、天宮はこんなことで納得しない。
「それで、何か分かったのか? 被害者が殺された状況とか」
「もう、せっかちさんなんだから。今は残留思念を切り取って、瓶詰めしただけ。これからこれを持ち帰って解析するのよ」
「別にここでやればいいんじゃないのか?」
「やあよ。寒いし眠いし。早く帰りたいわ」
彼女の自分勝手な言い分に、少しだけ腹が立つ。だったら自分が同行する必要はなかったんじゃないのかと感じたからだ。
「捜査ってのはね、足で稼ぐことが大事なの。それと冷静になって全体を眺めることもね。貴方はセナちゃんのことばかり考えて、それ以外を疎かにしていた。それに地道な努力を積み重ねれば、ただの高校生にだって殺人事件の捜査もできることを教えてあげたかったのよ。だから怒らないでくれるかしら?」
歯噛みしながら里緒を睨みつけていた天宮は、ため息とともに力を抜いた。
その通りだ、と思ったからだ。
里緒がいなければ、彼女の手助けがなければ、自分は最初の一歩を踏み出すことすらしなかったに違いない。セナを殺した犯人に復讐を誓いながらも、結局は泣き寝入りすることになっていただろう。
被害者の残留思念を回収する。最終的な目標からすればほんの些細な前進でしかないが、一人では何もできなかった天宮にとっては、大きな一歩だった。
感謝するほどのことではないとはいえ、自分は里緒にとやかく言える立場ではない。
ただ、どうしても指摘しておくべきことはあった。
「その歳で『えいっ☆』はないだろ」
「ふーん、この私のエロロリボイスを否定するの? 覚悟はできているのかしら?」
再びハサミを抜いたため、天宮は潔く降参した。異能がどうとか関係なく、どうあっても勝てる気がしない。兄弟のいない天宮は、姉という存在の恐ろしさを初めて知ったのだった。
「さぁ、帰るわよ」
里緒の催促により、三人は来た道を引き返した。
と――数歩も進まないうちに、彼女は立ち止まる。
「?」
訝しげに思った天宮は里緒の横顔を眺め、次いで彼女の視線の先へと目を移した。そこで里緒が足を止めた理由を知る。進行方向に奇妙な二人組が立っているのだ。
一人は披露宴の新郎くらいしか着そうにない、真っ白なスーツ姿の青年だった。歳の頃は怜生と同じくらいだろうか。身長もまた彼と同様、天宮からすれば少し視線を上げなければ目が合わないほど上背があるが、共通点と言えばそれくらいのものだ。
何というか、清潔感がまるで違った。自分の身なりをまったく気にしない苦学生のような怜生とは対照的に、青年の方は主に仕える執事のようにピンと背筋を伸ばし、髪は見事なオールバックで決めているのだ。そして何より正反対なのは、その顔に浮かんでいる笑みだろう。契約するかどうか迷っている商談ならば、無条件で信頼してしまうくらい、青年の笑顔には誠実性があった。
対するもう一人の方は、むっつりと顔を顰め、口元をへの字に曲げた少女だった。見た目はとても幼く、おそらく十歳前後といったところだろう。
全国のどこにでもいそうな、ちょっと無愛想な小学生の女の子……と、簡単にまとめることはできそうにない。というのも、その理由は彼女が身に纏う衣装にあった。
一言で言えばゴシックロリータ姿なのだ。
ふわふわなレースをあしらったスカートは長く、足元が完全に隠れるほど。身の丈は百三十センチ程度で小学生としては普遍的な身長だが、隣に並ぶ青年と全身を包む衣装が大きめのせいで、本来の少女よりも小柄に見えていた。
その姿は、さながら絵本から出てきたお姫様のよう。ただ全体的に黒い衣装は周囲の暗闇と完全に同化し、輝かしい雰囲気からはかけ離れてしまっているが。
たっぷりと時間を掛けて観察した後、里緒が小声で呟いた。
「あらぁ。なんとも奇抜な恰好をした二人組が現れたわねぇ」
その言葉に、横にいた天宮は本気で驚いた。銀髪喪服の女が何を言ってやがる! と、その命を賭してでも突っ込んでやりたかったくらいだ。ただ怪しげな二人組が物々しい雰囲気を放っていたので、目を剥いて里緒の横顔を睨むだけで終わったが。
「こんばんは」
と、白いスーツの青年が屈託のない笑みを浮かべて言った。
あまりにも他意を感じさせない態度に、天宮は逆に警戒心を高める。しかし里緒の方は当たり前のように挨拶を返した。
「こんばんは」
「失礼ですが、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「あらぁ、何かしら?」
まるで近所付き合いの良い者同士が会話するような口調だ。身なりだけは上等な二人は、時と場所さえ異なれば、上流階級の社交辞令にも見える。ただし結婚式と葬式の違いはあるが。
青年が天宮たちの背後を指で示した。
「貴方がた、そこのゴミ捨て場で何をしていたんですか?」
「何もしていないわよ。それにたとえ何かしていたとしても、貴方に教える義務が私たちにあるのでしょうか?」
「あぁ、これは失礼。失念していました」
ゴミ捨て場を示していた人差し指で自分のこめかみを突いた青年は、恭しく頭を下げた。
「僕は王子探偵事務所の王子創平といいます。こちらは妹の王子真理子です」
「王子探偵事務所?」
口の中で疑問を放った里緒は、訝しげな表情を露わにした。
天宮もまた眉を寄せながら、頭頂部をこちらへ晒す王子創平と、眠たそうな半眼で微動だにしない妹の真理子を睨む。探偵には相応しくないであろう服装はもちろん、こんな時間、こんな場所にいることが明らかに不審だった。
「実は現在、連続殺人事件の捜査をしておりまして。何か手がかりを得るために、こうやって第一の殺害現場へと足を運んだのです」
「探偵が自発的に事件の捜査に乗り出すとは思えないわ。依頼人は誰かしら?」
「はは。いくら何でも依頼人の素性を話すわけがないでしょう。僕の事務所はまだまだ弱小ですが、守秘義務はきちんと守りますよ」
優男然とした創平は、朗らかに笑ってみせた。服装や仕草、そしてルックスからして『貴公子』という言葉が似合いそうな男だ。女性にコアなファンがいても全然不思議ではない。
だからこそ彼の纏う雰囲気が変化したことで、天宮は少なからず恐怖心を抱いた。
「で――」
創平の声音が低くなる。
「端から見ていましたが、貴方は現場から何かを集め、懐に収めていましたね? 事件の早期解決のため、できればそれを譲ってほしいのですが」
「コレは私にしか見えない物なのよ。貴方に渡しても無意味だわ」
「そのように判断しましたら、すぐにお返しします」
「…………」
里緒が目を伏せた。時間を掛けてゆっくりと、大きなため息を見せつける。
すると彼女は、今までの問答とはまったく関連性のない問いを口にした。
「王子っていうと、呪家の家系かしら?」
「そうですよ。そういう貴方、霧咲家も呪家ですよね?」
「あら、私をご存じですの?」
「もちろんです。銀髪に喪服姿。店も営む貴方は、この辺りではとても有名ですので。確かハサミで他人の感情を切り取る能力でしたよね?」
理解のできない会話に、天宮は完全に置いてけぼりだった。
横目で怜生を見てみる。彼の顔に変化はなく、いつも通り口元を真一文字に結んでいる。こいつらは何者なのか。呪家とはいったい何なのか。訊ねたいことは多々あったが、怜生とは未だに言葉を交わしたことがない。さらに対峙している二人がどこか剣呑な雰囲気を漂わせているため、気圧された天宮はただただ成り行きを見守ることしかできなかった。
「貴方が集めたのは、死者が遺した感情か何かでしょう。無駄なのは百も承知ですが、一度だけそれを僕に預けてみませんか?」
物腰の低い、しかし棘のある言い方だった。
対する里緒は物怖じした様子もなく、陰鬱そうな顔を露わにしてそっぽを向く。
「やーよ、面倒くさい」
容赦なく突っぱねられたものの、創平の表情に変化はなかった。おそらく拒否されることは想定済みだったのだろう。彼は屈託のない笑みを貼りつけながら、宣戦布告をする。
「そうですか。では、実力行使で奪っても構いませんよね?」
「それを面倒くさいと言っているのよ。怜生、私は帰るわ。足止めしておきなさい」
里緒が唐突に踵を返した。代わりに怜生が前へ出る。
そして彼は何故か、首から下げている一眼レフカメラを王子兄妹に向けた。
「気をつけろ。俺のカメラは現実の風景を『切り取る』」
「――ッ!?」
怜生の警告に、創平は表情を一変させた。笑みを消し、叫ぶ。
「真理子! 隠れろッ!」
瞬時の判断だった。創平は電柱の陰に隠れ、真理子は違法駐車している車の後ろへと身を潜める。
数秒間、緊迫した空気が流れた。
膠着状態が続く中、状況を見極めた里緒はさっさと行ってしまう。
「さ、天宮君。帰るわよ」
「え?」
間抜けな声を上げるも、里緒の足は止まらない。夜闇に吸い込まれていくその黒い背中を、天宮は慌てて追いかけた。
「あのままでいいのか?」
「いいのよ。怜生が足止めしている間に、私たちはさっさと帰りましょう」
それは暗に、店まで歩いて帰って来いと言っているようなもの。車で十分くらいは走ったような気もするが……。
いや、そんなことはどうでもいい。
不思議なのは、どうしてカメラを向けただけであの探偵たちを足止めできるのか。
大回りをして長谷川の車まで戻る途中、天宮は遠慮がちに訊ねてみた。
「なあ、呪家って何だ?」
「さっき車の中で説明したように、呪われた部位を持つ家系のことよ。被害者が四人もいることから分かるでしょ? 呪われた部位を持つ人はたくさんいるのよぉ。私の知る限り、あの王子って男の家系は――」
不意に里緒の言葉が途切れた。同時に足も止まる。訝しげに思った天宮は、何かを諦めたように肩を落とす里緒を確認し、その視線の先を見た。
進行方向には、足止めされていたはずの王子創平が立っていた。
やや息を弾ませながら、先ほどとは性質の異なる笑みを浮かべている。
「怜生の奴、足止めに失敗したのね。あとでお仕置きだわ」
小さく悪態をついた里緒は、すぐに嫌味たらしく微笑みかけた。
「あらあら。一生懸命走っちゃって、ご苦労なことね。髪型が乱れているわ。せっかくの男前が台無しよぉ」
「ふん。僕はこう見えて諦めが悪いものでね」
強がりつつも、ニヒルに笑う。
怜生にカメラを向けられ電柱の陰に隠れた創平は、真理子を囮にして、里緒たちとは反対方向へ向かったのだ。遠回りをしながらも、全力疾走の果てに先回りを成功させる。あまり肉体派には見えないが、よく走ったものだ。
「まあ、真理子も少しばかり攻撃的な能力を持っているからね。弟さんを牽制するのは簡単だったよ」
言っている間にも、創平は息を整える。
そして今一度、同じ要求を放った。
「さぁ、貴方が回収した物をこちらへ渡すんだ」
「嫌だと言っているでしょう? しつこい男は嫌われるわよぉ」
「ならば……力づくだ」
次の瞬間、里緒が唐突に片膝をついた。苦悶の表情を浮かべながら、目頭を押さえている。
「里緒!」
「やって……くれたわね」
天宮が名前を呼ぶも、里緒は忌々しそうに呟くだけだった。
何が起きたのか、天宮には一寸たりとも把握できなかった。今、何をした? 息を整え、背筋を伸ばした以外は、動作らしい動作は何一つなかったはず。しいて言えば、強烈な目力で里緒を正面から睨みつけたくらいだろう。
「理不尽な攻撃だと思ったかい? 少年」
矛先が自分に向き、一気に緊張が高まった。
今まで不遜な態度しか見せていなかった里緒が、正体不明の攻撃によって、いとも容易く膝をついてしまったのだ。創平が里緒と同じような異能力を持っているなら、ただの一般人である天宮に対抗できるわけがない。
「なんなら、すべてが反転した世界を君も体験してみるかい? なに、実害はあまりない」
「天宮君、彼の目を見てはダメよ」
「目?」
だが、遅かった。
王子創平の目を見た瞬間、まず最初に猛烈な吐き気が襲った。
咄嗟に瞼を閉じる。普段とは比べ物にならないくらいの情報量が視覚から侵入し、正常な脳細胞を破壊していく。後頭部の辺りがチクリと痛んだが、それは一瞬だった。その後、一時的に混乱していた頭の中がゆっくりと元の状態へ修復されていく。数秒後には、創平の目を見る直前と変わらない平静さを取り戻していた。
恐る恐る目を開ける。そこに正常な景色は存在していなかった。
「なんだよ……これ……」
目の前には反転した世界が広がっていた。
まず、地面が上にあった。前方に立つ創平は、当然のように地面に足をつけ……つまり宙吊りの状態になっている。上下逆さまの世界。
右手を上げれば左側の手が上がり、左手を上げれば右側の手が上がる。左右反転の世界。
だが、それだけじゃない。夜間のはずなのに周囲は目を細めてしまうほど明るく、創平の白いスーツは漆黒へと変貌を遂げていた。
突如として改変された世界に平衡感覚を失った天宮は、思わず膝をついてしまう。錯乱するほどではないものの、とてもじゃないが直視できそうになかった。
「目に宿る異能。それが王子家の呪いであり、視た者を『反転させる』というのが僕に顕現した特有の能力さ。上下左右、さらに明度と色彩も反転した世界を目の当たりにした気分はどうだい? 少年」
相手の目を見つめただけで一瞬にして脳に干渉し、視覚を狂わせる能力は、不意打ちならば確かに厄介かもしれない。実際に天宮も、歪んだ世界を目の当たりにした瞬間は吐き気を催したくらいだ。慣れるまで余計な動作をしない方が得策だろう。
だがしかし――、
「訊いてもいないことを、よくもまあペラペラと喋るものねぇ。こんなもの、ネタが分かれば怖くも何ともないわ」
その通りだ。
決して現実の風景が反転したわけではなく、あくまでも脳が誤動作を起こしているだけなのだ。頭の回転が速い者なら、世界をそういうものだと受け入れるのも容易。最悪目を閉じれば明度以外の情報は遮断できるので、それほど脅威ではないはず。
里緒はすでに体勢を立て直していた。足元もしっかりしており、眩しそうに目を細めている以外は、特にダメージを負った様子もない。ポケットからハサミを取り出し、臨戦態勢を整えていた。
「僕の能力の真髄はここからさ。反転した視界は徐々に元の形へ戻っていく。異常と正常が混じり合った世界を、君たちは直視できるかな?」
「だからネタが分かれば怖くないって言ってるでしょ?」
腕を正面に伸ばし、ハサミの切っ先を創平へ向ける。しかし創平は怯むどころか、まったく足取りを緩めることはない。
里緒は呆れたように嘆息した。
「相手の能力を分析もせず近づいてくるなんて、本当に甘いわね」
失望すら入り混じった口調で、里緒は躊躇いもなくハサミを薙いだ。
王子創平のどんな感情を切り取ったのかは分からない。しかし天宮にそうしたように、相手の意識を奪ったり、反抗意欲を失わせることもできるはずだ。里緒のハサミに直接的な攻撃力はないが、たった一回、刃を開閉させるだけで決着はつくだろう。
なのに、創平は歩みを止めない。
「?」
口元を歪めた里緒は、何度も何度もハサミを薙いだ。
しかし創平に何かしらの効果が現れた様子はない。
「……どういうこと?」
ついには、無様にも相手に説明を求めてしまった。
その言葉が合図だったかのように、創平は勝利を確信した笑みを浮かべた。
「残念ながら、甘かったのは貴方の方だ」
次の瞬間――里緒は背後から創平に羽交い締めにされた。
「僕が自分の能力を説明したのは、貴方の油断を誘うためさ」
「なに――」
創平の手刀が里緒のハサミを落とす。相手が武器を手放したのを確認するやいなや、創平はより強い力で里緒を拘束した。体格からしても、里緒が振り解けるとは思えない。
「僕の目を見た人は世界が反転してしまう。自分の能力をあっけなく開示したことで、貴方は疑おうとしなかったはずだ。上下左右だけでなく、もしかしたら前後も、そして平衡感覚すらも反転しているんじゃないか、と」
「つまり私は、まったく別の方向にハサミを向けていたってことね?」
「貴方はハサミの先端を対象に向けていなければ、感情を切り取ることができない。調査済みだよ」
「なるほど。それで天宮君にも能力を使ったってわけか」
「ご明察」
天宮が正常な目をしていたら、里緒がまるっきり出鱈目な方向を狙っていたことに気づいたはずだ。それを阻止するため、天宮も里緒と同じ状態になってもらう必要があった。
里緒は悔しそうに歯を食いしばる。
「おっと少年、君は動かないでくれ。とはいっても、君が手を伸ばした先にハサミは落ちていないがね」
里緒が落としたハサミを拾おうとする天宮に、創平は釘を刺す。しかし彼が言った通り、どこをどう動かせばハサミに手が届くのか、まったく見当がつかなかった。前後左右上下不覚の世界は、完全に未知の領域だ。
「では、目的の物を探させてもらおう」
そう言って、創平は里緒の身体を弄り始めた。
「あぁん、どこ触ってるのよ。変態!」
「貴方が予備のハサミを隠し持っていないか、念には念を入れてるんですよ」
さすがに散髪用のハサミくらいなら、服の上からでも所持の有無が確認できるのか、身体検査はすぐに終わった。加えて里緒が先ほど回収した、被害者の残留思念が入った小瓶も盗られる。創平はそれを目の高さまで持ち上げた。
「本当に何かが入っているようには見えないな。けど、貴方には回収した被害者の感情が見えているのでしょう?」
「当然じゃない。見えなけりゃ、切り取ることなんてできないわ」
すると突然、里緒が脱力した。創平に全体重を預けるようにして項垂れる。
体調でも崩したんだろうかと訝しんだ創平だったが、里緒が小さく「ふぅー……」とため息を漏らしていることから、完全降伏したのだと解釈した。
だが、実際には違った。
里緒の口から呆れた声が漏れる。
「ほんっと、甘ちゃんよねぇ。得物を手放させたくらいで油断しちゃって。相手の能力を把握できていないのはどっちなのかしら」
「なに?」
ヂョキン! 何かが引き千切れる不快な音。
創平は咄嗟に里緒から離れた。自分の身に起きた異変を瞬時に察知しながらも、視線を地面へ向ける。ハサミはアスファルトの上に転がったままだ。
「いったい、どうやって……」
里緒が予備のハサミを隠し持っていないと確信しているからこそ出てきた疑問。いや、そもそも服の中に手を忍ばせる余裕すらなかったはず。
「貴方は少し勘違いをしていたようね。自分の情報収集能力を過信しすぎて」
「……どういう意味だ?」
「誰かが言った? 『霧咲里緒の能力はハサミで他人の感情を切り取ることだ』って。別にはっきりと説明を受けたわけじゃないでしょ? 貴方は勝手に思い込んだだけ」
そして里緒は、してやったりと言わんばかりの笑顔でピースをした。
「実はね、指でも切り取ることができるのよぉ。ハサミよりは精度が落ちるけど」
愕然としたのは、なにも創平だけではない。天宮もだった。
里緒が理容師だったこともあり、感情を切り取るという能力とハサミは切り離せないものだと思い込んでいた。しかし思い返せば、先ほど残留思念を回収する際、右手を使って何かをしていたような気もする。
つまり『切り取る』ではなく『引き千切る』なら、別にハサミがなくとも実現可能だったというわけだ。
「それに……」
口元を三日月形に歪ませた里緒が、すぐ傍にいる創平の手首を掴んだ。
「こうやって接触していれば、視覚がどうなっていようと関係ないものねぇ」
ヂョキン! とまた音がして、今度は創平が膝をついた。
天宮も実体験しているため、創平の身に何が起こったのかは理解できる。悲しみを失った後は爽快感が頭を満たすのだが、感情を切り取られた直後だけは、ものすごい喪失感に襲われるのだ。自分の中から大事な物がごっそりと奪われたことにより、一時的に全身の力が抜けるのである。
「さぁ、貴方の闘争心と優越感を切り取ったわ。けど、これで済ますつもりはないわよぉ。私の身体を無遠慮に触りまくった罪は重いんだから」
悪魔的な笑みを浮かべると、そこからは里緒の独壇場だった。
殺害現場である分譲型マンションの前に戻ってきたところで、天宮はドン引きした。
天宮たちが立ち去った時と同様、怜生と真理子は拮抗状態に陥っていた。ただ、その光景があまりにもシュールすぎたのだ。
自動車の後ろに身を潜める年端もいかないゴシックロリータ姿の少女と、そんな彼女へ一心不乱にカメラを向ける二十歳前後の青年。通報されても文句の言えない状況だった。
「怜生。もういいわ、終わったわよ」
里緒が声を掛けると、怜生は従順な飼い犬のようにカメラを下げた。彼は無表情を保ったまま、姉の後ろへ回る。
それと同時に、車の後ろから漂う気配が一変した。兄が追いかけていったはずの敵が、何事もなく戻ってきたのだ。姿は見えずとも、動揺している様子は手に取るように分かった。
「真理子。出ておいで」
創平が言った。
するとフリルのスカートを翻しながら、真理子が車の陰から飛び出してきた。
「……兄様?」
無垢な瞳を潤ませて、彼女は怪訝そうに首を傾げる。
「ごめん。どうやら僕は負けてしまったようだ。調査は中止だよ。さあ、帰ろう」
「兄……様……?」
愛しの兄が呼びかけているというのに、真理子はその場で硬直したままだった。それどころか近寄ってくる創平に対して、避けるように身を引いている。
「あ……あ……あぁ……」
ついに真理子は頭を抱え、嗚咽まで漏らし始めた。
彼女の反応を目の当たりにした天宮は、いたたまれずに目を逸らす。天宮は一人っ子だから兄弟はいないが、もし身内が突然あのような状態で現れたら、今の真理子と同じような絶望感を抱くに違いない。
創平には、表情が無かった。
優しく語りかけているのに笑顔ではなく、勝負に負けたというのに悔しそうではなく、敵が隣にいるのに闘争心はなく、これから帰宅するのに解放感はない。
完全な無表情。
王子創平は目を開け、口を動かし、ただ立っているだけの人形に成り果てていた。
幼い真理子の顔が、みるみるうちに憎悪の籠った表情へと変化する。
「貴様ぁ! 兄様に何をしたぁ!」
幼少期特有の金切り声だったが、子供とは思えない力強さを備えた咆哮だった。
自分よりも幾分か年下の少女だというのに、天宮は怯んでしまう。横を見ると里緒もまた身震いしているようだったが……どうやら天宮とは違う意味で震えているようだった。
「ああ、気持ち良いわぁ。その殺意、惚れ惚れしちゃう。でもダメよ。貴方では全然足りないの。この私をイかせるには、もっと激しい憎悪じゃないと」
「殺してやる、殺してやる、殺してやる……」
呪詛を吐く真理子の目つきが鋭くなる。照準は完全に里緒の顔へ定められていた。
周囲の雰囲気が変化する。空気が張りつめ、空間が収縮しているような錯覚に陥った。
ピシッと、足元のアスファルトがひび割れた。
王子家は目が呪われた家系だと、創平が言っていた。つまり創平の妹である真理子もまた、目に関する異能を宿しているのかもしれない。そう判断した天宮は、すぐさま里緒に向けて忠告しようとしたのだが――、
里緒と真理子の間に、創平が割って入った。
「ダメだよ、真理子。今夜は僕らの負けだから、潔く帰ろう」
兄に諫められ、牙を収めた真理子は大きな泣き声を上げながら創平に抱き着いた。
兄妹の行く末を見届けることもなく、里緒は踵を返した。このまま長谷川の車へ戻るつもりだ。特に掛ける言葉を持たない天宮と怜生もまた、彼女の背中を追う。
途中、天宮が訊ねた。
「一生あのままなのか?」
「いえいえ、そんなことはないわよ」
里緒はいつものような軽い口調で言った。
「喜怒哀楽を筆頭に、日常生活に必要な感情を極限まで短く刈り取っただけよ。髪の毛で言ったら、丸坊主ってところね。別に永久脱毛したわけじゃないから、すぐに生えてくるわよ。個人差はあるけど……ま、一週間もあれば、ある程度は戻るんじゃないかしら」
それを聞いて天宮は安堵した。王子兄妹には何の義理もないが、大切な人が変貌してしまうのは確かに辛い。天宮も、つい最近それを体験したばかりだ。いつも無邪気に笑いかけてくれていたセナが、白い花に囲まれて、眠ったように……。
(これ以上は、考えたくない……)
今はまだ、セナが死んだことを受け入れるつもりはなかった。
この復讐劇が終わるまでは、自分の中にいるセナを絶対に殺したりはしない!
そう胸に深く刻みつけ、天宮は霧咲姉弟とともに長谷川の待つ車へと向かったのだった。




