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悪妃  作者: かつを
2/3

後編 王妃にはなりません

ウェルフォード領での療養の日々は、驚くほど静かなものだった。

王都の喧騒もない。貴族たちの腹の探り合いもなければ、華やかな夜会の灯もない。

朝になれば窓から柔らかな陽光が差し込み、夕暮れには茜色の光が庭を染める。夜になれば虫の音が遠く響き、季節が移ろうたびに景色の色も変わっていった。

そうした穏やかな日々の中で、セレスティナの身体は少しずつ回復していった。

傷は深かった。医師は生きていたこと自体が奇跡だと言った。

鏡を見れば傷跡も残っているが構わなかった。

消えない傷など、もう一つ抱えていたからである。

胸の奥に空いた穴は、どれほど時が経っても埋まらなかった。埋めたいとも思わなかった。

期待というものは、人を支える一方で傷付ける。

そして期待を失った後には、不思議なほど静かな諦めだけが残る。

苦しいのは期待している間だけなのだと、セレスティナは知った。

だからレオンハルトのことを考える時間も次第に減っていった。

王都を離れる日まで、レオンハルトが姿を見せることはなかった。

見舞いもなかった。手紙もなかった。伝言すらなかった。

王都から届く情報は少なくない。

病弱だった国王アレクシスの容態がさらに悪化していること。

王妃ヴィクトリアが献身的に看病を続けていること。

そしてレオンハルトが王妃を支えるように傍を離れないこと。

そんな話を耳にしても、心は驚くほど静かだった。

そうなのだろう。

それだけだった。

かつてなら痛みを覚えた話題も、今ではどこか遠い国の出来事のようにしか感じられない。

やがて冬が訪れたある日、王都から急使がウェルフォード伯爵家へ到着した。

国王崩御の知らせだった。

若き王アレクシスは二十八歳という若さでその生涯を閉じた。

王国全体が深い悲しみに沈み、セレスティナもまた喪に服した。

だが騒乱はそれで終わらなかった。

ほどなくして王妃ヴィクトリアが拘束される。

国王毒殺の嫌疑によるものだった。

王都は騒然となった。

あれほど完璧だと思われていた王妃が。

あれほど優雅に微笑んでいた女が。

人々は信じられぬものを見るようにその名を口にした。

しかし調査が進むにつれ、疑惑は次々と事実へと変わっていく。

不審な薬物取引。侯爵家との密書。かつて失脚した令嬢たちへの工作。

王家に取り入り、権勢を握り続けた女の罪は、もはや覆しようがなかった。

春を待たずして判決が下る。

ヴィクトリアとローゼンベルク侯爵家の主だった者たちは王殺しの罪により処刑され、一族は断絶となった。

長く王宮を覆っていた闇はようやく払われたのである。


その数日後、ウェルフォード伯爵家に王家の使者が現れた。

届けられたのは一通の書状だった。

差出人は王弟レオンハルト。

「王都へ戻られますように」

ただそれだけが記されていた。

セレスティナは静かに書状を閉じる。

それでも胸は少しも高鳴らなかった。


◇◇◇


久方ぶりに見る王城は変わらなかった。

案内されたのは王弟執務室だった。

先王崩御後、レオンハルトが政務を執るために使っている部屋である。

重い扉が閉じられる。

室内には一人の男がいた。

レオンハルト。

その顔には疲労の色が深く刻まれていた。

「久しぶりだな」

かつてより低くなった声が静かに響く。

「お久しゅうございます、殿下」

セレスティナが頭を下げる。

他人行儀な呼び方に、彼の指先が微かに震えた。けれど彼女は気付かないふりをした。

もはや気付く必要もなかった。

長い沈黙の後、レオンハルトが口を開く。

「ヴィクトリアの件は聞いただろう」

「はい」

「すべて終わった」

終わった。その一言の中に何年もの歳月が詰まっている。

陰謀と疑念。王家を蝕む毒。失われた命。失われた時間。

そして失われた信頼。

レオンハルトは静かに語り始めた。

ヴィクトリアを疑った日のことを。

兄を守ろうとしたことを。

証拠を得るために近付いたことを。

好意を装い、信頼を得ようとしたことを。

社交界に広まった噂を、あえて否定しなかったことを。

誰もが信じた王妃への執着が、すべて演技だったことを。

セレスティナは黙って聞いていた。

一度も口を挟まない。

やがて話が終わる。

「お前を遠ざけたのも同じ理由だ」

レオンハルトの声は重かった。

「ヴィクトリアに知られれば、お前が危険だった」

セレスティナは黙っている。

「歓迎式典の日もそうだ」

彼の表情が苦く歪んだ。

「あの日、お前が倒れた時、目を覚ますまで離れたかったわけではない」

拳が固く握られる。

「だができなかった」

ヴィクトリアが怯えたふりをした。

証拠が見つかった。侯爵家が動いた。あと一歩で掴める真実があった。

その一歩のために、彼は選んだ。

セレスティナの元へ、一度も行かなかったのである。

「あの日から何度も筆を取った。お前に手紙を書こうとした。

だが書けなかった。何を書けばよいのか分からなかった」

掠れた声だった。

「お前に会いにも行けなかった。いや、行かなかった。

すべてが終わってから話せばいいと思っていた」

そこで初めてセレスティナが口を開いた。

「私は陛下のお話を疑っているわけではありません」

セレスティナは静かに続ける。

「陛下は本当に兄君を守ろうとなさったのでしょう」

それは理解できる。

「私を守ろうとしてくださったことも、本当なのでしょう」

それも理解できるが理解できることと、受け入れられることは違う。

「私は、あの日死にかけました」

レオンハルトの顔が歪む。

「目を覚ました時、殿下はいらっしゃいませんでした」

「……」

「王都を離れる朝も」

セレスティナは真っ直ぐ彼を見る。

「殿下はいらっしゃいませんでした」

「セレス」

「私は待っていたわけではありません。むしろ、諦めようとしておりました。

けれど心のどこかで、一度くらいはお言葉をいただけるのではないかと思っていたのです」

その言葉に責める響きはなかった。ただ事実だけがある。

「それで終わったのです」

静かな終焉だった。

兄を守った。王国を守った。悪妃を裁いた。だが目の前の女性だけは守れなかった。

その事実を突き付けられる。

「私は陛下の敵ではありませんでした。守るためだったとおっしゃるのであれば、それは信頼していただけなかったということです」

「違う」

反射的に否定した声は弱々しかった。

セレスティナは静かに首を振る。

「同じです」

レオンハルトには返す言葉がなかった。

長い沈黙が流れる。

やがて彼は震える声で問うた。

「それでも」

それは次期国王の問いではなかった。一人の男の問いだった。

「それでも、今からでは駄目か」

セレスティナは目を伏せる。

「遅すぎました」

そう答えるしかなかった。

机の上に離縁届を置く。三年前に用意したものだった。

レオンハルトはそれを見つめる。

長い時間をかけて。そして静かに署名した。

それが二人の終わりだった。


◇◇◇


数年後、セレスティナは海を越えた異国で暮らしていた。

王都から遠く離れた港湾都市である。

ウェルフォード伯爵家は古くから海外との交易にも関わっており、この国にも幾つか伝手があった。 

離縁後、セレスティナは王国を出た。

王都に残る理由がなかったからだ。

もちろん故郷を嫌ったわけではない。父も母も領地も大切だった。

ただ、どこへ行っても王弟妃だった頃の記憶が付きまとった。

ならば新しい土地で生きてみようと思っただけだった。

異国での暮らしは穏やかだった。

誰も彼女を王弟妃とは呼ばない。

セレスティナはただのセレスティナとして日々を送っていた。

ある春の日、仕事を終えて帰宅すると、一通の手紙が届いていた。

差出人を見て、セレスティナは僅かに目を細める。

国王レオンハルト。

王国から送られてきた手紙だった。

しばらく封書を見つめた後、セレスティナは机の端へ置く。

封を切ることはなかった。窓の外では海からの風が白いカーテンを揺らしている。

失われた過去は戻らない。

幼い日に白薔薇を差し出してくれた少年も、もうどこにもいなかった。

だから振り返らない。セレスティナは静かに窓の外へ視線を向ける。

遠く青い海の向こうに故郷はあった。

けれど彼女は微笑み、再び手元の書類へと目を落とした。

春は、もう来ていた。

これにてセレスティナの物語は完結となります。

後日、番外編も公開したいと思います。よろしければそちらもお付き合いください。

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