番外編 独りよがりのヒーロー
レオンハルト視点です。
ヴィクトリアが王太子妃として王宮へ輿入れしてきた日を、レオンハルトは今でも鮮明に覚えている。
社交界は歓喜に沸いていた。
燃えるような赤髪と紫水晶の瞳を持つ侯爵令嬢は、その美貌と才知によって人々を魅了し、誰もが次代の王妃に相応しい女性だと口を揃えた。
だが、レオンハルトだけは違った。
その華やかな祝福の裏側に、幾つもの不自然な出来事が積み重なっていたことを知っていたからである。
王太子妃候補だった令嬢たちが次々に表舞台から姿を消していた。
醜聞に巻き込まれた者。病を理由に領地へ退いた者。
一つひとつを見れば偶然と言えなくもない。
しかし、それらはあまりにも都合よく重なり過ぎていた。
何かがおかしい。
そう思ったのが始まりだった。
そして父王が崩御した。
表向きは病死。誰も疑わなかった。
兄アレクシスも疑わなかったが、レオンハルトは疑った。
調べ始めた当初の目的は単純なものだった。
兄を守ること。
ただそれだけだった。だが調査を進めるうちに、彼はあることに気付く。
ヴィクトリアの目は兄を見ていなかった。
彼女が見ていたのは王冠だった。
病弱な兄には子がいない。
兄が倒れれば王位継承権は自分へ移る。
ヴィクトリアが欲していたのは王妃の座であり、権力だった。
だから近付いた。警戒を解かせるために。
信頼を得るために。王妃に恋する愚かな王弟を演じるために。
社交界に噂が流れることも承知の上だった。
汚名など構わなかった。
兄を守るために必要なことだと思っていた。
セレスティナとの婚約は決まっていた。
十歳の春から続く縁だった。
桜金色の髪と若葉色の瞳を持つ、小柄な婚約者。
初めて会った日からずっと可愛らしいと思っていた。
緊張すると言葉が途切れるところも。懸命に淑女らしくあろうと背伸びをするところも。
褒めれば少しだけ頬を染めるところも。
何もかもが愛おしかった。
幼い頃から、その想いだけは変わらなかった。
だから守りたかった。
傷付いてほしくなかった。
危険なものから遠ざけたかった。
それは愛情だったのだろう。だが同時に、傲慢でもあった。
レオンハルトはそのことに気付かなかった。
守ることと信頼することは違う。
守ることと隠し事をすることも違う。
それなのに彼は、自分が守れば十分なのだと思い込んでいた。
ヴィクトリアへの調査が本格化すると、セレスティナとの距離を意図的に取るようになった。
会う機会を減らした。手紙も減らした。
夜会では王妃の傍らに立った。
庭園では王妃と語らった。噂が流れることも承知していた。
セレスティナが傷付いていることも分かっていた。
それでも続けた。
終われば説明できると思ったからだった。
ヴィクトリアを裁き、兄を守り、王国を守った後ならば、きっと理解してもらえる。
事情を話せば分かってくれる。セレスティナなら受け止めてくれる。そう信じていた。
いや、正しくは違う。
彼女が理解してくれない未来を、一度たりとも想像していなかったのである。
それこそが最大の過ちだった。
国王夫妻の間に子は生まれなかった。
病弱な国王と、空白の王位継承。
それを懸念する声は年々大きくなっていった。
やがてレオンハルトとセレスティナの婚姻も急がれることになる。
本当なら先延ばしにしたかった。
ヴィクトリアの件が終わるまで待ちたかった。だが王家の事情は待ってくれなかった。
そうして二人は結婚した。
ようやく夫婦になったはずだった。
それでもレオンハルトは夫になろうとしなかった。
子だけは駄目だった。兄上に子がいない以上、私の子は次代の王位継承者となる。
ヴィクトリアがそれを放置するとは思えなかった。
あの女は邪魔なものを排除する。それを嫌というほど見てきた。
ならば守らなければならない。
セレスティナも。まだ見ぬ子も。
もし彼女が身籠れば、その命さえ狙われるかもしれない。
そう考えた時、夫として近付くことが恐ろしくなった。
だから距離を置いた。夫婦らしい関係を避けた。私はそれが最善だと信じていた。
今になって思えば、理由を話すという選択肢を最初から捨てていたのである。
近付けば利用されるかもしれない。
愛情を見せれば弱点になるかもしれない。そう考えていたからだった。
今なら分かる。
それは半分だけ正しかった。残り半分はただの自己満足だった。
彼は可愛い婚約者を守ることばかり考え、その意志を確かめようとしなかった。
妻としてではなく、守るべき存在として見ていたのである。
セレスティナが命を懸けて矢の前へ飛び出した日のことを、彼は忘れられない。
鮮血が舞った。小さな身体が崩れ落ちる。世界から音が消えたような気がした。
反射的に駆け寄ろうとしたが、その腕をヴィクトリアが掴んだ。
怯えた顔で助けを求める王妃。
混乱する護衛たち。悲鳴。怒号。
そして、その直後から王宮は慌ただしく動き始めた。
侯爵家が動いた。
証拠の隠滅が始まった。
長年追い続けてきた真相へ、ようやく手が届くところまで来ていた。
兄を守るために費やした年月が、ようやく意味を持つはずだった。
だから彼は選んだ。セレスティナの元へ行かなかった。見舞いにも行かなかった。手紙も出さなかった。
すべてが終わってから説明すればいいと思っていた。
理解してもらえると思っていた。
その考えがどれほど独善的だったのかも知らずに。
セレスティナが領地へ移った後、ヴィクトリアは露骨になった。
それまで人目のある場所でのみ私を呼び止めていた女が、夜更けに私室へ招くようになったのである。
私は応じた。王妃の警戒は確実に薄れていた。そしてそこで見たものに戦慄した。
王妃の寝所は本来、王族以外が容易に近付ける場所ではない。
にもかかわらず、そこには侯爵家と繋がる侍女がいた。
護衛がいた。使用人がいた。あまりにも多くの人間が入り込んでいた。
王宮の中枢にまで手が及んでいたのである。
セレスティナを遠ざけておいて正解だったと改めて確信した。
王妃の私室へ足を運ぶたび、新しい情報が手に入る。
侯爵家の資金の流れ。薬の出所。王宮内の協力者。密かに交わされる文書。
長年追い続けてきた断片が少しずつ繋がり始めていた。
あと少しだった。本当にあと少しで真実へ辿り着けるところまで来ていた。
だから立ち止まれなかった。
セレスティナの元へ行くことも、言葉を送ることも、後回しにした。
すべてが終わった後で説明すればいいと思っていた。
説明すれば分かってくれると思っていた。
もちろん彼女のことを忘れていたわけではない。
ウェルフォード領には密かに護衛を置いた。
本人には知らせていない。
報告も毎日受けていた。
傷の具合、熱の有無、食事の量。
眠れているのか。
今日は庭を歩いたらしい。
今日は笑ったらしい。
そんな報告を読むたびに安堵していた。
守れているのだと思っていた。だが、今なら分かる。
それは守ったことにはならない。
本人が知らぬ場所で安心していただけだ。
結局、自分が満足していただけだった。
兄が崩御した時、レオンハルトは初めて膝をついた。
間に合わなかったのだ。ヴィクトリアを疑った日から何年も追い続けた。
汚名も甘受し、婚約者も傷付け、夫としての時間すら捨てた。
それでも間に合わなかった。守るために始めたはずだった。
そのために多くのものを犠牲にした。にもかかわらず、最も守りたかった相手は既にこの世にいない。
兄が遺したものを守るためにも、ヴィクトリアを裁かなければならなかったからである。
ヴィクトリアが断罪され、ローゼンベルク侯爵家が滅んだ時、レオンハルトはようやく迎えに行けると思った。
もう危険はない。もう隠す必要もない。
これですべて話せる。
心からそう思った。だからこそ、あの日の言葉が胸を抉った。
「私は殿下の敵ではありませんでした」
責める響きも、恨みもなかった。
セレスティナは最初から敵ではなかった。
それなのに彼は何も話さなかった。
守ることばかり考えていた。その結果、彼女を失ったのである。
離縁から数年が過ぎた今、セレスティナは海の向こうの異国で暮らしている。
新しい仕事に携わっていることも知っていた。
周囲に慕われていることも知っていた。
穏やかに笑っていることも知っていた。
なぜ知っているのか。
報告を受け続けているからだった。
本来なら止めるべきなのだろう。
既に夫ではない。知る資格などない。それでも止められなかった。
今日も執務机の上には一通の報告書が置かれている。
無事でいることを知れば安堵する。元気だと知れば安心する。
それがどれほど身勝手な感情か分かっていても、やめられない。
守るという名目で距離を置き、本人の知らぬ場所から見守る。
あの日々と何も変わっていなかった。
国王として守るべきものは守った。
兄が愛した王国も、民の平穏も。
だが、一人の男としては違う。
春の陽光が執務室へ差し込む。
レオンハルトは机の上の報告書へ静かに手を伸ばした。
もう読む資格などないのかもしれない。それでも確かめずにはいられない。
もはや彼女の人生に口を出す資格などないというのに。
それでも手放せなかった。
レオンハルトは苦く笑った。
結局、何一つ変わっていないのかもしれなかった。




