前編 婚約者は王妃に恋をした
セレスティナ・ウェルフォードがレオンハルト王弟殿下の婚約者となったのは、十歳の春のことだった。
先代国王自らが定めた婚約であり、異議を唱える者はいなかった。
ウェルフォード伯爵家は古くから王家に忠誠を尽くしてきた家柄であり、派閥争いとも距離を置く穏健派として知られていた。王太子には既に婚約者候補が存在したため、第二王子であるレオンハルトとの縁談は誰にとっても自然なものとして受け入れられた。
初めて対面した日のことを、セレスティナはよく覚えている。
王宮の庭園に咲く白薔薇の前で、当時十二歳だったレオンハルトは少し困ったような顔をしながらも、「よろしく頼む」と手を差し出した。
その姿は決して威圧的ではなかった。
王族でありながら驕ったところがなく、むしろ不器用な少年だった。
セレスティナが緊張して言葉を失っていると、彼はしばらく考え込んだ末に庭師から剪定されたばかりの花を一本受け取って差し出した。
「こういう時は花を贈るものだと聞いた」
「ありがとうございます」
「本当はもっと立派なものを用意すべきだったのだろうが」
「いいえ」
思わず笑ってしまったセレスティナに、レオンハルトも少しだけ表情を和らげた。
その日から始まった関係は穏やかなものだった。
王宮へ招かれれば共に庭を歩き、馬術や剣術の話を聞かされ、時には図書室で同じ本を読むこともあった。
社交界では将来を期待される婚約者同士だったが、二人の間にはそれ以上に自然な親愛が育まれていた。
レオンハルトは誠実だった。
約束を忘れず、嘘をつかず、自分より弱い者を守ろうとする。
十代半ばに差しかかる頃には、セレスティナもまた彼を心から慕うようになっていた。
将来この人と結婚するのだろう。
そして穏やかな家庭を築くのだろう、と疑ったことは一度もなかった。
運命が狂い始めたのは、王太子アレクシスの結婚が決まってからだった。
花嫁として選ばれたのはローゼンベルク侯爵家の令嬢ヴィクトリア。
社交界でも美貌を誇る女性だった。
燃えるような赤髪と紫水晶のような瞳を持ち、その微笑み一つで人の心を奪うと評された女である。
彼女の輿入れは華やかに祝福された。
しかし同時に、奇妙な噂も流れ始めていた。
王太子妃候補だった令嬢たちが次々に失脚したのである。
ある者は不名誉な醜聞に巻き込まれ、ある者は突然婚約を解消され、またある者は病を理由に社交界から姿を消した。
どれも偶然と言われればそれまでだった。
決定的な証拠など一つもない。けれど社交界は囁いていた。
すべてヴィクトリアの仕業ではないかと。
もっとも、それは所詮噂に過ぎなかった。
美しく聡明な王太子妃は完璧だった。誰もその仮面の奥を覗くことはできない。
その頃から、レオンハルトが変わり始めた。
最初は些細な変化だった。
以前ほど王宮へ呼ばれなくなった。手紙の数が減った。会話の途中で考え込むことが増えた。
多忙になったのだろうとセレスティナは思った。
兄が即位すれば、王弟として担う責務も増える。
仕方のないことだと自分に言い聞かせていた。
だが年月が過ぎるにつれ、その理由では説明のつかない光景を目にするようになる。
夜会でヴィクトリアの傍らに立つレオンハルト。
庭園で言葉を交わす二人。
ヴィクトリアが微かに顔色を変えれば、誰よりも早く気づくレオンハルト。
それは婚約者であるセレスティナでさえ知らない表情だった。
社交界の噂はやがて確信へと変わっていった。
第二王子は王太子妃に恋をしている。
義理の兄の妻に。
決して許されない恋に。
セレスティナは否定したかった。
レオンハルトはそんな人ではない。そう信じたかった。
しかし現実は残酷だった。
夜会で彼の視線はいつもヴィクトリアを追っているように見えたし、彼女の前ではわずかに表情が柔らかくなるようにも見えた。
それを目にするたび、胸の奥が静かに冷えていく。
それでも婚約は続いた。
破棄されることもなかった。だから余計に苦しかった。
いっそ婚約を解消してくれればよかった。そうすれば諦めもつく。
それなのに彼は何も言わなかった。
繋ぎ止めることも、手放すこともしないまま、ただ遠ざかっていく。
そんな日々の終わりを告げたのは、先代国王の急逝だった。
王太子アレクシスが即位し、ヴィクトリアは王妃となった。
その頃には、レオンハルトはほとんど別人のようになっていた。
婚約者として訪れても以前のようには微笑まない。
距離を感じる。壁を感じる。それでも縋るほど子供ではなかった。
王弟を取り巻く立場が変わったのだと自分に言い聞かせた。
言い聞かせ続けた。
国王と王妃の婚姻から三年が過ぎていた。
それにもかかわらず、二人の間に王子も王女も誕生していない。
病弱な国王の身を案じる声は以前からあったが、王位継承への不安はいよいよ無視できないものとなりつつあった。
王にもしものことがあれば、次代の王は王弟レオンハルトである。
ならば王弟にも早急に世継ぎをもうけさせるべきだ。
貴族たちのそんな声が大きくなるにつれ、長らく棚上げにされていたレオンハルトとセレスティナの婚姻も、いよいよ先延ばしにはできなくなっていった。
そうして迎えた十八歳の春、二人は結婚した。
かつて夢見た結婚だった。けれどその姿は夢とは程遠い。
新婚初夜はなく、用意された寝室も別だった。
食事を共にすることも少ない。夫婦というより形式だけの同居人である。
侍女たちは同情したが、セレスティナは驚かなかった。
むしろ予想通りだった。
あれほど長い間ヴィクトリアの傍らにいた男に何を期待するというのか。
だから彼女は静かに決めた。
三年。
三年だけ王弟妃としての務めを果たそう。
その後で離縁を願い出るのだ。
子もいない。家格にも問題はない。時間をかければきっと認められる。
そうして自由になろうと。
かつて好きだった少年の面影を胸の奥に閉じ込めたまま。
結婚から一年半が過ぎた頃には、その決意は揺るがぬものとなっていた。
そんなある日、王都で大規模な歓迎式典が開かれた。
地方視察を終えた王弟夫妻を迎えるためのものである。
街路には人々が溢れ、祝福の歓声が響いていた。
護衛も十分。
不意に空気を裂く鋭い音が響いた。視界の端を黒いものが横切った。
矢だった。
狙われたのはレオンハルト。
考えるより先に身体が動いた。
幼い頃から妃教育で叩き込まれた教えなのか、それとも別の何かなのか、自分でも分からない。
気づけば彼の前へ飛び出していた。
凄まじい衝撃が身体を貫いた。
熱い。苦しい。息ができない。
目の前が赤く染まった。
激しい痛みと共に力が抜け、身体が傾く。
周囲で誰かが叫んでいた。
悲鳴。怒号。駆け出す足音。
それらが遠ざかっていく。
ぼやける視界の向こうで人影が動いた。
レオンハルトだった。
だが、その腕の中にいたのは自分ではない。
青ざめた顔で王妃を庇い、周囲へ何事か指示を飛ばしているように見えた。
もう胸は痛まなかった。
今さらだったからだ。
あの方が最も大切にしている人が誰なのか、ずっと前から知っていた。
王弟妃としての役目は果たした。
そうしてセレスティナの意識は静かに闇へ沈んでいった。
◇◇◇
傷は一命を取り留めたものの、完治には長い時間を要した。
医師の勧めもあり、セレスティナは療養のためウェルフォード領へ戻ることになる。
王都を発つ日、迎えに来た父は安堵したように娘の顔を見つめていた。
ただ一人、その場にいない人物がいた。
夫であるレオンハルトである。
もはや驚きはなかった。
見舞いに訪れることもなく、手紙が届くこともなく、伝言一つ託されなかった。
王妃の傍らにいる姿だけは幾度となく耳にしていた。
王妃を慰めているらしい。
王妃を護衛しているらしい。
王妃のために奔走しているらしい。
どれが真実なのかは分からない。
ただ一つだけ確かなのは、その時間のどこにも自分はいなかったということだった。
王都の城門が遠ざかっていく。
セレスティナは振り返らなかった。
振り返る理由が、もうなかったからだ。




