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3-10 最終防衛ライン【ザラメ砂糖三代記】   作者: maki_senokouji


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第2話 女神の残像

 進藤健太の胸の奥で、小学校四年生のあの日に山本まさ子から喰らった手ひどい洗礼は、歳月の経過とともに奇妙な変質を遂げていました。自分のあまりにも無様で情けない敗北の記憶を、少年特有の防衛本能が都合よく書き換えてしまった結果、あの瞬間に見上げた、感情を完全に削ぎ落としたまさ子の冷徹な佇まいは、彼の深層心理の中で「自分を正しい技術の道へと導いてくれた、美しく厳格な女神様」の姿として美化されて定着してしまったのです。

 まさ子が持つ「巫女」の顔を考えれば、健太のそのイメージは当たらずとも遠からず、なのですが。まさ子にとっては意地悪をされた記憶も、彼を恐怖のどん底に叩き落とした自覚も、そもそもはじめから全くないのです。あの日のまさ子は、相手が自分の大切な叔父さま特製ニッパを勝手に手にしたから激怒しただけであり、それを取り返してしまえば、特に健太に対して何の恨みも残っていませんでした。


 そのため、キャンパスの移動中に健太とすれ違えば、「ごきげんよう、健太さん」と、ごく普通の知り合いとして、ふわふわと挨拶を返していました。しかし、その一点の悪意もない、無防備でぽやぽやとした笑顔が、健太の胸の奥の火種にさらに油を注ぐことになってしまいます。

「山本さん、もしよかったら、今度の土曜日に新しくできた科学館の特別展に一緒に行かないか? 昔の工作教室の、あの続きの話もしたいんだ」

 ジャケットの襟を正し、男らしくストレートにアプローチを仕掛けてくる健太に対し、まさ子の防壁はいつものようにのほほんとそこに鎮座していました。

「健太さん、お誘いはとっても嬉しいのですけれど、まさ子は土曜日もお家で大切な人とおおむのお話をする約束がありますので、ご一緒できません。ごめんなさい」

 きっぱりとした、けれど極めておっとりとした拒絶でした。まさ子にとって、叔父さま以外の男性にプライベートな時間を割くという選択肢は、世界の創造の時から存在していないのです。「おおむ」が物理のオームの法則のことであることすら健太には伝わっていませんが、その絶対的な距離感の前に、彼はただ立ち尽くすしかありませんでした。

 そんな健太の、健気でどこか痛々しいほどの熱意を見かねて、彼の周囲の友人たちが動き出しました。健太の友人である、同じキャンパスに通うコージとユキのカップルは、なんとか彼の恋の手助けをしてやりたいと考え、独自の伝手を必死に手繰り寄せました。起死回生の策として行き着いたのが、健太の一学年下で、東帝大の文科一類に在籍している、まさ子の実の姉、山本凜の存在でした。

 放課後のキャンパスのテラス席で、真剣な顔で頭を下げるコージとユキを前にして、凜はアイスコーヒーのグラスを持ったまま、完全にフリーズしていました。コージは熱っぽく、こう切り出してきたのです。

「山本さん、突然押しかけてすみません。実は、俺たちの同期の進藤健太っていう奴が、あなたの妹のまさ子さんに本気で恋をしていて……。あいつ、本当にいい奴だし、技術者の卵としても優秀なんです。まさ子さんも嫌っている風には見えないんですが、何度デートに誘ってもどうしてもうんと言ってくれないみたいで。何か、まさ子さんの好きなものとか、近づくためのヒントを教えていただけないでしょうか」

 凜は、即座に喉まで出かかった言葉を必死に飲み込んでいました。

(進藤健太くん……? ああ、あの機械工作教室でまさ子に泣かされたっていう、かわいそうな……。ていうか、まさ子はもう、邦明叔父さまと2年も前から一緒に暮らしているのに。他所の男の子がどれほど逆立ちしてアプローチしたって、あの情念の塊みたいな妹の目に留まるわけがないじゃない……)

 凜は、まさ子が叔父さま以外の男性に目を向ける確率が、この世界の物理法則が崩壊する確率よりも低いことを、誰よりもよく知っていました。すでに事実上の同棲をしており、二十歳のゴールに向けてコツコツと着実に外堀を埋めつつある妹の現状を、赤の他人に正直に話すわけにもいきません。どうしたものかと頭を抱えた凜は、自分の手に負える問題ではないと判断し、安和女子大学のキャンパスへと駆け込みました。

 安和女子は、幼大一貫の伝統ある女子校であり、凜やまさ子のような外部進学の方がめずらしく、ほとんどの生徒は内部進学で安和女子大に進みます。やはり内部進学組である、まさ子案件では最強の相談役・川野詩織の元へ、凜は飛び込んだのです。

「詩織、ちょっと助けて。まさ子のことで、東帝大の人から、なんだか面倒な恋愛相談を持ち込まれちゃったのよ……」

 大学の格調高いラウンジで、凜から事の顛末をすべて聞き終えた詩織は、大好きなストレートティーのカップをソーサーに戻すと、いつものサバサバとしたちゃきちゃきな調子で、盛大にため息をついてみせました。

「ちょっと、凜姉。いくらなんでも、私に無茶振りをしすぎじゃないの? あの『楽しく日陰者をやってる』ってのほほんと言い切る情念の化け物に、他所の男の子を振り向かせろだなんて、一介の女子大生に世界の歴史をひっくり返せって言うくらい無理な話よ」


(第2話 了)

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