第3話 一匹牝オオカミの粋な計らい
詩織は、親友であるまさ子の心理を誰よりも理解していました。まさ子にとっての叔父さまという存在は、単なる初恋の相手などという生易しいものではなく、彼女の人生のシステムそのものを駆動させている絶対的な核なのです。どれほど仕上がりの良い好青年がアプローチをしてこようとも、まさ子の世界の解像度の中では、それはただの背景のドットにしか見えていないことを、詩織はよく分かっていました。
「進藤健太くん、だっけ。まあ、ガキの頃の意地悪を素直に謝れるくらいに育ったなら、男としての器量は悪くないんでしょうけど……相手が悪すぎるわね。まさ子のあのぽやぽやした笑顔を額面通りに受け取っちゃったのが、彼の人生最大の不運よ」
詩織は、窓の外に広がる安和女子の美しい庭園を眺めながら、こめかみを指先でトントンと叩き、冷徹な思考を巡らせました。面倒見の良い彼女の知性は、誰も傷つかず、健太の男のプライドを完璧に保ったまま、まさ子という高嶺の花から綺麗に身を引かせるための、極めて粋な解決策を弾き出したのです。
「ねえ、凜姉。その進藤くんの友人カップル、コージくんとユキちゃんだっけ?に、こう伝えてくれない?」
詩織の唇から零れ出たその作戦は、まさに一匹牝オオカミとしての冷徹さと、すでに大人社会の仕組みの中で生きている社長令嬢ならではの、見事な計らいでした。
数日後、東帝大の製図室の一角に、進藤健太は呼び出されていました。彼の前に立っていたのは、凜を通じて詩織からメッセージを預かってきた、あの友人カップルのコージとユキでした。
「健太、お前に、安和女子大の川野製菓ご令嬢から、伝言がある。……お前が山本まさ子さんにアプローチしている件についてだ。川野さんは、まさ子さんの幼稚園の頃からの幼馴染、とのことだ。」
「え……? 川野、さん……?川野製菓のご令嬢……?」
健太が困惑して目を見開く中、コージは詩織からの言葉を一字一句、正確にそのまま伝えました。
『進藤健太くん。あなたが小学生の時の非を認めてまさ子に謝罪したこと、そして今、一人の技術者の卵として東帝大で真摯に学んでいること、その姿勢はとても立派だと思うわ。だけどね、まさ子が今、見つめている世界は、あなたが見ているキャンパスの恋愛とは、全く次元の違う場所にあるの。あの子はね、自分の人生のすべてを賭けて、ある一人の天才技術者の背中だけを追いかけているの。もう何年も前から。この学校に入ったのもそう。進振りで目指している学科もそう。あののほほんとした姿で、それを完璧に実行している最中なのよ』
健太は、息を呑みました。詩織の言葉の裏にある、圧倒的な現実の重みが、彼の知性に直接突き刺さったのです。
『あなたがどれほど男を磨いてアプローチをしても、まさ子の世界のシステムには、最初からあなたが入る隙間は1ミリも用意されていないわ。それはあなたの能力が足りないからじゃない。彼女の目標が、あまりにも特別すぎるからよ。……だから、進藤くん。もしあなたが本当に男らしくて、そして将来優秀な技術者になるというのなら、届かない女神の幻影を追いかけて時間を無駄にするのはやめなさい。その代わりに、その有り余る熱意と頭脳を、我が川野製菓の次世代の製造ラインの自動化プロジェクトで使ってみせる気はない? 今度、うちの将来の婿養子になる、本社で一番優秀な戸崎という人が、東帝大の若い技術者を募集しにお宅のキャンパスへ行くわ。もしあなたが本気で社会に自分の実力を証明したいなら、まさ子ではなく、その戸崎さんの前で、男としての本当の力を証明してみせなさい。この新開発のシステムは、業界の新しい標準規格を目指すものですから、あなたの目標として不足はないはずです』
詩織の提案は、健太のまさ子への届かぬ恋を、技術者としての本物のキャリアと挑戦へと、あまりにも鮮やかに昇華させるものでした。まさ子にきっぱりと振られて男のプライドを傷つけられる前に、より大きな大人の世界の舞台へと彼の視線を向けさせ、彼自身の優秀さを別の形で完璧に肯定して救い上げる。これこそが、誰も傷つかない、詩織ならではの極上の大人の解決策だったのです。
「……そうか」
健太はそれきりしばらく黙って、自分の中の何事かを整理している様子でした。理屈では、嫌になるほどよく分かります。だからといって、胸の中に残ったものまで同じ速度で消えてくれるほど、小学生のあの日から積み重ねてきた彼の気持ちは、軽いものではありませんでした。
けれど、それとは別に、長いあいだ自分を縛っていた何かが、ふっとほどけていく感覚がありました。
健太は、しばらくの間、拳をぎゅっと握りしめて床を見つめていましたが、やがて、憑き物が落ちたような、とても晴れやかな顔をして笑いました。
「……そっか。やっぱり、あの時の女神様は、俺なんかじゃ到底届かない、ずっと遠くの高い場所を見つめていたんだな。……川野さんに伝えてくれ。その戸崎さんという人に会って話を聞きたいって」
健太は、まさ子への恋心を、自分の人生を大きく飛躍させるための美しいエネルギーへと変えることを決意したのです。彼は、自分の弱さと、まさ子の絶対的な境界線を認め、新たな大人の階段を登ろうと心を決めたのです。
その日の夜、同棲している部屋のキッチンで、まさ子はのほほんとお鍋をかき混ぜながら、遊びに来ていた詩織に向かって、おっとりと微笑みかけていました。
「しいちゃん、今日ね、健太さんがキャンパスで、とってもきりっとしたお顔をして、戸崎さんとお仕事のお話をしながら通り過ぎていかれましたよ。私にはなんだかよく分かりませんけれど、健太さんがとっても楽しそうだったので、神様にお祈りしておきました」
「そう。まあちゃんは、そのぽやぽやした顔のままで、一生、おじさんのためのお鍋の心配をしていればいいのよ」
詩織は呆れたように笑いながら、親友の柔らかな頬を軽くつつきました。
二十歳という約束のゴールまで、あとほんの少し。もったいないお化けがどれほど部屋を彷徨おうとも、二人の築いた美しい境界線が破られることはありません。
(最終防衛ライン・了)




