第1話 二十歳までは
夕暮れ時の静かな部屋に、お湯の沸く穏やかな音が響いていました。
東帝大学の理科一類の新入生となったまさ子が暮らす部屋、つまり、邦明の仕事部屋に、この日は安和女子大学にエスカレーター式で進学した親友の川野詩織が遊びに来ていました。
「今日は、おじさん、お留守?」
「ええ、夜まで外でお仕事だそうです」
詩織が改めて部屋の中を見回すと、そこには、元の邦明のサーバールームに、まさ子が長年にわたって持ち込んだ可愛い調度が不思議と調和して同居しています。
「改めて見ると、この部屋、すごい愛の巣よね。サーバールームにこんなたくさん布モノのクッションとかぬいぐるみとか、本当はいけないんじゃないの?」
「知らなくて、はじめのころは叔父さまに叱られていました。でもそのうち、バックアップの機材を別の部屋を借りて置いたから、ここは好きにしていいぞって」
「地味にあんた、そんなところでも、居場所を勝ち取ってきたのね」
まさ子がのほほんと慣れた手つきで淹れてくれたハーブティーを一口啜り、詩織はソファの背もたれに身を預けながら、目の前の小さな親友へ視線を向け、今日の本題について口を開きました。
決していじるような口調ではなく、どこか妹を慈しむような、そしていつもより少し真面目な声音です。
「ねえ、まあちゃん。ちょっと繊細な話かもなんだけど……あんた、いつまでおじさんを蛇の生殺しにしているの? 二十歳までは最後の一線を超えないって心に決めているのは前から聞いてるし、よく分かってる。だけどね、実際にこうして実家を出て、おじさんの部屋でほぼ同棲なんて形の生活を始めた以上、そこまで頑なにこだわり続けなくてももういいんじゃない? 男っていう生き物は、あまりに我慢を強いられているのも、心身の健康によろしくないらしいのよ」
そんな詩織の問いかけに、まさ子はいつものように小首を傾げ、ぽやぽやとした日向のような笑顔を浮かべました。
「しいちゃんにはいつも心配をかけてごめんなさい。でもね、こればかりは、どうしても譲れないのです」
その言葉を受けて、詩織は少し呆れたように笑いながら、手元のカップを置きました。
「まったく、どの口が言うのかしらね。秋葉原のメイドカフェの件をあんたがうまく使って、おじさんにあんたへの独占欲を認めさせて、それであんたがおじさんとキスしたくてたまらないキス魔になってさ。その後に、この部屋で数学の難問に熱中して、うっかり終バスを逃すなんて絶妙な段取りとタイミングを考えてあげたのはどこの誰だっけ? それに乗っかって、逃げ場を失ったおじさんから、ちゃっかりそのくちびるを奪ったくせに」
その時々にまさ子から逐一報告を受けてすべてを把握している詩織から、事実をそのまま並べ立てられ、まさ子はぽっと頬を染めました。ここ最近の怒濤の展開のお膳立てをしてくれた親友の前で今さら隠すこともありませんが、それでもこう事実を並べられると気恥ずかしさが半分、そして、あの夜の幸せな甘い記憶を思い出したのが半分。
まさ子は白い指先を自分の唇にそっとあてながら、けれど大きな丸い瞳には真っ直ぐな光を宿して言いました。
「……そこから先へ進むには、山本家の末娘であるまさ子として、通すべき筋があるのです」
まさ子は少しだけ視線を落とし、お茶の湯気を見つめながら言葉を続けました。
「この恋が、お父さまやお母さま、お姉さまたちを深く傷つけるものであること。理解してもらいたい、許してもらいたいと願うこと自体、甘えなのだということは分かっています。だからこそ、せめて二十歳になるまでは純潔を守っていることが、これまで私を大切に育ててくれたお母さまや、私を守ってくれてきたお姉さまたちに対する私なりの最大限の誠実さであり、譲れない境界線なのです。それに……お父さまには何と申し開きをしても許してもらえないことであるのは、まさ子もよく分かっています。だから、お顔を真っ赤にして怒るだろうお父さまの前に、せめてちゃんとした大人の足で自分で立っていたいのです」
まさ子のそのあまりにも理路整然とした頑なさに、詩織は小さくため息をつきました。
けれど、詩織はまさ子の瞳の奥にあるものが、ただの頑固さではないことを、そっと見透かすように言葉を繋ぎました。
「でもそれだけじゃないんでしょ。あんたが理一に入っただけで満足しているわけがない。とりあえずの目標の理情に進めるのは三年からだし、おじさんが小学生の時にとんでもない実績を残したMITっていう存在もあるんだから」
「はい。おじさまに一方的に保護されて、愛されるだけの子供ではないことを示したいというのもあります。理情に進んで、一人の自立した研究者の卵として足元を固めること。それが、叔父さまの庇護の中にいるだけの子供ではなく、自分の足で立つ人間になるための最低限の条件だと思っています。それでようやく、私と最後の一線を越えることへの、叔父さまの負い目が少しでも減らせると思うのです」
まさ子の言葉を聞いて、詩織はさらに深層へと踏み込みました。
「それに加えて……おじさんの胸の奥の傷のことも…」
かつて邦明が深く愛した水瀬千鶴の命を、自分と引き換えにする形で失なわせてしまったという、いまだ先鋭な邦明の自責の念のことに詩織が触れると、まさ子の瞳に切ない陰が落ちました。愛していた女性をそのような立場に置いてしまった責任はすべて自分にあるという呪縛に、邦明は今なお囚われ続けているのです。
「叔父さまが、ご自分の倫理観の中で再び人を愛するということを肯定できるようになるまでには、どうしてもまだ時間が必要です。まさ子としても、あの深い悔恨に捕われたままの叔父さまと、その時の雰囲気や事故的ななし崩しの勢いでこの身を捧げてしまうことだけは、絶対に嫌なのです」
「あの責任感の強すぎるおじさんのことだから、あんたが二十歳を迎えれば、また思うところがあるだろう、と。お互いの心を守るための、二十歳の最終防衛ラインってわけか。全く、周りから見ていると驚異的なまでの焦れったさだけどね」
詩織は呆れてみせてはいますが、まさ子のその深い情念に胸を打たれているのです。
そんな、初々しい果実が熟していく真っ最中の同棲生活の中、大学の新入生となったまさ子は、ある日の講義室の前で、全く予想もしなかった人物と再会することになります。
「あの……もしかして、まさ子ちゃん、いや、山本まさ子さん……ですか?俺、進藤健太です」
声をかけてきたのは、仕立てのいいジャケットを着こなした、長身で爽やかな佇まいの男子学生でした。かつて小学校四年生の時に通っていた機械工作教室で、当時小学一年生だったまさ子にちょっかいをかけて手ひどく反撃され、まさ子の指摘通り自分が組み立てていたロボットが爆発して、恐怖のあまり腰を抜かして泣いていた、あのいじめっ子の健太くんでした。
彼は、あの日の圧倒的な敗北とまさ子の不気味なまでの才能に強烈な衝撃を受け、その後、彼なりに猛烈な努力を重ねて一浪の末この東帝大へ進んだ現在工学部機械工学科の三年生。
健太くんはまさ子の前に立つと、少し耳を赤くしながらも、開口一番に深々と頭を下げました。
「あの時は、本当にごめんなさい。小学生だったとはいえ、君の大切な工具を乱暴に奪ったり、ひどいことを言って傷つけたりして、ずっと後悔していたんだ。いつか会えたら、ちゃんと謝らなきゃって、ずっと思ってた」
正面から自らの過去の非を認めて頭を下げる健太くんの姿は、客観的に見れば非常に好感の持てるものでした。しかし、目の前に立たれたまさ子は、小首をふにと傾げたまま、大きな丸い瞳をぱちくりとさせていました。
「ええと……進藤、さん、でしょうか? お久しぶり?です。ええと、あの時は、お世話になりました?のですか……?」
まさ子にとっては、本当に、完全に、魂のレベルでアウトオブ眼中の路傍のガキに過ぎなかったため、健太くんに意地悪をされたという記憶も、彼を恐怖のどん底に叩き落としたという自覚も、綺麗さっぱり頭の中から消え去っていたのです。思い出すのにかなりの時間を要しているまさ子の様子に、健太くんは拍子抜けしつつも、その変わらないぽやぽやとした愛らしさに、胸の奥の動悸が激しく高鳴っていくのを抑えきれませんでした。
(第1話 了)




