――第20話 狂気の予兆――
「はあ、はあ……」黒いローブの男は森の一角で肩を大きく上下させながら周囲を見渡した。
木々の間に人の気配はない。それを確認すると、深くかぶっていたフードをゆっくりと外す。
現れたのはまだあどけなさの残る顔立ちだった。
頭には犬のような耳が生え、その瞳には焦りが色濃く宿っている。
「任務を失敗するわけにはいかない……どうすれば……」
震える声でつぶやくと、懐から携帯端末を取り出して地図を表示する。
青く点滅する現在地を見つめ、小さく息を吐いた。
「たしかこの辺がヒスリーとの合流地点のはずだが……」
「ストレンお兄ちゃん!」
森の奥から駆け寄ってきたのは、小柄な少女だった。
彼女も同じ黒いローブをまとい、犬のような耳を揺らしながら兄のもとへ走ってくる。
「ヒスリー」ストレンは安堵する間もなく報告した。
「奇襲は失敗した。"災禍種殺し"がいる。なぜか目標を守るような動きをしていた。あいつがいる限り、奇襲は難しいかもしれない」
「お兄ちゃん、どうするの?」ヒスリーは不安そうに見上げる。
「“レクイエム”の命令は絶対だ。このまま帰るわけにはいかない。とにかく目標に張り付いて、隙を見つけるしかない」
「そんな隙を見せるような人なの?」
ストレンは苦々しく首を振った。
「無理だろうな。ほんの一瞬だけ接敵しただけで分かった。視界の外から音速を超えて飛び込み、俺の刃を止めた。あれは化け物だ。あいつが近くにいる限り、正面から仕留めるのは不可能だ」
ヒスリーも思わず息をのむ。
ストレンは同年代の中でも飛び抜けた実力者だ。
その兄がここまで断言する相手など、これまで聞いたことがなかった。
「じゃあ……私の魔法を使う?」
その言葉にストレンは少しだけ考え込み、静かにうなずく。
「ああ。ほんの一瞬、気をそらせればいい。お前の魔法で視界と意識を乱す。その隙に俺が目標の首を刈る。作戦と呼べるほどのものじゃないが、一度失敗した以上、もう後はない」
「……そう、だね」
ヒスリーは胸元で拳を握りしめる。
小さな肩は震えていたが、その瞳から迷いは消えていた。
「じゃあ、私も覚悟を決める」
ストレンは再び端末へ目を落とし、目標の位置を確認する。
「目標まで約三キロ。ヒスリー、この距離なら魔法は届くか?」
少女は口元に小さく笑みを浮かべ、自信ありげに親指を立てた。
「任せて。直接倒せなくても、相手を乱すくらいならできるよ。乱さないと、お兄ちゃんでも勝てないんでしょ?」
「ああ。勝機は、その一瞬だけだ」
兄妹は視線を交わすと同時にフードを深くかぶり直す。
そして森の闇へ溶け込むように駆け出した。
目標——グラドには、国によって位置特定用のチップが埋め込まれている。
それは一度でも罪を犯した者に対して施される管理措置であり、どこへ逃げようと所在を把握できるようになっていた。
ストレンは国から支給された携帯端末を取り出し、地図上に表示された赤い光点を見つめる。
「……あと一キロ」
光点はゆっくりと移動している。距離なら十分射程圏内だ。
「ヒスリー。魔法を——」
そう言いかけた、その瞬間だった。
ぞわり、と全身の毛が逆立つ。
「――っ!」
目の前の空気が爆ぜるように揺らぎ、次の瞬間には、一キロ先にいたはずのグラドが目の前に迫っていた。
「お兄ちゃん!」ヒスリーが悲鳴を上げる。
「ちょっと、おとなしくせいや。ぼうず」
グラドは豪快に笑うと、そのまま右拳を振り抜いた。
「――っ!」
ばかああああん!!
地面が爆発したかのような轟音が森中に響き渡り、土と石が舞い上がる。
衝撃波だけで木々が大きくしなり、視界は一瞬で土煙に飲み込まれた。
「ごほっ……!」
「きゃっ……!」
兄妹は反射的に腕で目を覆う。
砂埃が目に入るのを防ごうと身を縮めた。
——その時だった。
「動くな」
耳元で、氷のように冷たい声が響く。
いつの間にか土煙は晴れ、その背後には一人の少年が立っていた。
朔夜だった。
左右の手に握られたナイフが、それぞれストレンとヒスリーの首筋へぴたりと添えられている。
「少しでも動けば命はないと思え」
感情の一切を感じさせない声だった。
「俺は原罪種になろうとも構わない。だから、妙な気は起こすな」
その言葉を聞いた瞬間、ストレンの背中を冷たい汗が伝った。
——本気だ。
この世界では、人は他者を殺せば罪を背負い、原罪種となる。
そのため、人類は戦闘中であっても可能な限り殺害を避け、無力化や拘束を優先する。
それが常識だった。
しかし、この少年には、その常識がまるで存在しない。
首筋へ当てられた刃からは、一切の躊躇が感じられなかった。
ほんの数ミリでも動けば、そのまま喉を裂かれる。
そんな確信だけが、ストレンの全身を支配していた。
ヒスリーも息を呑み、一滴の汗を頬へ流すことしかできない。
「俺の質問だけに答えろ。お前たちはレクイエムか」朔夜の声は低く、感情の起伏がまるでなかった。
首筋へ当てられた刃は微動だにせず、わずかに呼吸を乱すだけでも皮膚が裂けそうなほど鋭く食い込んでいる。
「……」ストレンは答えない。
任務のこと、自分たちのことを話せば、どのみちレクイエムに消される。
この状況になった以上、助かる道はない。
「殺せ……俺たちは拷問されようが何も答えない」ストレンは静かに言い放った。
「そうか」朔夜は短く答えると、ストレンではなくヒスリーの首元へ当てていたナイフにゆっくりと力を込める。
ぷつり、と皮膚が裂け、細い赤い線が少女の白い首を伝った。
「っ……!」
「ヒスリー!」ストレンが声を荒げる。
「もう一度聞く。お前たちはレクイエムか」朔夜の声は先ほどよりもさらに冷え切っていた。
「お、おい朔夜……相手はまだ子供だぞ……」さすがのグラドも見ていられず口を挟む。
「グラド。こっちの男は、さっきあなたを襲った相手と同じ匂いがする。あなたを殺そうとした相手だ。覚悟くらいできているはずだ」
「だ、だけどよぉ……」グラドは困ったように頭をかきながら両手を上げる。
「もうちょっと穏便にいこうぜ。俺は気にしてねぇんだ」
「しかし……」朔夜もわずかに視線を揺らした。
目の前にいるのは敵だ。
だが同時に、まだ幼い兄妹でもあった。
その一瞬の迷い。
ストレンとヒスリーは互いに視線を交わす。
双子である二人は、言葉を交わさずとも意思を伝え合える。
——今しかない。
「……闇魔法『幻影結界』」ヒスリーが唇をわずかに動かし、小さく詠唱した。
「……!」その声は朔夜の耳にも届く。
反射だった。
迷えば殺される。
魔法がどんな効果か分からない以上、発動させるわけにはいかない。
たとえ原罪種になろうとも、生き残るためなら躊躇はしない。
朔夜は迷わずヒスリーの喉元へナイフを振り抜いた。
しかし——。
「……なっ」
刃は少女の身体をすり抜けた。
まるで霧でも切ったかのように、何の手応えもない。
次の瞬間、黒い霧が周囲へ一気に広がり、森全体を飲み込んでいく。
「これは……」朔夜は眉をひそめる。
魔法が使えない彼には、この現象が何なのか理解できない。
視界は急速に奪われ、音さえ吸い込まれていく。
その瞬間だった。
ぎいいん!!
鋭い金属音が森に響く。
いつの間にかグラドの背後へ回り込んでいたストレンの刃を、朔夜が寸前で受け止めていた。
「くっ……いつの間に……!」
舌打ちが漏れる。
これが魔法。
朔夜の世界には存在しなかった概念。
だからこそ、魔法を前提とした戦術が読めない。
どうしても一手遅れる。
だから朔夜は、敵に魔法を使わせる前に仕留めることを最優先とするはずだった。
だが、相手があまりにも幼かった。
そのわずかな迷いが、戦況を覆された原因だった。
ぎいいん!
再び刃がぶつかる。
黒い霧の中からストレンが唐突に姿を現し、一撃を放つ。
朔夜は現れた一瞬だけ見えた影を頼りに受け流す。
だが、次の瞬間には再び姿を消していた。
「女の子の方が魔法を維持しているのか……どこだ」
視線を巡らせる。
しかし黒い霧の向こうには何も見えない。
「朔夜」グラドが低く声を掛ける。
「これは闇魔法だな。認識阻害と消音効果がある。悪いが、俺にも対処法はねぇ」
「いい魔法だな。教えてほしいくらいだ」朔夜は軽口を叩く。
しかし、その表情に余裕はない。
笑い事ではなかった。
敵の姿が見えない。
それだけで暗殺者にとっては圧倒的な優位だ。
不意を突くことに特化した相手に、この闇はこれ以上ないほど相性がいい。
以前、フィアに魔法を教わろうとしたことがあった。
『ぜんっぜんダメ。才能の欠片も感じないわ』
そう一蹴されたことを思い出す。
結局、魔法は一度も使えるようにならなかった。
自分の性分にも合わない。
だが、ここまで戦況を左右されるのであれば話は別だ。
使えなくても、知識だけは身につけておくべきだった。
朔夜は心の中で小さく反省する。
———その時だった。
「雷魔法~……『サンダぁボルトぉ』」
間の抜けた、やる気の欠片も感じられない声が森に響く。
直後。
ばりばりばりぃっ!!
空気が裂けるような轟音とともに、無数の雷が黒い霧の中を駆け巡った。
気の抜けた詠唱とは裏腹に、その威力は凄まじい。
「だからぁ、魔法の勉強しなって言ってるんだよぉ、朔夜ぁ」全身に青白い雷をまといながら、ミントが霧の中から姿を現す。
肩まで伸びた髪を静電気でふわりと浮かせ、額から伸びる長い角には稲妻が絡みついていた。
「闇魔法って陰湿でめんどくさいけどぉ、範囲魔法でまとめて吹き飛ばしちゃえば関係ないもんねぇ」にへら、と場違いなほど気の抜けた笑みを浮かべる。
その瞬間、長い角が眩い白光に包まれた。
光は一瞬で膨れ上がり、昼間の太陽を思わせるほどの輝きを放つ。
「——ボルトノヴァ」
ミントが地面へそっと手を添える。
刹那。
かああああああっ!!
白銀の雷光が大地を奔り、半径数百メートルを飲み込むように爆ぜた。
闇を塗りつぶしていた黒い霧は一瞬でかき消され、森全体が昼間のような光に包まれる。
「ああああああぁぁぁーーーっ!」
どこからともなく少女の悲鳴が響いた。
光の中から転がり出るように現れたのはヒスリーだった。
全身から白い煙を上げ、苦しそうに喉を押さえている。
闇魔法が解除されたことで、ストレンの姿も同時に露わになる。
「しまっ――!」
ストレンが振り返った瞬間、朔夜はすでに地面を蹴っていた。
朔夜のナイフがストレンの首筋へ届こうとした、その寸前だった。
——カン、カン、カン、カン!
甲高い鐘の音が町の方角から森中へ響き渡る。
一度、二度ではない。
途切れることなく鳴り続けるその音に、朔夜のナイフがぴたりと止まった。
「なんだ……?」
一方、グラドはその音を聞いた瞬間、表情を強張らせる。
「これは……」大柄な身体が小さく震えた。
「アビスだ……」その一言を残すと、グラドは勢いよく地面を蹴る。
「お、おい!」
「グラド!」
朔夜の呼び止めにも一切反応せず、一直線に町の方角へ駆け出していく。
その背中を見た瞬間、朔夜は違和感を覚えた。
走り方がおかしい。
先ほどまでの豪快で力強い足取りではない。
何かに取り憑かれたように、何かへ引き寄せられるように走っている。
「は……はは……」グラドの口から乾いた笑いが漏れる。
「アビス……アビス、アビス……」
ぶつぶつと独り言を繰り返しながら、その瞳は焦点を失っていく。
「ハル……」その名を口にした瞬間、彼の声は震えていた。
「お前に会える……」
笑っている。
それなのに、その笑みには喜びも安堵もなかった。
「お前に会いに行くぞ……ハル……」
その瞳からは理性の光が完全に消えていた。
残っているのは、狂気にも似た執着だけだった。




