――第19話 新たな作戦――
「……」グラドの差し出した手を、朔夜は無言で見つめた。
黒く、ごつごつとした大きな手。
握り潰そうと思えば人間の骨など簡単に砕いてしまえるほどの力を秘めているだろう。
まるで巨大な類人猿のような姿をした原罪種。
しかし、その瞳には獣の狂気ではなく、確かな理性の光が宿っていた。
「はやいよぉ、朔夜。すんごいスピードで突っ込んでいくんだもん。ついていけないよぉ」少し遅れてミントがぱたぱたと駆け寄ってくる。
「ん?」グラドはミントの姿を見た瞬間、わずかに目を細めた。
「お前は……そうか」何かを悟ったように呟くと、再び朔夜へ視線を戻す。
「小僧、名前は何という?」
「朔夜。」
「朔夜か。聞きたいことがあるんだろう? 言ってみろ」
低く響く声と鋭い眼光。
その迫力だけなら大型の原罪種にも劣らない。
その様子を見たミントの背中を冷たい汗が伝う。
——罪を自覚させる。
それが今回の任務だ。
特異個体の原罪種は、自らの罪を認識していないことで混沌の呪いの発現を免れている。
しかし罪そのものが消えているわけではない。
認識されなかった罪は体内に蓄積され続け、本人がその罪を自覚した瞬間、一気に呪いとなって襲いかかる。
朔夜は、それを今からやろうとしている。
もしグラドが暴走すれば、この場は戦場になる。
ミントは静かに重心を落とし、いつでも戦闘に入れるよう身構えた。
「ミント」不意に朔夜が声をかける。
「な、なに?」
「事前に聞いていた人物像と違う。撤退するべきだ」
淡々と告げられた言葉に、ミントは目を丸くした。
「え……? でも、いいの?」
グラドが原罪種であることに変わりはない。
今は温厚で理性的に振る舞っていても、それが仮面である可能性はある。
凄惨な罪を隠し、機会をうかがっているだけかもしれない。
「グラド。あなたは恋人を殺した……そう聞いた。」朔夜は遠回しな言い方をせず、真正面から問いを投げた。
「そうだ」グラドは一切ためらうことなく答える。
「町で発生するアビスを狩り、その内臓を食している」
「そうだ」
淡々と事実だけが積み重ねられていく。
そのやり取りに緊張はあるものの、互いに感情をぶつけ合う様子はない。
朔夜はしばらくグラドの目を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「ですが、それ以外の"人"は殺していない」
それは質問ではなく、確認だった。
「……そうだ」グラドは短く頷く。
その返答を聞き、ミントがほっと息を吐いた。
「なるほどねぇ。グラドを孤立させるための情報戦だったのかぁ。でもこんな単純な誤情報をギルドが見抜けないなんてなぁ」不満そうに頬を膨らませる。
ほんの少し言葉を交わせば分かる。
この男は少なくとも無差別に人を襲い、快楽で殺戮を繰り返すような人物ではない。
「お前たちは俺をアビスへ堕とし、処分するために来たんだろう。確か……『レクイエム』だったか。原罪種の子供だけで構成された部隊。趣味の悪い組織だ」グラドはミントへ視線を向ける。
「ちがうよぉ。私はレクイエムのOBだけど、もう引退したの。今は隠居生活中なんだけど、無理やりサポートに駆り出されちゃってさぁ」ミントは人差し指を立てて笑う。
「私たちのことは『リベル』って呼んでねぇ」
「そうか……」グラドは納得したように息を吐く。
「最近、町を騒がせてる事件の犯人が俺だと睨んだ国からの依頼か。まあ、疑われるのも仕方ねぇがな」
そう言って笑ったものの、その表情にはどこか諦めにも似た寂しさが滲んでいた。
「まあ、せっかく来たんだ。飯でも食っていけ。この森なら鹿も熊もいくらでも獲れる。腹いっぱい食わせてやる」豪快に笑いながら、グラドは家の方へ親指を向ける。
「……」朔夜は黙って思考を巡らせた。
罠の可能性はある。撤退するべきか。
だが、ここで引けばグラドという人物を知る機会を失う。
仮に彼が事件の犯人ではないとしても、この町で何が起きているのか、その手掛かりを得られるかもしれない。
数秒の沈黙の後、朔夜は答えを出した。
「せっかくなので、ご馳走になります」
「ははっ! そうこなくちゃな!」グラドは豪快に笑い、二人を奥へ案内し始めた。
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「グラドはなんで恋人を殺したのぉ?」ミントが熊鍋をつつきながら、まるで世間話でもするような調子で尋ねた。
「嬢ちゃんはずいぶん遠慮がないんだな」グラドは苦笑する。
「町の連中は優しい。気を遣って誰もその話には触れねぇ」
「そんなに気にすることでもないしねぇ。でも、話したくなかったらいいよぉ」ミントは肉を頬張りながら、気楽に肩をすくめた。
「俺も聞きたい」朔夜も鍋から熊肉を取り分けながら口を開く。
「あなたはそんなことをする人には見えない。三年前、何があったのか。」
「……」
しばらく火のはぜる音だけが流れる。
その間も朔夜とミントは黙々と鍋を空にしていく。
肉がなくなればグラドが切り分け、新しい野菜を入れ、また二人が平らげる。その繰り返しだ。
「よく食うなぁ、お前ら」グラドは豪快に笑った。
「育ち盛りだ。遠慮しないで食え食え」
そう言って椀に肉を山盛りによそうと、自分はほとんど箸をつけず、静かに語り始めた。
「……ハル。俺の恋人だった女だ」その名前を口にした瞬間だけ、グラドの声が少しだけ柔らかくなる。
「俺があいつを殺したのは三年前。その頃、俺は"汚染"の呪いを研究していた。勤めていた会社は汚染に対抗する薬や魔法を開発する部署でな。危険な調査だったが、防護服も着ていたし、抗汚染薬も投与していた。対策は万全だった」
グラドは拳を見つめる。
「……それでも駄目だった」
低い声が静かな部屋に響く。
「調査中、頭の中にもう一人の自分が入り込んでくるような感覚があった。だが、その時は疲れているだけだと思った」グラドは目を閉じた。
「その日の夜、ハルと夕飯を食べていた。普通の、いつも通りの食卓だった」
そこまで話すと、一度言葉を切る。
「次に意識が戻った時には、強烈な空腹感だけが残っていた」
「ハルはいなかった。口の中には血の味と、臓物の臭いだけが残っていた」グラドは自嘲するように笑う。
「鏡を見たら、人間だった俺はこんな姿になってた」自分の巨大な腕を軽く持ち上げる。
「それ以来、あの空腹感に襲われることは一度もない。だが、俺がハルを殺した事実は消えねぇ」静かに視線を落とした。
「だからせめて、この力で人を守ろうと思った。アビスを狩り続けているのは、そのためだ」
「じゃあ、アビスを食べてるのは?」ミントが首を傾げる。
「……さあな」グラドは苦笑した。
「最初は倒した死体を片付けるつもりだった。でも気づいたら食っていた。それ以来なんとなく続けてる。理由なんて、俺にも分からねぇ」
鍋の湯気だけが静かに立ち上る。
朔夜は黙ってグラドを見つめていた。その横顔に浮かんでいたのは、疑いではなく、一人の男の言葉を見極めようとする静かな眼差しだった。
「この熊鍋はうまいな」朔夜は椀の中を見つめながらぽつりと呟いた。
「……レンジャー課程で自給自足訓練をしていた時に食べた料理と似ている。懐かしい味だ」
「そうかそうか。そりゃよかった」グラドは嬉しそうに笑うと、大きな手で朔夜の頭をぐりぐりと撫で回した。
「……やめてくれ」朔夜は抵抗するでもなく、小さく顔をしかめるだけだった。
「それで」頭を撫でられたまま、朔夜は話を戻す。
「町で起きている連続殺人事件について、何か心当たりはないか。グラドが無関係だとすると、犯人はあなたの模倣犯ということになる。しかも犯行は、あなたに罪を着せようという意思があまりにも露骨だ。だとすれば、あなたに恨みを持つ人物がいても不思議ではない」
「さあな」グラドは腕を組み、鼻を鳴らした。
「三年間、俺はアビスの奴らを何人も殺してきた。恋人、親、友達……俺を恨む奴なんていくらでもいるだろうさ」
少し間を置いて苦笑する。
「だが、自分もアビスになる覚悟で、俺に罪を着せるためだけに無関係の人間を殺すような馬鹿がいるとは思えねぇな」
「うーん」ミントが唸る。
「グラドの犯行に見せかけて大量殺人をする理由かぁ。しかも犯人はアビスになってない。特異個体なのか、それとも組織なのか……」ミントは朔夜へ顔を向けた。
「どうするのぉ?」
「……」朔夜は数秒考え込むと、静かに口を開いた。
「さっきグラドを襲った男を追う」
「え?」
「あいつは明らかに何かを知っている。捕まえて話を聞く」
「でも、もうずいぶん時間が経っちゃったよぉ?」ミントは首を傾げる。
朔夜は自分の鼻先を指で軽く叩いた。
「最近気づいたんだけどね。俺の鼻、警察犬並みに利くらしい。匂いは覚えている。完全じゃないけど、ある程度なら追跡できると思う」
「わぁ、わんちゃんじゃん」ミントは吹き出した。
「朔夜、犬似合うよぉ」
「褒めてるのか?」
「もちろん」
「そうは聞こえなかった」
そんな二人のやり取りを見て、グラドは豪快に笑う。
「じゃあ、今から追うのか?」
「ああ」朔夜は頷く。
「思ったより長居してしまったけど、まだ追えるはずだ」そしてグラドへ視線を向ける。
「あなたにも来てもらいたい」
「俺もか?」
「さっきの男の狙いはあなただ。なら、もう一度襲ってくる可能性が高い」
「囮にするってことだな」グラドは肩をすくめる。
怒る様子はない。
「そうだ」朔夜も隠そうとはしなかった。
「奴が現れたら、俺が捕まえる」
そして何事でもないように付け加える。
「目を離した隙に殺されると寝覚めが悪いからね」
グラドは一瞬きょとんとしたあと、大きく笑った。
「はははっ! ずいぶん変わった小僧だな、お前は!」
「じゃあ、作戦を伝える。それは——」
朔夜が二人を手招きすると、グラドとミントは顔を寄せた。
森を渡る風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが静かに響く。
朔夜は周囲を一度見回すと、誰にも聞こえないほどの小さな声で作戦を伝え始めた。
「……わかった」グラドは短く頷き、その口元に不敵な笑みを浮かべる。
「ふふっ、楽しくなってきたねぇ」ミントも悪戯を思いついた子どものように笑い、軽く拳を握った。
三人は互いに視線を交わし、それぞれの役割を胸に森の奥へと進んでいく。
こうして朔夜たちは、謎のローブの男を追い詰めるための追跡作戦を開始した。




